83話
誤字脱字のご指摘ありがとうございます。
本当に助かります。
「くっそ、前が見えねぇ……!」
薄暗さと濃い霧に阻まれ、数メートル先の景色さえろくに見えない視界の悪さにライナーは悪態をつく。
昨日の昼頃にブローシュ村を飛び出し、そのままほとんど休憩を取ることもなく、ライナーはフォグバレーへと乗り込んだ。どうしてここに向かったのかと言えば、さすがに空腹を感じて食事をとるために入った食堂で、隣に座っていた男達がこんな会話をしていたからだ。
『さっきの黒ずくめの奴らは何だったんだろうな?』
『さあな。しかしこんな時間にフォグバレーを通過しようだなんて普通じゃなさそうだ』
黒ずくめの怪しい奴ら。そのキーワードにライナーは食事を放り出し男達にソイツらがどんな奴だったのか、食って掛かるような勢いで尋ねた。
その勢いに面食らったのか、男達は引き気味ではあったもののこう話してくれた。
語られた内容は単純なもので、一時間ほど前、日没直前に黒いローブを着た二人組がフォグバレーに乗り込んでいくのを見た、というだけのことだった。
フォグバレーとはその名の通り霧が立ち込める谷であり、昼間でさえその視界は数メートル程度しかない。無論、日が落ちれば濃霧など関係ない完全なる暗闇に支配され、月明かりさえ差し込まない。また、岩がむき出しで足場も悪く、夜間に立ち入る人間などまるでいない場所だ。
その話を聞いてライナーはすぐさま店を飛び出した。向かったのはもちろんフォグバレーである。
確証があったわけではない。けれど状況やタイミングを考えればその二人組が犯人である可能性は高かった。
こうして猪突猛進とばかりに夜の帳が降りた渓谷にやってきたライナーだったが、視界と足場の悪さに時間を取られてまともに進むこともままならない。そうしている内にまだ空は白み始めてしまい、夜通し歩き続けたことで疲労も溜まりその足は遅々として進まなくなっていた。
さすがに疲れを感じてライナーは手近な岩に腰をおろす。大きく深い呼吸をくり返して息を整えながら、果たしてあとどれくらいで犯人に追いつけるだろうかと考える。
食堂で出会った二人の話からすれば犯人の二人組がこの渓谷に入ったのはライナーより一、二時間早いかどうか、といったところだろう。だから休まず、急げばすぐに追いつけると思ってここまで飛ばしてきたわけだが、一向に姿も影も見えてこない。
ライナーはそのまま岩の上にごろんと寝転がる。そろそろ少し休憩を挟まないと体力がもたない。
やや乱れた自分の呼吸と鼓動。それ以外の音は聞こえない、静謐な空間。
早朝の澄んだ空気を吸い込んでいると次第に心が落ち着いていく。それは呼吸や鼓動に限らず、怒りや不安でささくれ立っていた感情も含めてだ。
決して剣を盗んだ人間を許そうという気持ちが芽生えたわけではない。しかしずっと抱えたままだった焦りが、いくらか下火になっていくのを感じる。
(そうだ、焦るな。おれは確実にアイツらに近付いてる)
ライナーは常々剣術の指南を受けている両親から注意されていることがあった。それは精神面、頭に血が昇りすぎるという点だった。
一つのことに集中するあまり、周りが見えなくなってしまう悪癖。正々堂々とした一対一の戦いであればむしろ強みとなるが、からめ手や複数を相手取る時には致命的な隙を晒してしまいかねない。
だからライナーの両親は視野を広く持つように言い聞かせてきたし、そのためには常に心を落ち着かせていなければならないと耳にタコができるほど言われ続けてきた。
はっきり言ってライナーにとっては苦手な分野だ。けれどだからこそ、そこを克服できれば強くなれる。
そう考えたライナーは自分の心が乱れ、興奮していると自覚した時は自分の意思で冷静になれるよう苦手な精神面の修行にも臆せず取り組んできた。
その姿勢は立派なものだろう。しかし人間には得手不得手というものが存在し、そう簡単に克服できないからこそ苦手なのである。
ふと、ライナーは自分の意識が覚醒したことに気付く。それはつまり、目覚める瞬間まで意識が沈んでいたことを意味する。
心なしか、日が高いような気がした。濃霧に遮られて空など見渡せないが、それでも霧の向こうからなんとか光を届けてくれる太陽のおおよその位置が把握できる。ついさっきまで、昇り切っていなかったはずの太陽が。
「……って、やばい!ちょっと寝ちまった!」
疲労していたのも多分に影響したのだろう。ゴツゴツとしたベッドの寝心地の悪さを気にさせないくらい澄んだ空気というのも眠りに誘う一助であった。
そして最大の原因は、ライナーが心を落ち着けようとするたびにこうして居眠りしてしまうほど精神面のコントロールがてんでダメだったことだ。こんな状況で眠りこけてしまえるのも、それはそれで図太い神経をしていると言えなくもないが。
跳ねるような勢いで体を起こす。時間の感覚はないが、辺りの空気から恐らくはまだ早朝と呼んでいい時間帯だろうと、願望を込めつつあたりをつける。
眠っていたのは精々数十分か、長くても一時間程度だろうか。なんにせよ想定外の長い休憩を取ってしまった。早速追跡を開始しないとまずい。
やっちまったと猛省しながらライナーは足を速める。
結果論になるが、想定外の長逗留は決して悪いことばかりではなかった。それなりの時間体を休めたことと、夜が明けたとはいえまだ薄暗かった中を進んできたこととでそれに慣れた目をもってすれば、完全に日が昇りただ霧が濃いだけとなったフォグバレーはライナーに歩み易いと感じさせる。実際、視界は悪いままだが、明るくなったことで確実に見えやすくはなっていた。
そして追跡を開始することしばらく、ライナーはようやくそれらしき人影を捉える。
今すぐ飛びかかりたくなる衝動を抑えて、岩の陰に隠れて様子を観察する。依然霧は濃いままだが、目を凝らしてその人影が二人組であることをなんとか確認できた。しかし宝剣が入っている箱を持っているかまでは不明である。
足元に注意し、音を立てないように人影との距離を詰める。
向こうは動く気配を見せない。何か会話をしている様子でもなかった。もしかしたら相手も休憩を取っているのだろうか。
(これなら隙をついて奪い返せるかもしれねぇ)
息を潜めながら呼吸を整える。そして体と心の状態が一致した瞬間、ライナーはわずかの躊躇もなく飛び出した。
足場の悪さなど感じさせないほどのスピードで一気に間合いを詰める。その距離が残り数メートルほどになったところで気配を察知されたのかついに相手も動き出した。
見間違いようのない、長い槍。それがライナーの足をさらに加速させる。
先手を取ったのはライナーだった。
(長い得物を持つ相手に対しては懐に入って間合いをつぶす!)
