95話
明けて翌日。かなりの急ぎ足ではあるが瘴気の問題を解決するためにハロルドはライナー達を連れ立って、早朝から山中の捜索に赴くことにした。リーファの準備が万端だったのと、スメラギの屋敷にあまり長居するといつどこでフラグが暴発するか分からないというのも理由の一つだったりする。
駅のホームで上京する息子を見送る子離れできていない母親のようにエリカやハロルドを過剰に心配するイツキを冷たい目で見つつ、ハロルドは先頭に立って規制区域へと向かう。だがその前にどうしても言っておきたいことがあった。
「なぜ貴様がいる?」
「わたしはエリカ様のお付きですので~」
一団の中にユノの姿があった。確かに彼女の立場や実力を考えればおかしなことではないが、相変わらずの割烹着姿である。山奥に分け入るには不向きな格好だろう。
それは書生服のエリカや南国を思わせるような露出の多い服装のコレット、ミニスカートのリーファなど女性陣全員に言えることだった。皆がそっくりそのままゲームと同じ衣装である。
ここにはもうつっこむまい、そういうものなんだ、とハロルドは一人で無理やり納得した。
それよりも規制区域内での動きと注意事項を改めて確認しておいた方が有意義である。
「……まあいい。貴様ら、これを持っておけ」
「これは?」
「瘴気の影響を緩和する薬だ。規制区域内に入る前に飲んでおけ」
スメラギに備蓄してあった抗体薬を人数分渡す。多めに持ってきているので万が一解決が長引いた場合でも大きな影響を受けないで済むだろう。
ならその薬さえあれば瘴気があっても問題ないのか、といえばそう簡単な話でもなかった。いくら抗体薬といっても服用する回数が増えればその効果は落ちていく。一度や二度なら健康被害は確認されていないらしいが、瘴気を吸い込む機会が増えるほど当然リスクも増す。結局のところ、瘴気をなくさないことにはスメラギ領の森林は使い物にならないということだ。
スメラギ家がなんとか問題を解決しようと調査を重ねてきた末に得た情報である。薬を調合し、それを飲んでイベントをクリアするだけのゲーム内では描かれようのなかった現実でもあった。
「昨日も忠告したが長時間瘴気を吸い込むとろくなことにならない。薬の効果があるうちにさっさと終わらせるぞ」
「それができりゃいいけどよ。結構広いんだろ?瘴気が広がってる森ってのは」
「場所の目星はもうついている」
「……お前、本当に色々知ってるな」
ヒューゴが得体のしれない物を見るような目つきをするが、これも単なる原作知識である。地図で確認しておいたが、原作のダンジョンマップと重なる箇所があったのでまずはそこを目指すのだ。
もちろん地図とゲームのマップとでは縮尺が全然違うので手間取るところもあるだろうが、なんの見当もつけず闇雲に探すよりは効率的だろう。
まあこの世界がゲームと酷似していて、ハロルドがそのゲームのプレイヤーだったなんて想像すらできないヒューゴ達からすれば、こんなハロルドの原作知識は不気味に思うのかもしれない。
かといって今回は出し惜しみをしている状況でもないので開き直っていくしかないのだが。
「当然だ。俺を誰だと思っている」
「それで納得できてしまうから恐ろしいな」
「そんなことよりライナー」
「ん?」
「貴様、昨日の話をしっかり覚えているだろうな?」
「え、えーっと……瘴気は体に悪いからあんまり吸っちゃダメで、おまけにモンスターが狂暴になってるから気を付ける……だっけ?」
「三十点だ」
ライナーの回答をバッサリ切り捨てる。今ライナーが口にしたのはあくまで前提の話であり、それを避けるためにはどうしたらいいかという話を昨夜にしておいたのだが、どうも記憶には定着していないようだった。アホの子ぶりは健在である。
昨夜ハロルドが全員に伝えた計画の内容は、とにかく早さを重視すること。瘴気を吸わないために規制範囲内に留まる時間を極力短くしたい。そうするためには装置の場所を突き止めることと道に迷わないこと、そして余計な戦闘をしないことだ。
仮に戦闘となれば普段より多くの酸素を取り込む必要が出てくるので呼吸が大きく、そして増えることになる。おまけに瘴気はモンスターにも悪影響を与え、彼らを狂暴化させる。だから戦闘はどうしても避けられない時以外はしてはならない。
そのためには索敵に最大限の注意を払い、常に周囲の気配を察知できるように神経を研ぎ澄ましておけ、という話をしておいたはずなのだが。
ライナーもなんとなく覚えているとは思うが、それを自分の中で整え言葉に変換するのが苦手なのだろう。
