第92話 「内なる激励」
ミアキスが屋敷を去った日の夜。
稲豊は独り、住む者を無くした部屋を訪れていた。
青空の描かれた壁に、犬耳のついた変わった鏡台。彼女の愛用していた耳かきや小刀も、いつもと変わらぬ位置にある。着の身着のまま出ていった部屋の主は、その荷の殆どを私室へと残していた。普段と同じ部屋の様子は、少年に『ミアキスはちょっと外出してるだけなのでは?』といった錯覚さえ覚えさせる。
ピンクのベッドに近付いた稲豊は、置いて行かれたぬいぐるみの一つを手に取った。それは――――金色の狼のぬいぐるみ。心なしか、少年には狼の瞳が淋しく輝いているようにも感じられた。
「あれから二週間も経ってないんだな……」
そのぬいぐるみを見た稲豊が思い出すのは、レクリエーションでのとある一幕。
純粋で無邪気で優しい、人を幸せにする笑顔を浮かべたミアキスの姿だ。
『どうしても別れなければいけないのなら、あんな顔と別れたかった』
そんな思いが彼に込み上げたところで、後の祭りである。
既に別れてしまった者と別れる事は出来ない。稲豊は嘆息した後で、狼をそっと元いた位置に戻す。そして、悲哀の漂う部屋を静かに去った。
「さすがに心配」
次に彼が向かったのは、再び部屋に籠もった主の元だ。
既に二日もの間、彼女は何も口にしていない。大好物であるヒャクにさえ手を付けてはいなかったのである。料理を担当する者として、使用人として、仲間として――――好意を抱いている者として。稲豊はルトの部屋の扉の前に立った。
「ルト様。稲豊です。食事を摂って下さい」
ノックした稲豊がそんな声を扉越しに送るが、返答は聞こえては来ない。
だがそれも予想の範囲内。彼は一度大きく深呼吸した後に、意を決してドアノブに手を掛けた。
「失礼します」
稲豊が初めて入ったルートミリアの室内。
どのランプにも明かりが灯っていないにも関わらず、蒼き月光に照らされたその場所はとても明るい。少年は悪く思いつつも、主を求めて視線を彷徨わせた。
マリアンヌやミアキスの部屋とは違い、特に飾り気も無い簡素な部屋である。
机の上に置かれている“ルト人形”や“豹のような生き物のぬいぐるみ”が異彩を放つ、とても屋敷の主とは思えない普通の空間だ。
「ルト様? …………あ」
一見、誰も居ないかのようなその場所で、稲豊は一つの異様に気付く。
普通の机に、普通の鏡台。普通の棚に、普通の椅子。そして――――普通でないベッド。
山なりに大きく盛り上がったベッドカバー。
中に何かが入っている事は、火を見るよりも明らかである。
この部屋に入った時点で覚悟を決めている稲豊は、それがいけない事と知りつつもベッドに近付き、その脇にあるランプを灯す。そして、ベッドカバーの一端を捲った。
「……ルト様」
稲豊が見たのは、うつ伏せになったルートミリアの姿だ。
彼女は外界を遮断するかの如くベッドに籠もり、顔を隠すかのように顔面をシーツに押し付けていた。まるで人型カタツムリである。
一瞬。
『眠っているのでは?』という疑問が稲豊の中に沸き起こったが、それはルトの発した次の言葉で否定させられる。
「…………無礼だぞ」
非難の言葉と共に、緩慢に面を上げたルートミリア。
稲豊はそんな彼女の顔を見て、ハッと驚いたような表情を浮かべた。
腫れた眼に、赤身を帯びた小さな鼻。
それらが示している事実は、たったの一つしかない。
「悲しんでる主を放っておく事が正しい作法なら、俺は無礼者でも構いません」
少年の言葉に「ふん」と弱々しく鼻を鳴らしたルートミリアは、再び顔面をシーツへと沈める。そこに濡れた後を見つけた稲豊は、心にナイフが刺さったかのような痛みを感じた。
第一王女で、多くの魔法を使え、いつも尊大な態度を取っているルト。
しかし彼女は魔王候補であると同時に、一人の少女なのである。例えどんなに偉くとも、例えどんなに強くとも、その心まで一般人よりも強い保証など、この世の何処にも有りはしない。
今更にようやくに、極めて当たり前の結論に到達した稲豊。
彼はここに来て初めて、自らの不甲斐なさに憤りを通り越し、殺意さえ覚えた。
