第125話 「屋敷との別れ」
急ぎ客間へと通された兵士には、ほどよく冷えた紅茶が振る舞われた。
熱くなった体と頭を冷ます役割もあるが、犬人間のコボルドは基本的に猫舌だという理由もある。
「ふぅ~。ありがとうございます。落ち着きました」
「うむ。では状況の説明を頼もうかの。ゆっくりで構わんから詳細に申せ」
客間に集まったのは、ルートミリアにアドバーン、ライトにアルボル、ミアキスと――――稲豊。つまりはナナを除く全員が、コボルド兵の言葉に耳を傾けていた。
「はっ! 事が起きたのは今から五時刻ほど前、“結界警備隊”の下へエデン国の軍使が現れました。軍使から渡された文には、アキサタナ=エンカウントの名でこう綴られていたそうです。『チャトゥラの月の二十四日、魔王国の地は紅に染まるだろう。我が赤軍の力は極めて洪大。降伏は受け入れるが、抵抗を見せるのならば容赦なく蹂躙し殲滅する。これは警告ではなく、宣告である』――」
コボルド兵が報告を終えると、ため息を吐く音がいくつか客間に流れた。
「“あの”アキサタナか。わざわざ日取りまで教えてくれるとはのぅ」
「それもまだ一月以上先の話ですからね。我々を完全に舐めているのでしょう」
小馬鹿にしたように笑うルートミリアと、少々の苛立ちを覗かせるライト。
稲豊は場違いな空気を感じながらも、皆に取り残されないために口を開いた。
「正々堂々な戦いを挑んでいるように聞こえますけど、アイツってそんなに真面目な奴でしたっけ? 俺のときは平気でふいうちしてきたんですけど……」
「恐らく“ハク”をつけたいのでしょうな。兵の数は向こうが圧倒的に多いうえ備蓄も豊富。姑息な手を使った勝利では称賛を得られないと考えたのでしょう。“勝てば官軍”のトロアスタよりも、よっぽど与し易い相手ではございますな」
アドバーンの説明に、稲豊は「なるほど」と頷いた。
だがそんなやり取りを聞いていたライトが、どこか困った顔を稲豊へと向ける。
「たしかに正面から迫りくる敵はやりやすい。――ですが、いま不利なのは明らかに我々の方です。一ヶ月先と言えば遠く聞こえるかもしれませんが、戦の準備をと考えれば全く時間が足りません。下手をすれば文に記されているように、魔王国はその日のうちに落とされるでしょう」
「え゛っ!? 魔王国ってそんなにやばかったの……?」
「正直に言って、いまの魔王国軍がエデン軍と正面から対峙した場合、勝てる見込みは“0”です」
困窮した魔王国の戦力事情。
それを初めて知らされた稲豊は、数秒で顔色を真っ青に変えた。
「話で聞くよりも己の眼で見たほうが実感も湧くじゃろう。という訳で、それぞれ必要な荷をまとめたら門扉に集合! 支度が出来しだいモンペルガへと向かう。当分の間この屋敷は空ける事となる。忘れ物のないようにな」
ルートミリアの指示に皆が了解の声を上げるなか、志門稲豊はというと――――
「…………戦争……」
ひとり呆然とした表情を浮かべていた。
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「とりあえず調理器具と着替えと、それからそれから……。ああくそっ! 頭が上手く働かねぇ!」
自室で荷をまとめていた稲豊は、後頭部を強く掻いて焦りを露わにした。
漠然と考えていた戦争というものが、いざ足音を近づけてきたのだ。一ヶ月の猶予など、いまの彼には無にも等しい期間だった。
「だって戦争ってなに? 必要な物ってなに? 俺はこの屋敷を離れたらどうなんの? 何をすれば良いの?」
湯水の如く湧き出る疑問を口にしてみるが、答えはもちろん返ってこない。
稲豊はうろうろと自室を彷徨ったのち、唐突に声を上げた。
「あ! ヒャクの木とレフトの帽子どうしよう!? いやさすがに木は無理か……。んでも帽子ぐらいなら持って行けるはず……。ああでも、今から山に登る時間はねぇ!? ど、どうしよう……!」
ついには頭を抱え込んだ稲豊。
するとそんな少年を救済するかのように、扉から二度ノックの音が響き渡った。
「は、はい! 開いてます!」
反射的に返事をした稲豊は、行き詰まった現状を悟られぬよう背筋を正すと、乱れた頭を手ぐしで軽く整えた。身だしなみを整えるのとほぼ同時に扉は開き、訪問者がその姿を露わにする。
「邪魔するぞシモン。王都へ向かう支度は――――まだのようじゃのぅ」
「いやぁ~その、正直なにをどう準備すれば良いものか分からなくて……。着替えや料理鞄は用意したんスけど」
「む? 他に何か必要かの?」
部屋に入ってきたルートミリアはベッドに腰を下ろすと、普段と変わらぬ様子で細く美しい足を組んだ。
「愛用の調理器具も数が多くて全部は無理ですし、参考書の数もそれなりに……。そんで何より、レフトの帽子をここに置いておくのが忍びなくて……」
稲豊は目のやり場に困りつつ、素直に彼女の質問に答える。
するとルートミリアはきょとんとした顔を浮かべたかと思うと、次の瞬間には小気味いい笑い声を上げた。
「すまんすまん! 妾の説明不足じゃったな。何も大切な物を全て支度する必要はないのじゃ。どうせ向こうで過ごせば必要な物は後から出てくる。今は簡単な支度で済ませ、あとでいくらでも取りにくればよい。今は簡単にここへ戻る方法があるじゃろう?」
