第91話 「滑稽でもいい」
「――――聞こえておるわ。お前の大きな声は、寝起きにはちと堪えるのぅ」
稲豊が取り次ぐまでもなく、屋敷の玄関から姿を現したルートミリア。
その後ろには、アドバーンとナナがしっかりと付き従っていた。老執事は既に屋敷の主人に来訪者を報告し、準備を整えていたのである。
「ルト姉さん。お久しぶりです」
「ルートミリアお姉さまぁ。ご機嫌麗しゅう」
クリステラは右拳を心臓の前にやり敬礼し、アリステラはスカートの両端を摘んで可憐に頭を下げた。ルトは「うむ」と返事したが、その表情は憮然としている。姉妹の来訪を喜んでいる顔にはとても見えない。
「ご無沙汰しております。ルートミリア様。ご健勝なようで何より」
そこが地面であるにも関わらず膝をついたネロは、神妙な面持ちでルトに挨拶の言葉を贈る。しかし屋敷の主は一瞥を与えただけで、特に言葉もなく視線を二人の姉妹へと戻した。彼女のそんな態度から、昔あったいざこざの空気を感じ取った稲豊は、その怒りが完全には風化していない事を知る。
「まあ……。立ち話もなんじゃからの。入るが良い。積もる話もあるじゃろ」
久方ぶりに再会した姉妹を、屋敷へ招くべく振り返ろうとしたルートミリア。
――――だが。
「お構いなくぅ」
そんなアリステラの言葉に、その動きを中断する。
「今日わぁ、ルートミリアお姉さまの顔を“一目”見ようと来ただけですの。受け取るモノを受け取ればぁ、すぐに帰りますわぁ。アリステラ達もあまり暇ではありませんので」
「無礼な事は百も承知。ですが、我々は“好敵手”。無防備に近付けるほど、ルト姉さんが弱くない事も承知してます」
「ふん、勝手にせい――――と言いたいところじゃが。少し気になるコトを言ったのぅ、アリステラ? 何を受け取りに来た……と?」
どう見ても仲睦まじくない会話を交わす王女の姉妹達。
ルトと同様に稲豊が気になったのは、その受け取る“モノ”。もし少年の想像通りだとするならば、それは屋敷の皆にとって重要な存在に違いない。
「彼女達の目的は我です。ルートミリア様」
稲豊の思考が固まる前に、答えの方がルトの背後の扉から出現する。
そう。双子の王女が迎えに来たのは――――
「…………ミアキス」
憂いを帯びた表情で呟くルートミリアを横切り、人狼騎士は姉妹の前で歩みを止めた。そして振り返ると同時に頭を垂れ、最後の言葉を口にする。
「四年間、世話になりました。恩を仇で返すような我を許して欲しいとは言いません。ただ――忘れて下さい。我如き矮小、歯牙にも掛けず、貴女がただ只管に覇道を歩むことを願います」
「…………ふん。勝手じゃの」
簡潔に別れを告げ、主に背を向けるミアキス。
双方の顔には沈痛の色がありありと浮かび、この別れが彼女達の望むものでないことは、誰の目から見ても明らかであった。
「今日からアリステラ達の騎士ねぇ。よろしくお願いしますわぁ。ミアキス」
「……ええ」
そんなやり取りを見ている事しか出来ないナナは、両手で鼻と口を覆い、声にもならない涙を流した。アドバーンは相も変わらず表情から感情を読ませなかったが、身体を覆う魔素には僅かの乱れが生じている。それだけ、彼にとっても今回の事態は不可解であった。
「納得が出来ません」
ミアキスが謎の生物『ユニトラ』の牽く車両に乗り込もうと足を掛けた時、稲豊がそんな声を出した。そして無言で振り返った彼女と視線を交差させながら、彼は更に言葉を続ける。
「任期を満了したのか? 怠惰な主に愛想を尽かしたのか? 同僚との人間関係が嫌になったのか? 出される食事が……気に入らないのか。せめて理由を言って下さい!」
「しつこい男ほど見苦しいモノは無いな。やめろ。見るに耐えない」
二人の間に割り入り、侮蔑の目を少年に投げ掛けるネロ。
稲豊はその視線を真っ向から睨み返し、
「ああ? 誰のせいでこんな事になってると思ってんだ? お前が関わってる事は知ってんだよ!!」
そんな怒号と共に、ネロの胸ぐらをグイと掴んだ。
「はっ。僕が何かしたという証拠でも? 異世界人は言い掛かりが得意なようだな?」
「その喧嘩。地球人代表として買ってやるよ」
稲豊が拳に力を込めた時、彼の体は背後からの引力によりネロから引き剥がされる。その物凄い力に驚愕し首を捻った少年が見たのは、自身を羽交い締めにする老執事の姿であった。
「アドバーンさん? なんで!?」
「ダメで御座います。イナホ殿」
混乱する頭で異議を唱える少年に、老執事は彼だけに聞こえる声でそっと囁く。