両親の教えを忠実に実行し、槍使いの男が自分の武器を満足に振るえない間合いから攻撃に移る。
しかし相手もさるもので、完全ではなかったと言え不意打ちの攻撃をしっかり防いできた。槍の硬い柄で斬撃が受け止められる。
ここで動きを止めれば負ける。目に焼き付いている昨夜の攻防からして相手の実力はライナーより上。しかも人数的な有利も持っている。
それを活かされる前に決着をつけるのがライナーの唯一の勝機と言っていい。そのための奇襲である。
槍の柄に食い込んだ剣に全体重をかける。男はその力を受け流すことなく足を止めて力比べの体勢に入った。
当然だ。相手はもう一人いて、このわずか数秒の時間受け止めれば無防備な敵に攻撃できる。だからその前に槍使いの男を無力化させなければならない。
ライナーは剣に力を込めたまま、右足で思い切り槍の柄を蹴り上げた。
上からかかるライナーの腕力、それに対抗しようする槍使いの力。そこに叩き込まれたライナーの蹴り。双方向から大きな力を加えられ、バキンという音を立てて槍は真っ二つに折れた。
想像していない事態だったのか、相手の体が硬直する。その一瞬の空白を見逃さず、ライナーは蹴り上げた右足の流れを途切れさせないように、そのままをスライドさせて男の顔を打つ。
威力は柄への攻撃でほぼ死んでいる。ダメージは望めないだろう。
けれど蹴られた男はライナーから見て左方向に体が流れた。対するライナーは男から離れるように、右へと飛んだ。男、さらに左側から接近してきた双剣使いから距離を取るためだ。槍使いがよろめき、進行方向に割り込まれたことで若干双剣使いのスピードが落ちる。そして迂回し、再びの襲撃。
時間にすれば一秒あったかどうかというロス。しかしそれだけあれば準備を整えるには充分だった。
「『火龍』!」
ライナーが振るった剣から紅蓮の龍が顕現する。龍の姿をした高温の炎が双剣使いを飲み込んだ……かのように見えた。
「さすがにそう上手くはいかないよな……」
跳躍。相手がしたのはただそれだけ。それだけで双剣使いは火龍をギリギリのところで回避していた。
双剣使いはライナーよりも速く、手数も多い。接近されればまず防ぐことはできない。
だから近付けさせず、相手の間合いでは戦わない。そのためにライナーが現状で使える、最もリーチの長い攻撃を放ったのだ。可能なら今の一撃で戦闘不能に追い込みたかったのが本音である。
戦闘において間合いというものが占める割合は大きい。自分の間合い、得意とする距離で戦えるかどうかというのは実力差を覆して勝敗を左右することもある。
だから槍使い、双剣使い共にそれぞれの利を消せるように各個撃破を狙おうとした。
だが現実はそう思い通りにはならない。火龍を避けられ、向こうに態勢を整えられてしまった。
槍は使用不能にしたとはいえ、双剣使い一人だけでも真正面から受けるとなるとライナーには荷が重い相手だ。
そして未だに盗まれた剣は相手の手中にある。
勝てない。
そんな弱気な心を、ライナーはその場には不釣り合いな笑顔を浮かべてかき消した。
思い出すのは五年前のあの日。初めて両親以外の、それも年の近い相手に完敗した時のこと。
悔しかった。だからいつか絶対雪辱すると誓った。そしてずっと目標にしてきた。
ハロルドという、ライバルの背中を。
「ハロルドと比べたら、あんな奴のスピードなんてのろまもいいところだぜ!」
五年前に戦い、目の当たりにしたハロルドの方がずっと速かった。ハロルドの方が、あの双剣使いよりも強かった。
ライナーはそんな男の姿を思い描き、追い続けてきた。
次はハロルドに勝つために。ライバルであり、友達でもある彼と肩を並べるために。
「こんなところで負けるかよ。そんなんじゃハロルドに笑われるっての!」
きっとハロルドは五年前よりもっと強くなっているはずだ。そんな彼に勝とうというなら、目の前の敵を一蹴できないでどうする、と自分を鼓舞する。
それだけで体の奥底から力が湧いてきた。
勝って、剣を取り戻す。
そんな意思を瞳に宿して、ライナーは眼前に立ちはだかる格上の相手にも怯むことなく対峙する。一度、小さく息を吐いて、彼は叫ぶ。
「行くぞ!」という絶叫が、厚い霧に覆われた渓谷に響いた。
ライナー君の主人公っぽさが伝わってくれればいいな、という回。
原作の主人公なので熱くて純粋、ハロルドとは正反対な性格をしています。
そんな彼にとって、当然ハロルドはもうとっくの昔から友達でした。