第116話 「二人の主人と二つの願い」
蒼月に照らされたバルコニー。
簡素な椅子に腰かけていたルートミリアは、ワイングラスの縁をなぞりながら、“彼”の来訪を今か今かと待ちわびていた。
「お待たせしました」
そんな彼女の下に、一人の少年が姿を現す。
今回の事件での一番の功労者といっても過言ではない、志門稲豊だ。
「よい。彼奴らを撒くのは、骨が折れたじゃろ?」
「ええ、かなり……。その日の内にやってくるとは予想外でした」
苦笑いしながら、持参してきたヒャク酒をグラスに注ぐ稲豊。
もはや、それが当然の流れになりつつある。
「クリステラとアリステラに、留守番を頼んでいたマリーも加わって酷い状態でしたよ。厨房は戦場だって聞いたことがありますけど、まさかそれを体験するとは……」
「良くも悪くも賑やかな連中じゃからな。まぁ、シモンもミアキスも屋敷に残ることができたのだ、妾はこの結果に満足しておるわ」
「一時はどうなることかと思いましたけど、終わり良ければ全て良しッスね」
同時に笑みを浮かべる二人。
誰かと感覚を共有する心地よさは、二人の疲労を溶かしていく。
一頻り心地よさを堪能したルートミリアは、山なりだった眉をキリリと変えると、少し真剣な表情で口を開いた。
「アドバーンのことは許してやって欲しい。普段はそんな素振りを見せてはおらぬが、奴は奴で大変なのだ」
「大丈夫ッスよ。執事長が悪役を買って出るのも、ルト様の為なんだってわかってます」
「うむ。ときには情を捨てる覚悟も必要……、奴はそれを訴えておるのだ。優しさだけでは、魔王にはなれぬとな」
深いため息を吐くルートミリア。
情と立場の板挟みにゆれる心は、いまだ答えを見つけ出せずにいた。
魔王サタンは情に深いながらも、歯向かう者に容赦はしなかった。
たとえそれが“かつての仲間”だったとしても、躊躇なく屠ってきたのである。
そんな非情を、ルートミリアは持ち合わせてはいない。
「わかっている……わかってはいるのだ。非情さは魔王になるうえで必要不可欠。優しいだけの王に、民はついてはこない。理解してるつもり……だったのだがな。いざそのときが訪れたらダメじゃの、どうしても許したくなってしまう。アドバーンの期待には、応えられる気がしない」
そして再びのため息。
久方ぶりに弱音を吐くルートミリアの姿は、年相応の少女そのもの。
稲豊は本音を聞かせてもらったことに不謹慎な喜びを感じつつ、それを解消してあげたいと心から思った。
「……本当にそうッスかね? 俺の見解はちょっと違うんですけど」
「うん?」
俯きがちだった顔を少しあげ、上目遣いで稲豊を見るルートミリア。
「もし本当にアドバーンさんが非情なルト様を望んでいたのなら、ミアキスさんは今この屋敷にいないと思うんです」
「ふむ、それはつまり?」
「つまりこう言いたかったんじゃないでしょうか? 『非情になれないなら、別の手段もある』って。だからこそ、あえてミアキスさんを認める抜け道を用意してた気がするんです。ルト様なら、ちょっと厳しくも優しい魔王様になれる。そう信じてるんじゃないですかね? だって――俺がそうッスから」
稲豊の会心の笑みと言葉。
それはルートミリアの心を揺さぶり、蒼月に照らされた少女の頬を赤く染める。
「そ、そうかの? そこまで信頼されると、ちと照れるのぅ。う、うむでもそうか! たしかに天邪鬼なアドバーンなら、そんな意図を込めていてもおかしくはないな!」
ルートミリアは瞳を泳がせながら、顔面の熱を冷ますかのように冷たいヒャク酒をぐっと呷った。
そして、訪れるしばしの静寂。
ふいに流れた夜色の風が話題を運んでくるまで、二人は沈黙さえ楽しんでいた。
「おっと本題を忘れるところじゃった。今宵シモンを呼び出したのは他でもない、【魔神の舌】についてじゃ」
「魔王の持つ魔能なんですよね? なんで俺がそんな能力を持っているのかは分かりませんけど、だから魔王なんて悪い冗談ッスよ」
