第112話 「野郎にはもう二度とやりたくない」
「あんまり野郎にはやりたくないんだけどな」
そんな愚痴を零しながら、腰掛けるネロへと歩み寄る稲豊。
「…………何のことを言っている?」
怪しく近寄る稲豊を、普段のネロであれば警戒の色で一蹴するのは造作もない事であった。しかし今の彼は憔悴しきっており、お世辞にも冷静と言える状態ではない。それが故に、稲豊の“奇行”に反応するのがワンテンポ遅れたのである。
「ベロっとな」
「……は? うわぁ!!?? な、ななな何をするっ!!!!????」
ネロは自らの頬を這う生々しい感触に、悲鳴にも近い声を上げる。
そして転げ落ちるように椅子から地面へと避難し、稲豊から数メートルの距離を取った。
「なめただけで大袈裟な奴だな」
「いや……けっこう普通の反応だと思うぞ?」
やれやれと首を振る稲豊に、引き気味のパイロから突っ込みが飛ぶ。
“神の舌”を知らない者からすれば、それは奇っ怪な行動にしか映らない。いや、その存在を知っている者ですら、今回の稲豊の行動には目を丸くし驚きを隠せないでいた。
「説明するとだな、俺は舌で触れた物の状態を知る特別な才能があるんだよ。料理ならどんな食材を使っているのか直ぐに判るし、それが生き物ならどんな想いを感じているのか伝わってくる」
「想いが伝わる? では、ネロの心を読んだということか?」
「心を読むっていうより、感情を読むって感じですね。なんていうか、その者の内なる想いが伝わるというか」
クリステラからの質問に、稲豊は少し控えめに答えた。
稲豊自身も神の舌について完全に理解している訳ではないので、ふわふわとした説明をするしかないのだ。彼がこの能力について、絶対の自信を持って言えることはたったの一つ。発揮する力の絶大さ、その一点である。
「俺の“舌”によると、ネロが抱いている想いは驚愕、焦燥、自尊心、嫉妬、絶望。それと――――母親への、惜しみない愛情」
「愛情?」
稲豊の発した言葉を、ナナが複雑な表情で復唱する。
その顔は、『愛情があるならなぜ凶行に走ったのか?』。そんな疑問を顕著に示していた。
「その理由は本人に語ってもらうしかないな。……いい加減に教えてくれよネロ。お前だって家族と不仲なままじゃ嫌だろ?」
「余計な世話だ。他人の貴様にどうこう言われる筋合いはない」
「……本当に素直じゃねぇな。仕方ない、ちょっと耳貸せ」
稲豊はどっかとネロの隣に腰を下ろすと、警戒をする青年の耳元に顔を寄せ、彼だけに聞こえように囁いた。
「俺の舌は、心に固くしまいこんだ想いでも残さず掬い取る。つまり、お前が抱いている“もう一つの愛情”だって俺には伝わっているんだよ」
「――――――――え?」
ネロの顔色が再び青くなり、その頬は小刻みな引き攣りを見せている。
口は『まさか』という言葉の動きをし稲豊への疑いを露わにするが、それは数秒間の拙い抵抗であった。
「ネロ、お前さ……………………ルト様のことが好きだったんだな」
「ぐわああぁあああぁぁぁああぁぁああああ!!!???」
核心を突く囁きに、ネロは大きな声を上げて悶え頭を抱える。
当然、皆が奇異の眼差しを青年に向けるが、彼にとってそれどころではない。
「おかしいとは思ってたんだよ。お前が料理勝負を持ち掛けたとき、なんでお前の望みが『俺がクロウリー家を去る』だったのかさぁ。だって普通に考えれば、俺がクロウリー家を去ったところで、お前には何のメリットも無いもんな」
「あ……いや……う…………」
「嫉妬してたんだよな? ルト様の料理人になった俺にさ?」
「や、やめろぉぉぉ!!!!」
ゲスな顔をする稲豊の腕を乱暴に掴み、皆から距離を取ったネロは、
「馬鹿を言うな! 一介の料理人である僕が、姫に恋慕するなどある訳が無いじゃないか! お、恐れ多い!!」
