第8話 「益虫だよな、えきちゅう――――ああやっぱ無理!!」
無理やり詰め込まれた馬車の中で、稲豊を含めた三名に会話はなかった。
舗装もされていない道で、さぞかしハードな旅路になるかと稲豊は予想していたが、馬車の内部には驚くほど揺れがない。それが魔法の力だと気づいたとき、稲豊は便利な力もあったものだと舌を巻いた。しかしそれが故に、馬車内部に沈黙が生まれてしまう。
しばらく沈黙に堪えていた稲豊だが、やがて耐えきれなくなり口を開いた。
「えーと、それでいま……俺たちはどこに向かっておられるのでしょうか?」
「妾の屋敷じゃ」
慣れない敬語で話しかけた稲豊だったが、返答は要領を得たのか得ないのか分からない。分かるのは腕と足を組むルートミリアの、態度の大きさだけである。
「ここから一刻ほど離れた場所にある、姫様の屋敷のことだ。森の中の辺鄙な所ではあるが、屋敷自体には色々と揃っている。不便はないだろうから、安心するといい」
そう補足するのは、ルートミリアの隣りに座る金髪犬耳の美女だ。
自己紹介はまだなので、稲豊は彼女の名前をまだ知らない。
非人街でいきなり勧誘を受けた後、二人は稲豊の返事を待つ事無く、あっという間に馬車に拉致したのだ。
「荷物だけは! 持ってきた荷物だけは~!!」そう叫ぶ事により、何とか料理鞄とタッパーを確保出来た少年は安堵した。コレが無ければ、白い服着た変な人でしかない。
稲豊が車外に視線を走らせると、王都モンペルガはもう見えなくなっている。
その王都の名前も、つい今し方聞かされたばかり。やはり彼には聞いたことも無い都市の名である。異世界に来たのだと稲豊は改めて実感した。
ふう。と軽くため息を漏らした稲豊が正面を見ると、物思いに耽る美少女が視界に飛び込んでくる。
ルートミリアはあの野暮ったい黒ローブを脱ぎ、今は白を強調するブラウスに、藍色のミニスカートといった服装だ。そのスカートから伸びる、細くしなやかな白く美しい足は最早芸術の域である。胸の方の発育はあまり良くなさそうだが、隣に座る金髪の健康的な美女とはまた違う魅力がある。こうして見ていると、稲豊には人にしか見えない。
実に嬉しい状況ではあるが、今の状態を考えると素直には喜べない。
このまま身包み剥がされて殺される可能性もゼロでは無いのだ。しかしルートミリアの力はもう見た。今更どう抵抗しようが運命は変わらないだろう。「だったらポジティブに今の状況を楽しんでやろう」。稲豊は頭を切り替える。
一時間程馬車に揺られただろうか……。
馬車は鬱蒼とした森の中に突入し、その木々が急に開けた場所にある、目的の屋敷に辿り着いた。鞄とビニール袋を持って稲豊は馬車の外に出る。
「はぁ~」
今度は感嘆のため息が稲豊の口から自然と漏れ出る。
他を圧倒する豪勢な二階建ての屋敷が、稲豊の目の前にデンと聳え立っていたのだ。やはりその様相は西洋風である。
「まるで弟○草の屋敷だ」
稲豊は昔なつかしのサウンドノベルに思いを馳せる。
だが残念なことに、それをプレイする機器はこの世界には無いのだが。
彼が振り返ると、馬車を引っ張っていた生物と視線がぶつかる。
猪に良く似た生物は巨大な鼻をブルルと鳴らし、その鋭い目つきで稲豊を睨んでいる。
――――そう。
この異世界に来た直後に彼が遭遇した、跳ね飛ばされそうになったあの猪だ。
猪はプイと目を逸らすと、屋敷の裏手に姿を消した。
「案内しよう」
「あっ、どうも」
金髪の女性に声を掛けられ。
稲豊は日本のサラリーマンよろしく、腰を低くしてその後姿を追った。
「――すげぇ」
内部を見て更に少年は感動する。
広大な吹き抜けのホールに、正面で存在感を放つ大階段。床には赤い絨毯が敷き詰められている、まるで映画のセットである。
「妾は自室にいる」
「では準備が整いましたら」
「うむ――ではまた後でな」
ルートミリアとはここで別れるらしく、彼女は大階段の奥へと姿を消す。
「その荷物はここに置いていて構わない。後で返そう」
「あっ、はい」
稲豊は言われた通り、鞄とビニール袋をその場に下ろす。
もしコレを奪うつもりなら、もうとっくに奪われているだろうと少年は考えたのだ。
金髪の女性に案内されるままに、彼はとある大きな扉の前まで誘導される。