『何をやってんだイナホの大馬鹿野郎!! ルトが、ナナが、ミアキスが!! 何人もの仲間が傷付いているというのに、ただ感傷に浸っていたなど……なんて情けない!! 今ここで頑張らないで、いつ頑張るというのか? お前の取り柄が、今こそ真価を発揮する時だ!!』
体の深淵より来たる内なる声が、少年の心を激励する。
頭を殴られたかのような衝撃と共に覚醒した稲豊は、ミアキスを諦めかけていた過去の自身を吹き飛ばした。
『今はまだその時じゃない』
そう自分に言い聞かせた稲豊の顔は、先程までとは全く違い、軽い笑みを浮かべる余裕さえ見せた。前を向くと決めた瞬間。彼の心に巣食った暗雲を、爽やかな風が何処へと運んでいったのだ。
「ルト様。俺に任せて下さい」
心に吹く追い風に背中を押されるまま、稲豊はそんな言葉をルートミリアに投げ掛けた。その自信に満ち満ちた声色に、顔を沈めていた少女も意外そうに面を上げる。そんなルトに、少年は諭すように言葉を掛けた。
「上手くいくかは分かりませんけど、俺に考えがあります」
落ち込んでいたルトの瞳に、僅かだが希望の光が灯る。
彼女とは対照的に力強い表情を浮かべる稲豊。そんな彼を見上げながら、少女は恐る恐る口を開いた。
「ミアキスを……取り戻せるのかの?」
「そこまでは保証出来ませんけど、彼女の去った理由ぐらいは突き止められるかも知れません。このまま何も分からないよりは、ずっと良いかと思います」
「そう……じゃの」
ルトにも見当の付かないミアキスが屋敷を去った理由。
それは当然。彼女とて、喉から手が出るほど欲しい情報であった。
「シモン……妾は知りたい。何故ミアキスが妾の元を去ったのか……どうしても知りたい!」
後半に進むに連れ、声を大きくしていくルートミリア。
稲豊は彼女の心からの言葉に大きく頷くと、もう一度、
「俺に任せて下さい」
力強い声と瞳でそう告げた。
すると屋敷の主は、一滴の涙で頬を濡らした後で、勢い良くベッドから飛び出す。そして稲豊の両手を握り、縋るような目付きで「頼む!」と少年に懇願した。
「シモン! 褒美なら与える! じゃから――――」
理性を感情に支配され、心の赴くままに行動したルートミリア。
それ故に、彼女は今の自分の“状態”を完全に失念していた。
「――――あ」
主の異常に最初に気付いたのは稲豊。
そして彼から数秒遅れで、ルトは自身の姿を省みて絶句する。
以前よりも気温が低くなったとは言え、締め切った部屋で顔までベッドに籠もるのはそれなりに蒸せる。厚くしっかりとしたベッドカバーの生地も、熱を逃がさない仕事に一役を買っていた。昨日からそれを知っていたルトは、脱水を起こさないようにある対策を取っていたのだ。
その“対策”とは、『肌を覆う布面積を少なくする事により涼しさを得る』という画期的なものであった。つまり簡単に言うと彼女は、ブラにショーツだけというあられもない姿で少年の前に飛び出してしまったのである。
「ヒャア!?」
色気のない声を出してもう一度ベッドに潜り込んだルートミリアだが、時既に遅し。稲豊がその光景を瞳に焼き付け、心のフォルダにしまい込みパスワード設定を済ませた後の事だった。薄ピンク色のフリルの付いた下着と、それに覆われた小振りだが形の整った尻と胸は彼の中で永遠に生き続けていく。
「そ、それでシモン。わ、妾に何か出来ることはあるのかの?」
「え、ええとそうですね。行動を起こすのは明日なので、今日は食事を摂って休んでいて下さい」
「わ、分かった。後で――食堂に行く」
「じゃあその……。俺は料理の準備をします」
なんとも言えない空気に耐えられなくなった二人は、顔を赤くして互いの距離を空ける。
だがそんな空気は長く二人の間に居座り続け、食堂でナナとアドバーンが主の来訪を喜ぶ時にも遺憾なくその力を発揮した。様子の可笑しい二人に老執事と少女メイドは顔を見合わせたが、
「青春ですなぁ」
そんなアドバーンの言葉で全てが締めくくられる。
来たるべく明日へと向けて順調な滑り出しをきった稲豊は、自身の背中を押す“流れ”のようなものを確かに感じていた。