「ルートミリア様の使用人である貴方が、別の王女の使用人に一方的に手を出したとあらば……それはお嬢様の責任となってしまいます。お気持ちは痛いほど分かりますが……。この場は私めに免じて耐えて下さい!」
その言葉で頭に上った血を引かせた稲豊は、返す瞳を屋敷の主の方へと向けた。
平静を気取り切れず、悔しい気持ちを表情と震える拳で表すルートミリア。居た堪れない気持ちに支配された少年は、彼女とアドバーンの思いを汲むしか無かった。込めた力を彼方へと霧散させ、ゆっくりと拳を開き力を抜く。
「はっ! 傑作だな。異世界人は喧嘩すらまともに出来ないのか? やれやれ、くだらない時間を過ごしてしまったな」
襟を整えながらそんな言葉を吐くネロに、稲豊は力一杯に奥歯を噛み締める。
唯一の救いは、
「そこまでにするんだネロ。我々は喧嘩を売りに来たわけではない。ミアキス様を迎えに来たついでに、ルト姉さんを一目見に来ただけだ」
「失礼しました。“子供相手”に少々大人げがありませんでしたね」
「ルートミリアお姉さまに会うのが“ついで”なんてぇ、正直に話すクリステラお姉さま可愛いですわぁ。では皆様。失礼致しますねぇ?」
彼等がこの場に居座ろうとしなかったこと。
状況に急かされるようにキャリッジに乗り込んだミアキスが、屋敷の者達の視界から隠れる直前。
「……どれも違うさ」
そう呟いたのを、稲豊は聞き逃さなかった。
双子の姉妹が乗り込んだのを見届けたネロが御者台に上り、ユニトラの手綱を握ると、それを察した巨大生物が屈めていた体を大きく起こす。
「それではルートミリア様。またお会いしましょう」
そんなネロの言葉と共に、ゆっくりと動き出すユニトラのキャリッジ。
その中に居るであろうミアキスの姿は色付きガラスに遮られ、やはり稲豊から視認する事は出来なかった。
「……イナホ様?」
心の距離を表すかのように、離れて行くミアキスを乗せたキャリッジ。
姿が見えないのなら、出来る事は一つしかない。
稲豊は内側より湧き出る爆発しそうな感情に突き動かされるように、気が付けば四輪車両へと向けて駆け出していた。
「ミアキスさん!! 貴女は言ったじゃないですか! 『姫の騎士を辞めるつもりなんか毛頭ない』って!! それだけじゃない! いずれ過去を語ってくれるっていう約束もしました!! あれは嘘だったんですか!?」
走りながら、稲豊は力の限り叫んだ。
どれだけ滑稽な行為だとしても構わない。
どれだけ馬鹿にされようとも構わない。
それでミアキスが戻ってきてくれるのなら、彼は幾らでも道化になっただろう。
「作った料理を、貴女に『美味しい』って食べて貰うのが俺の密かな夢だったんですよ!? その本人が居なかったら、そんなの叶えられる訳が無いじゃないですか!!」
息が切れ、心臓が悲鳴を上げても、稲豊は止まろうとはしなかった。
見苦しいほどに汗を散らし、喉が張り裂けそうなぐらいに声を上げる。
「貴女が居ないと困る事が沢山あるんですよ! 俺はヒャクを片手で潰したり出来ないし、ナナは壊れた屋根の修理は出来ません!! ルト様の苦手な料理をコッソリ食べることも、アドバーンさんの酷くなる腰痛を和らげるのも、ミアキスさんにしか出来ないんですよ!!」
「……貴女の扱い酷くない?」
外から聞こえる叫び声を聞き、そんな感想を正面に座る人狼へと投げ掛けるアリステラ。しかしミアキスは俯いたままで、一切の反応を示さなかった。
「嫌いな奴に、自分の事を任せる者なんて……この屋敷には居ないんですよ!! それだけみんな! ミアキスさんの事が好きなんです!! 頼ってるんですよ!! 世話好きの貴女が、そんなみんなを放って行くんですか!! ミアキスさ――うわっ!?」
唐突に皆の前で地面に吸い込まれる稲豊。
彼は背中に感じた草のクッションの感覚から、それが落とし穴である事を知る。それは修行時のアドバーンに吠え面をかかせようとして、彼自身が以前に掘ったモノであった。稲豊はその存在を忘れていた自分と、落ちたタイミングの滑稽さに、乾いた笑みを一つ零す。
そして当然そんな彼を待つことも無く。
ネロが手綱を握るキャリッジは、ユニトラが地面を蹴る蹄の音と、車輪が回るガラガラといった音と共に、稲豊達の前から姿を消した。
「……イナホ殿。お手を」
落とし穴の底に無様な格好で収まる少年に、アドバーンは手を差し伸べる。
だが稲豊は首を左右に振った後で、
「大丈夫です。……自分で……出れますから……」
力ない声で拒否し、そして――――熱くなった目頭を自らの腕で覆った。