自分にかけられた疑いを、軽く笑い飛ばす稲豊。
しかし彼がいくら待てども、ルートミリアから愛想笑いが来ることはなかった。それどころか、真剣な表情で月を見つめ、物思いにふけっている。
そんな彼女が唐突に、
「シモン。妾にはあの二人の気持ち――いや、考えが分からんでもないのだ」
クリステラとアリステラを肯定する言葉を口にした。
驚きに目を剥く稲豊に、ルートミリアはさらに続ける。
「人間が魔能を持つなど聞いたことが無いし、父上がいなくなるのと同時にシモンがこの世界にやってきた。そしてなにより、父上と関係が深かった者、皆がお前を慕っている。妾とて最初にお前を見たとき、他人のような気がしなかったくらいじゃ」
「そ、それじゃルト様も俺が魔王だって言うんスか?」
「……いや、妾はお前を父上じゃとは思っておらん。“父上とは”……な」
意味深な台詞をこぼしたルートミリアは、物憂げな表情で月から目を離さない。
彼女のどこか悲しげな瞳は、稲豊から言葉を奪っていった。
「そう遠くない未来、恐らく魔王国はエデンと衝突する。小競り合いなどではない、本物の戦争だ。そのとき、妾は王城へと赴くだろう。その際はお前にも同行してもらうぞ」
「俺が……城へ?」
「そこで話したいことがあるのだ。きっとそれは、お前がこの世界に転移した事と関係がある話になると思う。覚悟だけはしておいて欲しい」
ルートミリアは一方的に告げると、ワイングラスを持ち腰を上げる。
「今日はもうですか?」
「うむ。昼にも飲んでおるし、それに――――」
そこで言葉を止めた彼女が目を向けた先は、バルコニーの入り口。
その横に立つ柱である。
「あ」
ルートミリアの視線に誘導された稲豊が見たのは、柱の向こう側から覗く金色の髪の毛だ。誰かが居ることは明らかであったし、それが誰であるかも一目瞭然であった。
「ここに来る前に部屋で会ったのじゃが、過去を包み隠さず話してくれた。全てはシモンの力があればこそだ、やはりお前を頼って良かった」
「いやいや、皆がいてくれたからですよ。俺一人だったら、どうしようもなかったと思います」
「ふふ、謙遜するでない。……さて、これ以上を待たすのは忍びないな。妾は交代といこう」
軽く手を振りながら、バルコニーを去っていくルートミリア。
そして「また明日」という二人の挨拶が終わると同時、白のTシャツに水色のショートパンツ姿のミアキスが稲豊の前に姿を現した。
「邪魔をしただろうか?」
不安げに訊ねるミアキスに、稲豊は「まさか」と笑顔で返す。
ホッと息を吐いたミアキスは数歩進んで足を止め、どこか落ち着かない様子で右頬を掻いた。
「話が終わるまで待機するつもりだったのだが、姫には気を使わせてしまったな」
「それもルト様の良いところですから――――って、あれ? それは」
「あ、ああ……これか」
稲豊が気付いたのは、ミアキスが脇に抱えていた狼のぬいぐるみだ。
それはレクリエーションのときに稲豊が手渡した、あの景品に違いなかった。
「一人で待つのもあれだったからな、“イナフ”と待っている方が、退屈も紛れるかなと思ったんだ」
「イナフって、もしかしてぬいぐるみの名前ッスか?」
「イナホがくれた狼だから……。へ、変だろうか?」
「い、いえいえ! とても良い名前だと思いますよ!」
稲豊の言葉に「良かった」と返事したミアキスは、さも嬉しそうに“イナフ”の頭を撫でる。その姿を見た稲豊は『作って良かったなぁ』と思う反面、少しぬいぐるみを羨ましくも感じていた。
「それでだな少年。今回のことで我は少年にとても世話になった、だから何か礼がしたいんだ。欲しいものや、して欲しいことは無いだろうか?」
「良いッスよべつに。俺自身がミアキスさんに戻ってきて欲しかっただけなんですから。貴女が今この場にいるだけで、俺は嬉しいんです」
「しかし、それでは我の気がすまない! 恩人に礼すら返せなくては、人狼族の名が廃ってしまう。だから我のことを想うのなら、何か願いを言ってくれ。今なら、どんな願いでも叶えると誓おう!」
