87話
息が苦しい。早鐘を打つ心臓は今にも破裂しそうで、四肢が鉄か鉛にでもなったかのように重い。
それでも男、ヒューゴ・グラフトンは走ることを止めない。そうせざるを得ない理由が彼の背後にあった。
地面を鳴らし、土煙を上げながら迫ってくるスパイラルモールの集団。その数は二十を下らない。片手に収まる程度ならまだしも、そんな数のモンスターを一人で相手どれるほどヒューゴは人間離れした強さを誇っていない。
故に全力で逃げ切るほかないのである。追いつかれればお陀仏間違いなしなのだから。
今にももつれそうになる足に力を込め、必死に腕を振りながら走る。
直線での速力ならとうに振り切れているはずのスパイラルモールも、曲がりくねった洞窟内の通路で、さらには相手が動き慣れた場所だとそう簡単にはいかない。
こんな状況に陥ったのも、ヒューゴが欲を出してしまったせいだ。
遺跡の深部にある無数の小部屋。その中の一つに宝箱があった。
小部屋の中にいたモンスターはスパイラルモールが一体だけ。アイツだけなら何とかなる、と甘く見た報いだろう。倒しきる寸前に仲間を呼ばれてしまった。
新たに現れたのは三体のスパイラルモール。そこで逃げ出していればまだ何とかなったかもしれない。
そして実際、ヒューゴも逃走を選択したかった。しかし運悪く、スパイラルモールは小部屋唯一の出入り口を塞ぐように立ちはだかっていた。おまけに見たところ興奮状態にあり、時間をかける余裕もない。
それでもなんとか二体を倒し、残りが一体になったところでヒューゴは迷った。敵が一体だけなら逃げ出すことは可能だ。直撃ではなかったがいくつか攻撃を受けて傷もあり、体力だって消耗している。
だからこそ逃げたいところだったが、戦闘のせいでスパイラルモールは興奮状態にあった。もし放置したことにより仲間を呼ばれれば勝利も逃走も難しくなる。そう逡巡した、わずかな隙。
スパイラルモールがギイギイという、耳障りな鳴き声を上げた。それは仲間を呼ぶ合図だった。
「ちくしょう!迷わず逃げりゃよかったぜ!」
そう声を荒げたところですでに手遅れである。一目散に小部屋から脱出した直後、至る所から湧き出るようにスパイラルモールが姿を現す。そこからは命を懸けた鬼ごっことなった。
殺到するモンスターの猛攻をなんとかしのぎつつ、ようやく拓けた場所に繋がる出口が見えてきた。
「ぬぅぅぅぉぉぉぉおおおおおおおお!」
鉤爪の攻撃を間一髪で躱し、叫び声を上げながら倒れるようにその出口へと飛び込む。
手足に擦り傷を作りながら所々石がむき出しになっているような地面を転がる。勢いよくすべるその体が止まったのは少々大きな石に腹部を強打したからだった。
「ぐはっ」
その衝撃に肺の息が一気に吐き出される。痛みと上手く空気を吸えないことによる軽い酸欠で視界が揺らぎ、体にもうまく力が入らない。一刻も早く立ち上がって逃げなければいけないのに、気持ちだけが逸る。
呻きながらなんとか体を起こすが、ヒューゴの視界に入ったのは自分を取り囲んでいるスパイラルモール。数はさらに増えていた。
「くっそ、ここまでかよ……」
これはさすがに勝つのも逃げるのも不可能だ。冒険者という危険を伴う職業だけに命を失う覚悟はしている。だがそれが、今日この日だとは思っていなかった。
死というのは、案外こうしてあっけなく訪れるものなのかもしれない。そう諦めかけた時だった。
薄暗い遺跡の中に、一筋の閃光が走った。それは決して派手なものではなく、速く鋭い、本当に一瞬の白光。
そんな閃光が走る前と後で変化したことが一つだけある。先ほどまで誰もいなかったはずの空間、ヒューゴとスパイラルモールとの間に誰かが立っていた。
ヒューゴに背中を向けているのとローブを被っているせいで顔は分からないが、おおよその背格好からして男だろう。誰だ、なんて考える暇もない。
突如現れた男の一番近くにいたスパイラルモールの首が落ちた。派手に血を撒き散らしながら倒れる。ローブの男はそれを避けることもなく、血の雨を受けても微動だにしない。
「巻き添えを食らいたくないならそのまま這いつくばっていろ」
動きたくても動けないヒューゴからすればそれは無用な忠告であったが、しかし次の瞬間には男がそう言った理由をしかと見せつけられる。
目の前で仲間を殺された、興奮状態にあるスパイラルモールがローブの男に襲いかかる。
まず腕が飛んだ。驚異的な切れ味を誇る鉤爪ごと、血飛沫を上げながらクルクルと弧を描いてヒューゴの上を飛び越えていく。
その光景は、起きた結末に対して過程が省かれているような、おかしな感覚をもたらした。
攻撃を仕掛けたスパイラルモールの右腕がいきなり切り飛ばされたようにしか見えない。恐らくはローブの男が何かをしたのだろうと察しはつくが、何をしたかまでは判別できなかった。
そんなヒューゴを置き去りにするように、次々と理解の追いつかない事態が発生する。
上半身と下半身が切断される。鼻先についているご自慢のドリルごと脳天から真っ二つに割られる。いつの間にか数十、数百にも及ぶような斬撃を浴びる。
ただひたすら、そんな結果だけがスパイラルモールを襲う。抵抗すらできずに事切れていく。
猛攻を仕掛けているはずのローブの男はさっきから姿が見えない。ヒューゴが視認できない速度で移動と攻撃をくり返しているのだろう。薄暗くて視界が悪い遺跡内とはいえ、少し速い程度ではそんな現象など起こるわけがない。
