72話
イツキがハロルドと友人だというフランシスを連れ立ってカブランの観光に出向いたと聞いた時、エリカはまた自分の兄が変なことを企んでいるのではないかと勘繰らずにはいられなかった。
基本的にはよくできた自慢の兄であるイツキだが、どうもエリカとハロルドの仲を取り持つことに情熱を傾け過ぎている。彼がハロルドを気に入っているというのはエリカとしても嬉しくあった。
もしかしたらエリカが胸の内にしまっているハロルドへの恋慕の情に気付いている故の行動なのかもしれない。
しかし問題なのはハロルドの方である。
彼自身はエリカとの結婚を望んでいない。そんな彼がイツキからの猛プッシュを快く思っていないのは明白だろう。
ハロルドがエリカとの結婚を避けようとしている理由は知っている。端的に言えばエリカでは力不足だからだ。
八年前のあの日、エリカの優しさは自己満足に過ぎず、相手を甘やかす行いだったと痛烈に叱責された。思えばそれがエリカの意識を変え、ハロルドを支えられる人間へと成長してみせるという明確な意志を持つ契機であった。
あれからの月日はハロルドに相応しい相手となれるよう、心技体を磨くことに費やしてきた。それでも追いかける彼の背中はまだまだ遠く、手を伸ばしても届きそうにない。
エリカが進んだ分、ハロルドも進んでいるのだから。
彼は立ち止まることをしない。だから本当に自分は追いつくことができるのか、そんな不安に押し潰されてしまいそうな時もある。
自分の中に潜む弱さが頭をもたげた時は決まってあの日、ハロルドが人知れず流していた涙を思い出す。彼も必死に不安や恐怖とたった一人で戦っているのだと、そう思えば挫けそうになる心を強く持ち直すことができた。
いつかこの努力を結実するのだ、と。
「エリカさん、どうかした?」
「疲れた?何か飲み物を取ってこようか?」
「それよりも外の空気を吸いに行こうよ」
エリカが少し物思いに耽っていると、異変を察知したのか周囲の男性達が競って気遣った声をかけてくる。
祝賀会二日目。場所は昨日の大広間とは違う来客者用のロビー。会場となる大広間の準備がまだ整っていないとのことで多くの参加者はここに控えていた。
開始時間まではまだ猶予がある。余裕を持って一足先にやってきたエリカは瞬く間に男達に囲まれていた。昨日のこともあったので多少及び腰になるものかと考えていたが、エリカの近くにハロルドの姿がないとみるや否や我先にと大挙して押し寄せてきた。
顔を見ればその半数が近くは昨日ハロルドの殺気の餌食になった者であり、そういう意味では気骨のある者達なのかもしれない。
しかし彼らがあまりにもエリカにしか興味を示さないせいで他の女性の参加者はあまりいい気分ではないようである。妬みの籠った視線がいくつか飛んできているのをエリカは感じていた。
部屋に引っ込んでしまえば彼らと距離を置くことはできるが、主賓の親類という立場でその対応はあまり外聞がよろしくない。
どうやって穏便に事を運ぼうか、と悩んでいたその時だった。
「目障りだ愚か者共」
その場の熱を一気に奪い去る鋭い一声。エリカを取り囲んでいた男達の動きが止まる。
人垣の奥、ハロルドが不機嫌さを隠すこともない顔をして立っていた。
「三秒やる。昨日と同じ目に遭いたい奴は残れ」
三秒と待たずして男達は蜘蛛の子を散らすように去っていった。やはり昨日のあれは彼らにとってかなりの恐怖であったらしい。
エリカとしては非常に助かる結果となった。
「ありがとうございますロード様」
「仕事だ。礼はするな」
“いらない”ではなく“するな”という命令形なのがなんとも彼らしい、とエリカは思う。
ハロルドはそのままエリカの下から離れることなく腕を組んで壁に背を預ける。仕事だと言い切るだけあってしっかりと露払いの役目をこなすつもりのようだ。悪態とは対極的な真面目な性格が透けて見える。
「どこに行っておられたのですか?」
「イツキに付き合わされただけだ」
「また兄がご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません」
「だから謝るくらいならアイツの管理をしっかりしろ」
「私も諫めてはいるのですけど……」
あのハロルド大好きなイツキの暴走を止めるのは無理だろう。思わずため息が出そうになる。