「……どんな願いでも?」
一瞬にして、ピンク色に染まる稲豊の脳内。
そこでの彼は、あられもない姿でベッドに横たわっていた。
「じゃ、じゃあ一つだけお願い……良いですか……?」
「ああ。なんなりと言ってくれ!」
ゴクリと喉を鳴らした稲豊は、ミアキスの体に視線を這わした。
可愛らしく触り心地も良い犬耳に、グラマラスな肢体。そしてスポーティな服装は、少年の欲情を煽るには充分すぎるほどの魅力を持っていた。
いくつもの卑猥な願いが稲豊の頭を右から左へ駆け抜け、少年を悩ませる。
今のミアキスならば、そんな願いでも叶えるだろうという確信が、彼の悩みに拍車をかけていた。
「じゃあ……その……」
そしてついに稲豊は決断する。
彼が吟味に吟味を重ねて導きだした結論は――――
「……俺のこと、名前で呼んでもらってもいいッスか?」
ヘタレの名に申し分ないほど平凡なものであった。
「名前で呼ぶだけか?」
「実は“少年”って呼び名、子供みたく思われてるみたいで、少し嫌だったんですよ。だから名前で呼んでもらったら、すごく嬉しいかなぁ――なんて」
「そうか、では……イナホ料理長。コックとして全く未熟な我だが、これからもよろしく頼む」
「気恥ずかしいんで、“イナホ”だけでいいッスよ」
軽い笑みをこぼしながら、熱い握手を交わす二人。
ミアキスは稲豊の手を握りながら、その華奢な手を守りたいと心から思った。
「姫は『大きな戦争がある』と言っていたが、安心してくれていい。しょうね……イナホは、我が身に換えても守ると誓う」
「女性から守ると言われて、少し嬉しい自分が悲しい……。って、俺とルト様の会話、聞こえてたんスか?」
稲豊の疑問に、『しまった』といった顔をするミアキス。
「近くにいればどうしても聞こえてしまうだけなんだ! 決してイナホや姫の会話を盗み聞きするつもりなんかじゃ――」
「はは、分かってますよ。俺はただ人狼族の耳ってやっぱ凄いんだなぁって思っただけで」
困り顔であたふたとするミアキスは、普段の凛々しさとのギャップも相まって可愛らしく、Sの稲豊にはグッとくるものがあった。
「――ん?」
だがミアキスの魅力を堪能する前に、稲豊の頭にふいに何かが引っかかった。
そしてそれは、パズルのピースを当てはめるかのように、脳内の額縁にパチパチと組み上がっていく。
「どうしたイナホ?」
いきなり険しい表情に変わった稲豊の顔を、ミアキスは心配そうに覗き込む。
すると稲豊は、思考するために脇に外していた視線を正面へと戻し、組み上がった理論を確認するべく口を開いた。
「ミアキスさんがトロアスタの密会を目撃したとき、それは何をしているときって言ってました?」
「四年前の話か? 急にどうしたんだ?」
「すみません、ミアキスさんにとって辛い過去であることも分かってます。でもどうしても知りたいんです!」
「一度話した内容だ、それは別に構わないが……。えっと日課の鍛錬に勤しんでいるとき、声が聴こえてきたんだ。そこは普段、誰も通らない場所だったから、変だと感じ近寄った訳だな」
ミアキスの返事を聞き、稲豊はさらに考え込む仕草をみせる。
そしてしばらくの沈黙の後に、真に迫った顔をミアキスへと向けた。
「オサが密会を見たのも“日課”の散歩中でした。いやそもそも、『大参謀』とまで謳われた人物にしては、あまりに迂闊すぎると思いませんか? 聞かれてはいけない話を、聞かれてはいけない者に聞かれている。まるで……」
そこで稲豊は一旦、言葉を止める。
そして深呼吸をした後で、
「まるで……密会を……わざと見せつけてるような……」
と、完成したパズルの答えを口にした。
面食らった顔に変わったミアキスは、驚愕の表情で稲豊に詰め寄る。
「し、しかし……万が一それが真実だとしても、何のために? 我やオサに行動を起こさせることに、何の意味があると言うんだ? 奴らは人狼族を人間にけしかけ、最終的にどちらも排除しようとしたのではなかったのか?」