「貴様はイノシシだ。何かあると周りが見えなくなり、単独で突出し戦線を乱す恐れがある」
「うぐ……」
言葉に詰まったところを見るとライナーとしても図星をつかれたと思えるくらいには自覚があるのだろう。まあそれも正義感故の愚直さであって、主人公らしい性格と言える。その真っ直ぐさが仲間を引っ張る力にもなるはずだ。
しかし今回は自分の指示に従ってもらった方が速やかに解決できるはずなのでハロルドは釘を刺しておく。
「モンスターに遭遇しても無暗に戦わず振り切ることを優先しろ。いいな?」
「おう!」
返事だけはよかったが、ライナーがその言いつけを守れるかどうかはまた別の話だ。
コレットが大きなため息を吐いているところを見ると彼女もライナーという少年の性格をよく分かっているようだった。
まあ原作より戦力が充実しているのでそうそう危険もないとは思うが、気を付けておくに越したことはないだろう。そのまま歩き続けることしばらく、数年前から立ち入りが禁止されている山までやってきた。
一応柵やら警告の看板も立ってはいるが申し訳程度だ。入り込みたい放題である。
瘴気の範囲が広すぎてすべてを囲うことなどできないのだから仕方のないことではあるのだが。その代わり居住区周辺の防衛を厚くしてモンスターなどの脅威に備えているとのことだった。
「全員、抗体薬は飲んだか?」
ハロルドの問いかけに全員が頷く。
それを確認してハロルドは山中へと踏み入った。
入り口はまだ瘴気に汚染されてはおらず普通の森に見える。ただなんとなく不気味なほどに静まり返っているようにも思えた。
原作ではモンスターを狂暴化させるという設定しか出てこなかったが、人体に悪影響なのだから同じ生物であるモンスターも無事では済まないだろう。狂暴化に加えて命を削られているのかもしれない。
それならばこの静けさにも説明はつくだろう。もしこれが真実ならば背筋が寒くなるような話だ。
地図を睨みながらしばらく進むと、やがて薄紫の靄のようなものが辺りを覆うようになる。
「これが瘴気……」
「この程度なら影響はほとんどない。だが体に重さや痺れを感じればすぐに申告しろ」
「その場合はどうするんだ?」
「応急処置だが治癒魔法も効果がある」
これも昨夜説明したはずなのだが。とりあえずエリカとユノがいれば対処できる事態だろう。
考えてみればそのためにユノが派遣された可能性もなくはない。元からエリカの付き人なのだし、一石二鳥の役割である。
この靄の中を進むのはあまりいい気分はしないが、抗体薬も治癒魔法もその効果は実証されているので、大丈夫だと信じるしかない。
さっさと終わらせよう。そう思いながらハロルドは迷いなく、草木をかき分けて山の奥地を目指すのだった。
◇
道なき道を黒い背中が先陣を切って進む。どんどん瘴気が濃くなってきてもその歩みに淀みはなく、どこに行けばいいか分かっているようだった。本人は目星がついていると言っていたが、彼がそう言うということはほぼどこにあの機械が設置されているか知っているとみていいのだろう。
エリカはそう考える。いつものことだ。
ハロルドは多くのこと知っていて、それらを一人で抱え込む。今回のように誰かの力を借りて、というのは非常に珍しい。というか彼は本当に“力を借りている”のだろうか。
瘴気はあくまでスメラギ領が抱える問題だ。以前はスメラギに恩を売れるという思惑があって抗体薬の製造方法を教授してくれたが、ハロルドの方から絶縁を宣言した今となってはそういった意味もなくなっている。
それに装置の解除に欠かせないのはリーファであるようだし、その露払いなら恐らくハロルドだけでも事足りるだろう。彼なら抗体薬も当然自分で用意できるはずだし、治癒魔法の使い手は必ずしもエリカやユノである必要はない。ハロルドの性格からして不必要なこと、無駄なことは絶対にやらない。
つまりこの問題は今ここにいる人間で解決することがハロルドにとって望ましい、ということではないだろうか。その意味は、となると途端に読めなくなってしまうが、少なくともハロルドが直接関わってくるだけの理由はあるのだ。
スメラギの民が苦しみ、ハロルドが危険を冒して解決しようとしてくれているのに、力になれることがほとんどないという事実がエリカの胸を締めつける。
ハロルドの力になれるよう、支えられるような人間になろうと努力はしてきた。してきたつもりだった。
けれど会うたびにハロルドとの差、距離の広さを痛感させられる。いくら振り払っても追いつけることなんてできないのではないか、という弱気が何度も何度も頭をかすめた。
(私がハロルド様に必要とされることなんてあるのでしょうか……)