エリカの心情を推し量ってかハロルドもそれ以上は追及してこなかった。
「そう言えば兄とフランシス様はご一緒ではないのですか?」
「アイツらは置いてきたが……エリカ」
「はい」
名前を呼ばれただけで胸が高鳴る。それを隠し、できるだけ平静を装って返事をした。
「今、フランシスのことを名前で呼んだな?」
「ええ、そう呼んでほしいと言われたものですから」
「つまりアイツのことは悪く思ってはいない、ということか」
「昨日はいきなりなので驚きはしましたがフランシス様の人となりを知り得たわけではないので嫌悪するほどではありませんね」
好いても嫌ってもいない。兄の友人であり少々情熱的な人、というのがエリカのフランシスに対して抱いている印象だ。
しかしハロルドは何事か考えた後、こう聞いてきた。
「聞くがフランシスと結婚することになったら受け入れるか?」
「っ」
声が、感情が表に出ないように必死に抑え込む。なにを思ってハロルドがそう尋ねたのかは分からないが、それはエリカの心を揺さぶるのには充分な質問だった。
感情に従うなら受け入れることは難しい。それはすなわちハロルドの伴侶になることは諦めるということだ。
ハロルドを支えられる存在になるというエリカの目標は必ずしも彼と結ばれなければ達成できないものではない。それはエリカも重々承知しているし、実際にハロルドが自分以外の女性を伴侶に迎えるなら祝福するつもりでいる。
だがハロルドの相手が決まらない内に彼を諦めて他の誰かと結婚する、などということはエリカには考えられなかった。たとえどれだけ低くともハロルドが自分を選んでくれる可能性がある限りは。
だからそれは受け入れられない。自分の気持ちのみを優先できる立場であればエリカはそう答えただろう。
「……そうですね。貴方が私との結婚に乗り気でないことは承知していますし、今すぐは難しいですが父や兄の取り決めで、それがスメラギのためになるのであれば――」
私はその結婚を受け入れることでしょう。そう続くはずだった言葉は、しかしハロルドによって遮られた。
「バカか貴様は。親族や家がどうこうは関係ない。貴様個人、エリカ・スメラギがどうしたいか聞いているんだ」
エリカ個人がどうしたいか。身分や立場など取り払い、自分の気持ちで決められるとしたら。
そんなもの答えは決まっている。もう八年も前からずっと胸の奥で温め続けてきた想いがある。
「……それが許されるのであれば受け入れないでしょう。叶うことなら私は……自分が本当に愛した人と結ばれたい」
真っ直ぐハロルドの目を見てエリカはそう答えた。
それをしばしの間受け止めたハロルドがふっと視線を切るように微かに顔を伏せた。
「……そうか」
それはエリカの見間違えだったかもしれない。
しかし無機質な声でそうこぼしたハロルドの顔はどこか満足気で。
(今、お笑いに……?)
いつもの皮肉めいた嘲笑とは異なる、穏やかな笑顔を浮かべていたような気がした。
それは一瞬のことでもう確かめるすべはない。確認したところで否定されるだけだろう。
「ふん、やっと戻ってきたか」
ハロルドの視線を追えばイツキとフランシスが並んでこちらの方へ歩いてきていた。その姿を捉えた彼は寄りかかっていた壁から背を離す。
「アイツらが一緒なら貴様のところに変な虫は近付いてこないだろう。開始まで俺は部屋で休んでいる」
それだけ言ってハロルドは会場から姿を消す。
そこへ入れ替わるようにイツキとフランシスがやってきた。
「ロードはどこへ行ったんだい?」
「始まるまで部屋で休むそうです」
「うーん、疲れさせてしまったかな?」
「ロードが疲れているなら俺はもっと疲れているぞ」
「じゃあフランも部屋で休むかい?」
「そうしたいところだがその前にちょっとだけ時間をくれないか、エリカ」
「私は構いませんが……」
ちらりとイツキを見る。フランシスがエリカに接触するのを嫌がっていた彼だが、今回はなにも言ってこない。それはつまり了承するということだ。
どんな心境の変化があったのだろうか。
「ここでは話にくい。庭に出よう」
フランシスに連れられて邸の中庭に出る。テラスがあるため何人か庭先で談笑している者の姿もあったが、彼らからも遠ざかるように、近くに人がいない場所まできてようやくフランシスの足が止まった。
先ほどのハロルドの質問もあって少々構えてしまう。
「それでお話とは?」