「随分と風呂に入っていないだろう? 先にここで身体を綺麗にすると良い」
「あ、ありがとうございます。頂きます」
「ああ、勝手は分かるか? そうだ、なんなら我が身体を洗ってやろう」
「大丈夫ですぅ! お構い無く!!」
金髪の女性がごく自然にその大きな扉に手をかけるが、稲豊はそれを全力で制止する。女性は「そうか」と少し残念そうに呟くと、風呂から上がったらまた声をかける。と、立ち去っていった。
「――――心臓に悪いな」
稲豊自身も少し残念ではあったが、女性に背中を流されても平気なほど大物ではない。彼は深呼吸で心を落ち着かせ、大きな扉の中に一歩踏み出した。
「うおおおおぉぉぉ!」
脱衣所で服を脱ぎ、浴場に踏み込んだ稲豊は、今日何度目かの感嘆の声を上げる。
豪邸はやはりその身を清める場所も豪勢だった。稲豊はここ数日分の垢を落とした後、広い湯船にダイブする。
湯の加減も丁度良く。『家にガスも無さそうなこの世界で、どうやって湯を沸かしたのか?』そんな疑問すら洗い流すほどに気持ちが良い。稲豊はあまりの心地良さに随分の長湯をしてしまう。彼が湯船から上がった頃には、肌が赤くなっていた。
「あれ?」
棚に積まれているバスタオルの中から一枚を拝借し、水分を拭き取る稲豊が見たのは、自分が脱いだ服を置いた場所だ。脱いだ筈の服はどこかに消え、薄手のシャツと短パン、柄物のパンツに成り変わっている。どうやら誰かが替えの服を用意してくれたようだ。稲豊は置かれていた服に着替え、廊下に出る。
「へぇ~」
先程ここまで歩いた時には気付かなかったが、少し余裕の生まれた今の稲豊には見えた。廊下の壁、扉よりも少し高い位置に淡い橙の光を放つ石がある。それは等間隔に並び、本来暗い筈の廊下を優しく照らす。どうもこの世界の石には色々な役割があるようだ。もしかすると、風呂も石の働きが大きいのではないか? と、幻想的に光る石を眺めながら、稲豊はぼんやり浴場を思い出した。
「あ、あの」
「――――うん?」
どこからか、か細い声が稲豊の耳に届いたのだが、周囲を見渡しても誰もいない。「気のせいか」と、少年が特に気にも止めず歩き出そうとすると。
「す、すみません」
やはり誰かの声が聞こえた。
そして周りを捜すが、やはり声の主は何処にも見えない。
稲豊は背筋が寒くなるのを感じた。
「こちらです」
今度こそしっかりと鼓膜がキャッチした誰かの声。
その大凡の位置の把握に成功した稲豊は、声の主を求めてゆっくりと面を上げた。
「うおわあああぁぁぁぁ!!??」
「きゃああああぁぁぁぁ!!??」
今度は悲鳴。しかも二重奏である。
天井に逆さに立つ少女の出現で、稲豊は電気ショックを浴びたかのように驚く。不思議なのは、彼にショックを与えた相手も同様に驚いている点だ。
相手の少女は驚くのと同時に床に落ち。「ムギュ!」と可愛い声を出して、強か顔を絨毯に打ち付け目を回す。その全身を視界に捉えた稲豊は、再度悲鳴を上げた。だがそれは、声には出ないものであったが……。
「い、痛た……」
鼻を両手で押さえ涙目になりながら身体を起こす少女。歳は十一から十二ぐらい。
薄緑色のショートカットが良く似合う可憐な少女だ。白のエプロンドレスに、頭飾りのホワイトブリム、黒のベーシックなメイド服に身を包んでいる。身長は一見不明である。
稲豊は思う。
良い、実に素晴らしい。この少女とメイド服の組み合わせは実に良くマッチしている。その少女の可憐さを、メイド服が実に良く際立てている。そう……実に良い――――“上半身”は……と。
「お、驚かせてしまってスミマセン! この屋敷で使用人をやっています。“アラクネ族”の『ナナ』っていいます。新しい料理長ですよね? 至らぬところも多々あるかと思いますが。これからヨロシクお願いします!」
「い、いやこっちこそ驚かせてごめんな? 俺は人間の志門稲豊。よろしく」
敬々しく頭を下げるアラクネ族のナナ。
少し身体を引きつつも、答礼し自己紹介をする稲豊。彼が引くのも仕方がない。