と小さな声で早口に捲し立てる。
だが、幾ら彼が否定の言葉を並べようとも、神の舌は絶対であり決して嘘などついたりしない。稲豊はもう一度「素直じゃないな」と口にすると、打って変わった真剣な顔をネロへと寄せた。
「この際、大切なのはそれが嘘か誠か? ――――じゃあない。俺の能力をルト様が信頼している点にある」
「ど、どういう……意味だ……?」
「つまり、俺が『ネロは貴方を愛してます』とルト様に伝えれば、彼女は迷うこと無くそれを信じるということだ」
その未来を想像してしまったネロは、信号機よろしく顔色を青から赤に変えた。
『そんな事になったら、もはや自決する他ない』
恐ろしい演算速度でそう結論付けたネロは、真っ赤な顔で稲豊に縋り付いた。
「待てぇ! 頼むからそれだけは勘弁してくれ! な、何でもするから!!」
「ならどうしてあんな事をしたのか言え。俺はオサとパイロの為にも、どうしてもそれが知りたい」
「ぐっ……!」
しばらく悩む仕草を見せていたネロは、やがて観念した表情で立ち上がると、乱れた眼鏡を直しつつ家族の下へと歩み寄った。
そして何処か緊張の面持ちの父と兄へ向けて、
「どうしても……料覧会を成功させなくちゃいけなかったんだ……」
そう言葉を切り出した。
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「あの日……父さんと兄さんが寝室を出て少し経った頃、母さんは一度だけ意識を取り戻した」
覚悟を決めたはずのネロの瞳は、暗く静かに沈む。
当時を思い出すだけで、茨の棘に触れたような痛みが青年の心臓を苛むのだ。
だが、それでもネロは前を向いた。
今を逃せばもう素直になる事は出来ない。そんな考えが彼を動かしたのである。
「母さんは目を覚ますなり言ったよ。『明日……お城で大切な用があるんだろう? こんな所に居てはダメじゃないの』――って。病魔のもたらす苦痛に耐えながら、衰弱しきった瞳を浮かべながら、それでも母さんは僕の心配をしていたんだ」
過去を語るネロの声は、次第に弱々しいものへと変化を遂げる。
瞼の裏に焼き付いた当時の光景が、容赦なく映像となって再生され、その度に力を奪いとっていくのだ。
「母さんが最期に言った台詞は、『ルートミリア様についていきなさい。あの方ならば、きっと人と魔物にとって正しい道を選んでくれる』だった。その言葉を聞いた瞬間、僕は何が何でも料覧会を成功させなければと思ったんだ」
苦しげな顔をするネロは、「だってそうだろう……?」と誰にともなく問い掛ける。
――――そして、
「もしそこで僕の料理が失敗をすれば、ルートミリア様の名に傷がつく。それだけじゃない! 母の病死が万が一にも貴族たちの耳に届いたりしたら、彼らの中には“母のせい”で失敗したのだと考える者も出るかも知れない!! それだけは、そんなことだけは絶対に言わせる訳にはいかなかった!!」
思いの丈を吐き出すネロ。
爆発した感情の波は、もはや誰にも止めることは出来ない。
「ああ! 自分が間違ってることなんて分かってたよ!! だけど、何としてでも料覧会を成功させたかったんだ。『天才を産んだ偉大な母』だと、母さんを褒めて欲しかった!! 母さんの認めたルートミリア様に、王になって欲しかった……」
そこからは言葉にならなかった。
全てを吐き出した青年は、肩で息をしながら眼鏡を外すと、疲れきった顔で天を仰いだ。その仕草はまるで、天に昇った彼の母を探しているかのようでもあった。
「…………馬鹿もんが」
静かになったエルルゥ家の庭に、オサの小さな一括が飛ぶ。