「あ! なるほど!」
ポンと手を叩いた稲豊の頭に浮かんだのは、アリステラが移動に使う魔法陣。
彼女の『融合』の魔能を用いれば、魔法陣を描いた場所へ瞬きの合間に移動ができる。稲豊はつくづく魔神の規格外の力を思い知った。
「食材なんかも後で回収にくればよい。今はとりあえず城へ赴き、少しでも早く状況を把握することが大切なのじゃ。敵の――そして魔王軍のな」
「分かりました。俺はもう準備OK! いつでも行けます」
「うむ! では付いて…………いや、共に行こう」
微笑みをたたえたまま、ルートミリアはそっと右手を伸ばす。
稲豊はそんな彼女の手を取りながら、
『悪魔というより、天使みたいだ』
ふとそんな風に思った。
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荷物をまとめた稲豊とルートミリアが門扉に差し掛かったころ、一つの猪車が屋敷を経とうとしていた。
「ではアドバーン様、私は先に王都へ戻ります」
「ええ。我々もすぐに向かいますので、門番さんにはよろしく言っておいて下さい」
「はっ! 承知いたしました。アルボル、出せ」
簡潔に言葉を交わし、ライトの乗車する猪車は動き出す。
先導するのは、伝言を持って来た兵士が跨る猪。二頭の猪の姿は、三十秒もすれば木々に遮られ見えなくなった。
「アドバーン。準備のほうは滞りないかえ?」
「無論、問題ありません。むしろ問題が出るのは向こうに到着してからでしょうな。これからは忙しくなりますぞお嬢様。一ヶ月の間にやることは山盛りでございます」
「全て覚悟の上である。この日が来るのは、ずっと前から判っておったからな」
遠い目でエデンの方角を見るルートミリア。
稲豊は彼女の背負う物を考えると、居た堪れない気持ちになった。
するとそんな彼らの下へ、マルーの牽く猪車がのんびりとした動作で現れる。
「姫、頼まれた荷は全て積み終わりました」
「いつでも出発できます!」
御者台からはミアキス、猪車内からはナナが声をかける。
彼女らの言葉は、全ての支度が整ったことを意味していた。
いよいよ王都へ出発のときである。
「ご苦労。ではそうじゃの、マルーを門扉の外へ頼む。妾は結界を施してから乗車しよう」
「承知」
ミアキスが手綱から指示を送る前に、マルーは自分から門扉の外へと向かう。ルートミリアはその姿を見届けたあとで、鉄で作られた柵をしっかりと閉じた。稲豊がクロウリー家に来てから、門扉が閉ざされるのは初めてのことである。
「結界って、あの侵入者を拒むやつですよね? やっぱり魔法で作るんスか?」
「結界と一言でいっても、用途によってその作用は様々なのじゃ。今回、妾が使用するのはシモンが言った拒絶型、それと感知型じゃな」
「感知型?」
「うむ。拒絶型と違い、感知型は侵入者を拒む能力を持ってはおらぬ。その代わり、誰かが結界内に一歩でも足を踏み入れた場合、結界の作成者……つまりは妾じゃな。妾がたとえモンペルガにいようとも、それを察知することが出来る。実は感知型の結界はいつも張っておるのじゃが、気付かんかったかの?」
「ぜ、ぜんっぜん気付きませんでした。体に異変なんかもありませんし」
「ふふ、それで良いのじゃ。感知型は気付かれてはあまり意味がないからのぅ」
ルートミリアは結界についての講義を終えると、次に顔を門扉の右端へと向けた。視線の先は両開きの扉を支える石柱――――に掘られた魔王国の紋章である。彼女は紋章に人差し指をあてると、
「ルートミリアの名に於いて命ずる。ひとつ、望まぬ者の進入を拒絶せよ。ひとつ、触れし者の存在を報せよ。範囲は一反、期間は半年。礎として我が魔素を捧げる」
詠唱とも取れる言葉を告げた瞬間。
紋章が強く瞬き、藍色の光が屋敷一帯を覆うのを稲豊は視認した。
そして結界は徐々に透明へと変色していき、やがて誰の瞳にも映らなくなる。
「これで結界は完成じゃ。“特別な入り方”でもしない限り、敵が侵入することはまずない。妾が許可した者は問題なく通過できるので安心して構わんぞ?」
「はぁ~、なんか感動ッス。これって王都にも張られてるんですか? 以前マリーが“結界が弱まってる”って言ってましたけど……」
「王都……というよりは国全体じゃな。父上が月に一度、今のように魔素を注いでおったのじゃが……。燃料を焚べねば結界の維持は不可能、徐々にその力も弱まっておる。そして国を覆えるほどの結界は父上にしか作ることができない。父上さえおれば、アキサタナなどにこの地を踏ませる心配もなかったのだがな……」
寂しげな瞳を覗かせたルートミリアは、数秒後には面を上げる。
そして屋敷から目を離すと、猪車へ向けて歩きだした。
「…………魔王の存在……か」
彼女の背中を追いながら、稲豊はふと屋敷の方を振り返る。
少年の瞳に映るのは、夜の逢瀬に使用していたバルコニー。
稲豊はなぜかこのとき、
美しい蒼月に照らされたあのバルコニーには、
――――――二度と戻れない気がしていた……。




