69話
「偽名を名乗っているくらいだ。まさか何の思惑もないとは言わないだろう?」
フランシスが剣呑な空気を強める。
ここはベルリオーズの邸で、イツキの婚約を祝うためのめでたい場だ。そんな時に流血沙汰や、下手をすれば殺人の罪を犯すリスクを考えていないはずがない。だからこれは示威行為として意味合いが強いのだろう。
そう思いたいところだったがフランシスは実際に剣を抜き、こうして突きつけている。ふざけたことでも言えば一思いにやられるかもしれないと感じるほどの凄味があった。
正直に言って状況は詰みかけである。相手がフランシス一人ならばここからでも対処は可能だ。しかし同時に至近距離で背後を取られているのは致命的だった。
抵抗の意志を示したことでバッサリ、という危険もある。
とすれば素直にもなれない上に謝罪も釈明もほぼ不可能で、その代わり相手を煽って逆上させることに長けたこの口で交渉を行うくらいしか残されている方法はない。どう考えてもまともな交渉にはならないだろうが、それでもいきなり戦闘行為を開始するよりはまだ安全だろう。
フランシス達だけではなく自分のことも落ち着けようと、ハロルドは慎重に言葉を選んで語りかける。“まずは武器を下げてくれないか?これじゃゆっくりと話もできないよ”と。
「武器がなければ脅しひとつかけられない腰抜けが良い気になるなよ」
その結果は分かっていた通り無残なものだったが。
もうレイピアを突き付けられたまま本題に入った方がむしろ安全かもしれないと思ってしまう。幸いにもその一言ではフランシスのデッドラインは越えなかった。
「……この状況でもそんな口が叩けるとはね。逸話の数々はやはり事実だということか」
「逸話など所詮は伝聞の戯言だ。そんな下らないもので俺の強さを測れると思うな」
「ハロルドだということは否定しないのか?」
「元より俺は偽名を好んでいない。強制されていなければ誰がロードなどと名乗るものか」
イツキがユストゥスから命令権を委任などされていなければ断固拒否していただろう。ハロルドも自分から進んで黒歴史を作りたくはない。
その辺も打ち明けたいところではあるが、ハロルドのような悪人がイツキに近付いたことに激怒しているフランシスだ。イツキの提案だと言っても信じてくれるとは思えないし、逆にイツキの名を言い訳に語ったと思われてさらなる怒りを買う恐れもある。
「……まあいい、話を戻そう。君の狙いは何だ?先ほども俺にエリカとの婚約を促そうとしていたけどそれも関係しているのかい?」
ある種の確信を持ってそう問い詰めてくるがハロルドにそんなものはない。エリカの件に関しては押し付けようという思いがないわけではないが、イツキに関しては向こうから近付いてきているのであって、それこそハロルドの方がイツキに、というかスメラギ家に問いたい。
どうして俺に固執するんだ、と。
イツキは執拗なまでにハロルドをエリカと結婚させようとしているし、それを容認しているタスクも抗体薬やLP農法で受けた恩があると言い張ってハロルドとの繋がりを絶とうとしない。そのため資金面で困ることは当面ないだろうが、逆に言うと手切れ金としてはもう充分な額をハロルドに与えている。
瘴気の問題は結局未だに解決には至っていないし、LP農法はハロルド考案とはいえスメラギ家の協力がなければここまで運営を拡大し、利益を生むことは不可能だった。
極めつけはハロルド自身の悪評。イツキはそれくらいなら今のスメラギ家は抱え込めると言うが、しないで済むならそれに越したことはないはずである。
ハロルドとしてはエリカとの婚約を迫られていることだけではなく、ユストゥスにスメラギ家との関係を疑われて痛くて黒い腹を探られたくはないのだ。
少し話がずれたが、つまるところ「そんなものねーよ」というのがハロルドの答えである。まあそう答えたところで嘘をつくなと言われるのは想像に難くないが。
そこでふと、ハロルドの頭にとある案が浮かぶ。フランシスを利用すればスメラギ家と距離を置けるんじゃないか、と。しかも上手く事が運べばフランシスの強化にも繋がる……かもしれない。