「母を愛するあまり、称賛を求めた気持ちは分からんでもない。――だが、名も知らない他人の評価にどれほどの価値があると言うんだ。我が妻は世界で最高の妻であり、最高の母であった。誰がなんと言おうと、それは絶対に変わらん」
父の言葉を聞き、見上げていた顔をゆっくりと戻すネロ。
その表情は、どこか呆然としたものだった。
「親父の言うとおりだ。お前は他人の目を気に過ぎてんだよ、このマザコンが」
「マザ……!? か、家族を想いやる気持ちは崇高なものであって、それは決して貶されるような行為ではない事を僕は声を大にして言いたい!」
実の兄にからかわれ、ネロは大量の汗を流しながら反論した。
その“兄弟”を匂わせるやり取りは、場の空気を少し和ませる。
「ミアキス様にルートミリア様、そしてクリステラ様にアリステラ様。倅がご迷惑をお掛け致しました……。腐った性根はワタシが叩き直しますので、この男の馬鹿な行いをどうか許してやってはいただけないでしょうか? どんな償いでもさせます。ですから、どうかご容赦を! ほら! お前も頭を下げないか!!」
「痛たっ! も、申し訳ありませんでした!!」
オサに頭を押さえつけられたネロは、痛みを訴えながらも謝罪する。
「アリステラは別に気にしてませんわ。敗北は少し癪ですが、それ以上に得るものがありましたので」
「私はまだまだネロを許す気はないな。ミアキス様を辛い目に合わせた分、その根性を鍛えなおしてやる」
双子の王女の言葉を聞き届けた親子は、次にルートミリアの方を向いた。
場の空気に反応を求められた彼女は、数秒ほど親子の姿を眺めた後、
「償いはいらん。どうやら、その男の行いは妾の為でもあったようじゃからな。監督責任を問われるのならば、妾も同じこと。…………ネロよ、先刻の言葉は取り消そう。今回はともかく、昔のお前は我が身可愛さではなかったようじゃの」
「あ、ありがとうございます……!」
頭を下げた状態のネロは顔を歪め、瞳に涙さえ滲ませる。
それは決して、頭を押さえられている痛みの所為ではなかった。
「ミアキスよ、お前はどうしたい?」
「我の心は貴女と共に、姫が許すのであれば、それが我の考えです」
「うむ、愛いやつよの! ではこれにて一件落着というやつじゃな!」
ルートミリアの音頭で、場は一気に弛緩したものとなる。
面を上げたネロは父と兄にも謝罪し、愛のある説教中。
ナナは再びミアキスに駆け寄り、花咲くような笑顔を浮かべている。
アドバーンは帰り支度を再開し、クリステラは使用人に会場の片付けを指示していた。
――そして、志門稲豊はというと、
「ミアキスさんも戻ってくるし、オサとパイロの憂いも解消! あ~安心したらなんか腹減ってきたなぁ」
安堵の声を出し背筋と腕を伸ばした彼は、腹の虫の訴えに今更に気が付いた。
「アリステラの残りでよろしければ、召し上がりになられますか?」
腹の虫の合唱が届いたのか、アリステラがスープ皿を稲豊に差し出す。
その中には、ネロ渾身のシチューが揺らめいている。少量ではあったが、それは稲豊の喉を鳴らすには充分な力を持っていた。
「いやぁ~あいつの料理を食ってみたいと思ってたんで、願ったり叶ったりッスよ! それじゃ、遠慮なくいただきます」
アリステラに皿とスプーンを手渡された稲豊は、喜々としてスプーンをシチューへと潜り込ませる。そして掬い上げると、味を確認するべく中身を舌の上へと流し込んだ。
「…………ん?」
その瞬間。
“神の舌”は、すかさずスープの成分を分析し、結果を脳へと伝えた。
稲豊が驚愕し目を見開く事となったシチューの内容物、それは――――――
『毒』
口を右手で押さえ、シチュー皿と共に地面に崩れ落ちる稲豊。
彼の瞳には、口角を持ち上げるアリステラの姿が焼き付いていた。
解毒の魔法は…………存在しません。