「もしかすると、たとえ人狼族を利用したのだとしても、人間を虐殺することには抵抗があったのかも知れません。だから正義感の強いミアキスさんに目をつけた。ミアキスさんなら、人間を匿うと計算していたのかも……」
「……あの男に、そんな慈悲の心があるとは……とても信じられないな」
否定の言葉を吐きながら、ふいと顔を横に逸らすミアキス。
同胞の仇に利用されたことも気に入らないが、それ以上に慈愛の心があることが許せない。
『憎むべき敵は、血も涙もない存在であって欲しい』
そんな願望を彼女が抱くのは、復讐を望む者の挟持かも知れなかった。
「確証もないのに、空気の読めないことを言ってスミマセン! お詫びと日頃の感謝も込めて、何か俺に言ってください。言うこと何でも聞きますから!」
機嫌を損ねたことを察した稲豊は、両手を合わせて頭を下げる。
するとミアキスはぷくっと膨らませた左頬をもとに戻し、
「ふふ、冗談さ。別に怒っちゃなんかいない。我はもう迷わないと決めているからな、姫や仲間を信じて突き進むのみだ」
笑顔を覗かせながら、もう一度イナフを撫でた。
「だがその……頼みが無いわけではないんだ。イナホが嫌だったら、断ってくれても全然かまわない……んだけど……その」
言い淀んでいるミアキスに、稲豊は「何でも言ってください」と力一杯に背中を押す。するとミアキスは時間をかけて覚悟を決め、意を決したように口を開いた。
「オサやイナホのおかげで、我の心はかなり軽くなった。だが、仇を取るまでは悪夢が消えることはないらしい。聞こえるんだ、心の中でする悪夢の息遣いがな。今夜あたり、来るような気がする」
そこまで言ったミアキスの顔は、途端に赤く染まっていく。
その先を口にすることが、どうしようもなく恥ずかしいのである。
「そこで……だな、我は思い出したのだ。里帰りの道中、イナホに頭を撫でられたときの安眠を。あの夜だけは、いつも恐怖していた悪夢の足音が聴こえなかった。だからその時々でいいから……ナ、ナデナデしてくれたら……う、嬉しいなって」
真っ赤になった顔をイナフで隠して話すミアキスの願いは、後半に進むにつれ小さくなっていく。最後の方など、聞き取るのすら難しいほどである。しかし気合で内容を理解した稲豊は、その愛らしさにときめきすら覚えていた。
強く逞しい美女が稀にみせる弱み。
稲豊は心の中で、その破壊力に悶えながら言った。
「い、いいッスよ! いま俺の部屋にはマリーあたりが張り込んでいると思うので、ちょうど良いかも知れません」
OKを貰ったミアキスの顔はパァっと明るいものとなる。
嬉しくて嬉しくて堪らない。嬉々とした想いが、ダイレクトに伝わる笑顔だった。
――――すると、
そんなミアキスの想いが、彼女の体の一部を左右へと動かす。
それは、本人の意図していない動きに違いなかった
「ミアキスさん、それって!」
当然ながら、“それ”は稲豊の視界に触れる。
気恥ずかしさから隠していたミアキスだったが、バレてしまっては仕方がない。
「実はさっき姫の部屋に行ったとき、修復魔法で治してもらったんだ」
白状するミアキスのショートパンツの後ろからは、復活した金色の尾が飛び出し、パタパタと左右に踊っている。
「でも、どうして急に? 四年間も無いままにしてたんですよね?」
「うん? そんなの決まっているじゃないか――――」
するとミアキスは、その両腕で狼のぬいぐるみをギュッと抱きしめ、
「尾を振りたいと心から思える、“二人”の主人がいるからだ」
先ほどにも負けない、眩しい笑顔で言い放ったミアキス。
そんな彼女の微笑みを見て、稲豊は心が洗われるような清々しさを覚えていた。
腑に落ちない点がある。
解決できない謎がある。
しかしそれが何だというのか。
大切な人の幸せそうな顔、それ以上に望むものなんて何もない。
稲豊は再び見ることが叶ったミアキスの笑顔を眺めながら、ハッピーエンドの喜びを噛み締めていた。