少女の細い上半身に比べ、不釣り合いな太く大きなヒップ。そこから伸びる細く長い、先の尖った六本の黒い足。少女の下半分はまるで蜘蛛そのもの。大きなお尻を隠すフリフリのメイド服が、またなんともアンバランスだ。部屋に小さな蜘蛛が出ただけで、悪い意味で目が離せない稲豊は、どうしても腰が引けてしまう。
「それではこちらへどうぞ。もう皆様お集まりになってますよ?」
そんな小心者の様子に全く気付かないナナは、その右手を取り、屋敷の面々が集まる部屋の前まで稲豊を導く。
「それでは、ナナはこちらで失礼します。また後ほど」
「あ、ああ。ありがとう、助かったよ」
一礼し何処かへ去って行くアラクネ族の少女。六本の脚の動きが実に艶めかしい。
扉の前で少し躊躇する稲豊。このまま流されても良いのだろうか? かといって、この場を去ってまで行きたい場所など、少年にはあるはずも無い。仕事も、眠る部屋も提供される可能性があるのなら、賭けるしかないのだ。
一番の懸念材料は料理長の肩書には到底届かない、自分の料理技術。
しかし「料理が出来ない」なんて言おうモノなら、即刻お払い箱だろう。出来ないではなく、やるしか無いのだ。稲豊は眼前に広がる茨の道に目眩を覚える。だがここで足踏みをしたところで、事態は何も好転しない。
覚悟を決め、「ええいままよ!」と、扉を大きく開く。
まず視界に飛び込んできたのは、部屋の正面に大きく構える縦長のテーブル。そこに並ぶ八席の豪華な装飾の入った椅子。
白いクロスで覆われたその上には花瓶に入った色取り取りの花。天井を見ると部屋の中央には、白く光る石が敷き詰められた、これまた豪華なシャンデリア。どうやら食堂で間違いない。
上座にはルートミリア。その右手の席には、細長の目と先端がピンと上を向いたカイゼル髭が特徴の、燕尾服を着ている灰色オールバックの老齢の紳士。左手の席には、この場には似つかわしくない銀色の鎧を着た金髪犬耳の美女。
どうすれば良いのか戸惑う稲豊に、紳士が優雅な振る舞いで近づいて来る――やいなや、稲豊の手をガッシリと両の手で握り込む。立っているからこそ分かるが身長は稲豊より拳一つ分高く、この老紳士も人と異なる部分は、外見からは見て取れない。
「おお! 貴殿が新しい料理長ですかな? うむうむ良い顔をしておられる! お嬢様が見つけられただけの事はある。私は感動で涙がちょちょぎれておりますぞー!!」
ぎょっとする稲豊に、老紳士は細目に涙を浮かべながら早口で捲し立てる。手を離した後も手拭いで涙を拭き、更には鼻までかむ。老人の勢いに呆ける稲豊に、今度はルートミリアが上座から声を掛けた。
「その者の事は気にするな。そんな事より庸劣だぞ人の子よ。今回は貴様が主役なので許すが、次に妾を待たすのは許可しない。分かったな?」
「は、はい! 申し訳ありません! 以後気を付けます」
その外見からは想像もつかない力を持った声だ。
この人物の機嫌だけは損ねてはいけない! と、稲豊は心に刻みつけた。
「ささっ! 立ち話も何ですからな。こちらへどうぞ」
老紳士は自分の隣の椅子を引き、声を弾ませながら稲豊を誘う。特に断る理由もないのでその申し出を受け入れる。稲豊が腰掛けるのと同時に食堂の入り口の扉が開き、サービスワゴンと共にナナが食堂に現れる。ワゴンの上には数枚の皿とワイングラス。どうやら今から食事会が始まるようだ。
「では今から新料理長の就任食事会を始めたいと思います! さぁ皆様。親睦を深めましょうぞ!」
料理の盛られた皿が二枚とワイングラスに飲み物が注がれ。準備が整ったと見るやいなや、老紳士が食事会開始の音頭を取る。交流会に参加できなかった稲豊の心は少なからず高揚した。
「では食事の前に自己紹介といきましょう。まずは今回の主役から!」
大げさなポーズで老紳士から自己紹介を振られ、心臓の鼓動が跳ね上がる。
しかし稲豊は、自己紹介というやつは恥ずかしがったら負けだ。と、鼓動を強引に鎮める。
後は浴場で既に吟味し、採用された自己紹介をするだけだ。
椅子を引き、立ち上がった稲豊は元気よく自己紹介をした。
「王都にて料理長としてスカウトされた結果ここにいます。強引な勧誘ではありましたが、やる気はあります。“料理だけには誠実”がモットーの人間。志門 稲豊! 異世界よりやって参りました! 未熟者ではありますが、ご指導ご鞭撻の程。よろしくお願い致します!!」