「昨日のことを謝罪させてもらおうと思ってね。いきなり済まなかった」
「頭をお上げください。確かに驚きましたが謝って頂くほど怒っているわけではありません」
「ありがとう。だがこれはエリカだけへの謝罪というわけではないんだ」
「どういうことでしょう?もしや兄に何か言われましたか?」
「いいや、これはロード……ハロルドに対するけじめみたいなものだ。ああ、他言する気はないから安心してくれ」
「……知っておられたのですか?」
「確証はなかったんだがイツキに確認したらあっさり白状したよ」
「あの人は……」
頭が痛い。
後でまたお仕置きが必要そうである。ハロルドを振り回している件も含めて、いい加減厳重注意で済ませない方がいいのかもしれない。
しかしそれはそれとして、なぜエリカに謝罪することがハロルドへのけじめに繋がるのだろうか。
「それでまあ、言ってしまえばハロルドからお説教をもらってね」
「お説教、ですか」
「要約すると『貴様程度がエリカに手を出すな』というところかな。イツキよりもよっぽど怖い相手だと思い知ったよ」
苦笑を浮かべるフランシス。彼が言うにはエリカに近寄ったフランシスを、ハロルドが撥ね退けたように思える。
だがそんなことはあり得ない。ハロルドはエリカとの結婚を望んではいないのだから、エリカが他の誰かと結ばれる方が好都合なはずだ。
そうでなければ勘違いしてしまいそうになる。期待をしてしまいそうになる。
「……なにかの間違いではありませんか?ハロルド様がそのようなことに関して口を出すとは思えないのですけど」
「あー……もしやハロルドはエリカには何も伝えていないのか?アイツも大概面倒な男だな」
「どういうことでしょう?」
「エリカは自分がハロルドから大切に想われることはないと信じているようだが、存外そうでもないということだ。アイツはこう言っていたよ。『エリカは守られていることしかできない、弱く儚い女じゃない。戦う力も、運命に反抗する意志も持った揺るぎのない女だ。貴様がアイツを可憐なだけの花だと思っている内は扱いきれない』とね」
「そ、それをハロルド様が仰ったのですか?」
「疑うならイツキにも聞いてみればいい。正直エリカへの想いの違いを見せつけられた気分だったよ」
そんな都合のいいことがあるわけない。半信半疑どころか一信九疑と言えるくらいには疑念の方が大きく感じる。
だがその一方では、もし本当だったら、と思わずにいられない。自分が何よりも望んでいることが現実になるのかもしれないのだ。どれだけ落ち着くように言い聞かせても嫌でも期待してしまう。
「……やれやれ、そんな顔をされちゃ嫉妬をする気も起きないよ」
「え?」
「必死に隠しているのか噛みしめているのかは分からないけど、エリカの顔からは喜びが滲み出しているよ。俺ではエリカにそんな顔をさせることはできないだろう」
指摘され、咄嗟に顔に手を当てる。
その頬は歓喜を表すように形作られていた。それを自覚して羞恥が込み上げてくる。
「いえ、あの、これは、そういう意味ではなくて……」
「く……はははは」
弁明のしようもないほどにしどろもどろなエリカ。そんな彼女を見て、フランシスは堪えきれずに吹き出した。
それは羞恥をさらに加速させる。
「あ、あまり笑わないでください……」
「悪かったよ。でもこれではっきり分かった。エリカとハロルドの間に割って入ろうなんて野暮のすることだとね」
「そんなこと……」
「なにがあってそうなったのか俺では知る由もないが、どちらも素直になれていないだけでお互いのことを真剣に想い合っている。それこそ他の誰かが入り込む余地なんてないようにしか見えないね」
フランシスは晴れ晴れとした顔でそう言い切る。
今までハロルドからそういった類の感情や言葉を向けられたことのないエリカにとっては簡単に信じられる話ではないが、ここで先ほどハロルドが浮かべた笑みを思い出してしまう。
昨日からフランシスは猛烈なアピールをエリカに続けていた。ハロルドがそれに対して僅かでも不安や嫉妬を抱いていたのだとしたら。
もしもあれが“エリカがフランシスとの結婚を受け入れたくないと言ったことに対する安堵”を意味したものなのだとしたら。
「これほど嬉しいことはありません……」
フランシスにも聞こえないよう、エリカは小さくそんな素直な思いを口にした。