ローブの男は自分とはかけ離れた強さを持つ存在のようだった。
「おい、死んだか?」
現実とは思えない光景に、危機的な状況だというのに呆けていたヒューゴ。そんな彼の意識を呼び戻したのは、気が付けば二十体以上いたスパイラルモールを数分で全滅させたローブの男の声だった。
生存ではなく死亡から確認してきたのはなぜだろうか。
「い、いや、無事だ。助かったぜ」
とりあえず自分の無事を伝える。しかし声からしてローブの男は相当若いようだ。恐らく自分よりは年下だろう。
そんな彼の顔は未だにローブで隠れていて拝むことはできないが、ヒューゴの方を向いた瞬間に、不自然な硬直を見せた。だがそれも一瞬のことで、若い男は若干苛ついた声でヒューゴを問い詰める。
「そうか。それで、この状況はなんだ?」
「そ、それはだな……」
思わず言葉に詰まるヒューゴ。なにせ遺跡を発掘する際の初歩的な定石を無視してこんなピンチに陥ったのだ。戦うにしてもリスク管理がまるでできていない。冒険家として恥ずかしい上に、この若い男をはじめ、他の冒険者にも迷惑をかけることになってしまった。
男もおおよそは察していたようだが、歯切れが悪いヒューゴを前にして疑念が確信に変わったのだろう。彼は盛大なため息を吐いた。
「遺跡内での戦闘は極力避ける。間違ってもモンスターを興奮状態にはさせるな。それが鉄則だと聞いたが」
「申し訳ねぇ……」
ヒューゴにはこの年下の男に頭を下げるしかなかった。ルーキーのような過ちを犯したことに加え、この一件のせいで他のモンスターも刺激してしまった可能性が高い。そして辺り一面に立ち込める濃い血の匂い。これによって他のモンスターが寄ってくることも考えられる。
それを阻止するためには手早く死体を処理して、数日から一週間を沈静期間とし遺跡への進入を制限しなければならない。冒険者の安全を確保するための措置だが、死体の処理のために滞在している冒険者が総出で事に当たらなければならないのだ。
要するにヒューゴは他の冒険者の足を引っ張りまくっていることになる。
「ふん、まあいい。俺の知ったことではない」
まさに我関せず。ローブの男はスパイラルモールの死体が転がり、血に濡れた地面をまるで散歩するかのように進み、先ほどヒューゴが命からがら逃げ出してきた横穴へと入ろうとする。
彼はそれを慌てて制止した。
「ちょちょちょ、どこ行くんだ!?」
「遺跡の最深部に用がある」
「そりゃ皆そうだけど今行くのは危険すぎるって!」
ヒューゴは言葉を尽くして今すぐに遺跡に潜る危険性を説いた。今しがた命の危機に瀕しただけに熱も入る。
それに対する男の反応は「貴様がそれを言うのか」という、ヒューゴの傷を容赦なくえぐる一言だった。だが過ちを犯した自分だからこそ、と気持ちを強く持って説得を続ける。
「俺だから言うんだ。お前をこれ以上危険な目に遭わせないように」
「くどいぞ。大体、死体の処理と沈静期間を合計したらどれほどになる?」
「まあ、十日くらいだな」
「話にならない」
「だから待てって!本当に危ないんだよ」
「それは貴様らが、だろう。俺にとっては危険でもなんでもない」
とんでもない自信過剰な発言だが、スパイラルモールを血の海に沈めた実力からすると、確かに彼が易々と死ぬことは想像しにくい。
しかしだからと言って頑張れと応援することはできない。強いだけでは生き残れないのが冒険者なのだ。
「敵はモンスターだけじゃないんだ。罠や解読しないと進めない場所なんかもある。遺跡の発掘は長期戦だから、可能な限り体力やアイテムの消費が抑えられる条件が揃うまで待つべきだ」
「……なるほど、一理ある」
平行線になるかと思われた説得だが、意外なことにローブの男は折れた。
それにほっとしたヒューゴは、ここはひとまず地上に出て遺跡内の状況を伝えるべきだと提案しようとした。が、その肩口をガシっと掴まれる。
「なら貴様も来い。途中までの道案内くらいはできるだろう」
「……え?ええ!?」
自分より背の低い体のどこにそんな力があるのか、百八十センチ後半の身長と筋肉質な肉体を持つヒューゴを、問答無用とばかりに引きずっていく。
「喚くな、騒がしい」
「喚くに決まってるだろ!死にに行くようなもんだぞ!?」
「貴様はさっき死んだようなものだ。これで死んでもさして変わりはない」
「暴論すぎる……って誰だコイツら!?」
いつの間にか自分達の背後にこれまたローブで顔を隠した二人組が現れた。ローブで顔を隠した、正体不明の三人組に囲まれるという、かなり不気味な状況が完成した。
「俺の荷物持ちだ」
「なんだ、お前の仲間かよ……よお、俺はヒューゴってもんだ。暴君に振り回されて君達も大変だな」
皮肉を込めて、自分勝手なローブの男を暴君と呼ぶ。
しかし荷物持ちだという彼らは何も反応を示さず、黙ったままついてくるだけだった。無言の空間に耐えきれなくなって思っていたことが口に出る。
「……なんか、無口だな」
「当然だ。その二人は言語機能を持たないからな」
「なにそれ怖ぇよ!」
開示された情報はどう考えてもわけありだった。暴君のお仲間もどうやら普通ではないらしい。
圧倒的な強さを誇るが人の話を聞かない正体不明の男と、会話することのできない不気味な従者。そんな奇妙で、意思の疎通が壊滅的にできなさそうなパーティーに強制加入させられたヒューゴは、今日という日はきっと自分の人生で一番不幸な日なんだと、信じてもいない神様を呪うのだった。