怖くて考えないようにしてきた疑問。だが一度考えてしまえばその仄暗く後ろ向きな思考に足を絡め取られる。足を止めてしまいそうになる。
そうすればもう、二度とハロルドに追いつくことはできなくなってしまうけれど。
(それだけは嫌だと頑張ってきたはずだったのに、今はそれがこんなにもつらい)
自分が弱い人間だと思い知る。ハロルドの力になれるなら振り向いてもらえなくても構わないと思っていた。でもそれは偽善で、ただの嘘だった。
その背中が遠ざかって行くごとに振り向いてほしい、自分を見てほしいという気持ちが大きくなる。手の届かないところに行ってしまうのが嫌で、怖くて、心の片隅ではいつも「行かないで」と叫んでいた。
建前も何もない、ただただハロルドへ対する恋慕の情が抑え切れない。その想いが大きくなればなるほど、自分の至らなさが浮き彫りになって心を切り刻むように痛めつけた。
そんな弱い人間が、自分の弱さにすら打ち勝てない人間が、ハロルドに相応しい存在になれるわけが――
「おい」
不機嫌そうな声がエリカの思考を中断させた。肩を軽く揺すられる感覚。目の前にはハロルドの顔があった。
咄嗟の出来事にエリカは目をしばたたかせることしかできない。
「おい、聞こえていないのか?」
「……あ、いえ、失礼しました。少々考え事を……」
ハッと我に返り、言葉を濁すような反応を取ってしまう。いつの間にか一団の最後尾まで下がっていた。
自分の思考に文字通り足を引っ張られていたらしい。
ハロルドは何も言わず、ただエリカの顔をじっと見つめる。そういえばハロルドの方からこうして視線を合わせてくれるのは一体いつ振りだったろうか。
「貴様は――」
ハロルドが何か言おうとし、けれどそれが最後まで続くことはなかった。
不意に強い力で引き寄せられる。その正体はハロルドの左腕。彼の腕がエリカの背中に回り、胸の中に抱き寄せられたのだ。
そう認識した瞬間、エリカは混乱と緊張で硬直することしかできなかった。心臓が張り裂けそうなくらい大きく早く鼓動を打つ。ドッ、ドッ、ドッ、という心音が耳で聞こえるのではないかと思うほどだった。
そんな混乱の中にあって、ハロルドの温かさはしっかりと伝わってくる。今のエリカはハロルドの胸板に顔をうずめるような格好であり、背中に回された左腕はエリカをがっちりと掴んでいて身動き一つ取れない。その少しの息苦しささえ、エリカにとっては心地よかった。
(――って、私は何を!?)
このまま時が止まってしまえばいいのに、などという自分の不埒な思考に顔を真っ赤にしながら恥じ入るエリカ。そもそもどうしてこんな状況になっているのか理解が及ばない。
「チッ、瘴気がここまで濃くなると索敵はほとんど意味を成さないか」
エリカの耳元でハロルドがそう吐き捨てた。確かに瘴気によって視界はとても悪くなっている。
「すまない、見落とした」
「エリカ様大丈夫ですか~?」
フランシスとユノが二人の下に歩み寄る。彼らの言動から類推するにどうやらエリカの背後からモンスターが襲ってきて、ハロルドがエリカを引き寄せつつ倒してくれたというところだろうか。
依然抱きしめられたままのエリカは背後を振り返って確認することもできない。そしてそれが全くもって嫌ではなく、自分から離してほしいとは言い出せなかった。
しかしそんな時間も長くは続かない。腕の力がゆるみ、ハロルドの体が離れる。
あっ、という名残惜しそうな声が漏れそうになるのはなんとか堪えた。そんなエリカを、ハロルドは再びじっと見つめる。それだけで顔が茹で上がりそうになる。
「エリカ」
「……はい」
「貴様、今の状況を理解しているのか?考え事など後にしろ」
「申し訳ありません……」
それは当然の叱責だった。事前に注意されたことすら守れない自分がますます惨めになる。
少しでも気を抜けば涙が溢れてきそうだった。
「……分かったのならさっさと行くぞ」
呆れを含んだようなハロルドの言葉。しかしその手はエリカの手首を掴んだ。
ハロルドはそのまま手を引いて歩き出す。
「え?あ、あの……ハロルド様?」
「黙れ。何も言わずについてこい」
「は、はい」
この人はずるい。もしくは自分が他愛ないだけなのか。
あんなにもつらく、苦しいと思っていたのに。その一言だけでどこまでもついていきたいと思わされてしまう。
たとえ特別な意味のない言葉だったとしても、それがこんなにも力を湧き立たせてしまう。
「……本当にずるい人」
誰にも聞こえないように下を向いてそう呟いたエリカの顔には涙と、そして微笑みがたたえられていた。