ここで自分がいかにも何かを企んでいるように見せかけ、俺に勝てればイツキやエリカから手を引いてやるとでも提案すれば今この場で血生臭い展開を起こさずに済む。
後は適当に戦ってから負けてやればハロルドがスメラギ家から離れる言い分が立つしフランシスもイツキやエリカに目を覚ませと抗議することだろう。その他大勢の言葉には動じなくても友人のフランシスから純粋に心配されてそう言われれば無下にもできない。イツキとはそういう人間だ。
エリカとの婚約破棄、スメラギ家との離縁、そしてフランシスの強化。最後の部分は不確定要素が多くあるが、前者のふたつを成せるならばそれだけでも充分すぎる。
「俺の狙い、か。それを知ってどうする?」
「決まっているだろう。それが彼に害を及ぼすものなら俺が阻止する」
「できると思うか?貴様が俺を止めるなど」
「君の方こそこの状況でどうにかできるとでも?口を割らなければ――」
「殺す、か?それは無理な話だと分かっているはずだ。俺には殺されるに足る証拠もなく、今はイツキの友人としてこの邸に滞在している。ここで俺を殺せば貴様はただの人殺しにしかならない。アークライトの名を汚し、イツキやベルリオーズ家の顔にも泥を塗るだろうな。あるかどうかも定かではない危険のためにそれだけのリスクを負うのは覚悟でも友情でもない。ただ愚かなだけだ」
突きつけられていたレイピアが揺らぐ。やはりフランシスも本気で殺そうなどとは考えていなかったようだ。
死人に口なしという言葉もある通り、殺害を念頭に置いているなら殺してから隠蔽なりなんなりすればもみ消せないわけではない。特にアークライトほどの家ならそれを実行できる権力もあるはずだ。
ただしフランシスがそんな誇りのないことは好まないだろうし、イツキとの間に禍根を残すのは避けたいに違いない。だからこの脅しでハロルドに白状させるのが狙いだったのだろう。
「貴様……いや、貴様らはミスを犯した。俺が抵抗した際に殺すのではなく捕らえたいのなら剣を急所に近付けるべきではなかった。俺が無手であり、戦う術が限られていたならば特にな。今この瞬間に俺が反攻に転じれば貴様らは俺を殺すか、重傷を負わせざるをえない。それを避けようと僅かでも剣を引いてみろ。その瞬間に俺が貴様らをくびり殺してやる」
適当なことをそれっぽく言ってみせる。
武器が突きつけられているのは喉元と心臓。普通に考えれば拘束するにしても急所を狙って行動を制限するのはセオリーだと思うが、それがあたかも致命的なミスであるかのように感じてくれればいい。
そんなことを考えながらハロルドは口を回し続ける。
「顔色が優れないようだがさっきまでの威勢の良さはどうした?フランシス・J・アークライト。俺を殺してイツキ達の安全を得られると思うなら殺してみせろ。それによってイツキからの信用を失うとしてもそれは当然だ。そして一度失ったものは易々と取り戻すことはできないということを心に刻め」
見ればフランシスの顔には大量の汗。穏やかな気候の中で分泌される量ではなく、つまりは冷や汗だろう。彼を心理的に追い詰めることはできたようだった。
無意識の内に威圧していたのも影響しているかもしれない。
「……噂以上だよハロルド。まさか言葉一つで有利だった立場を覆されるとは」
「そう思っているなら貴様は救い難いほど愚かだな。貴様は最初から有利に立ってなどいない」
言い切ってみせるが全然そんなことはない。どう考えても有利なのはフランシスだ。
ハロルドは持ち前の傲岸不遜さでフランシスにそう思い込ませようとしているだけであり、だからこそ彼が臆している今の内に勝負を決めなければならない。
「それでも、俺は……!」
迷いが生じたフランシスの顔が僅かに俯きハロルドへの視線が一瞬だけ切れた。恐らくその隙があればフランシスを組み伏せ、背後の人間を打倒することも可能だっただろう。
しかしハロルドはそうせず、提案を持ちかけた。
「ならば愚かな貴様にチャンスを与えてやる。立会人の下俺と決闘を行い、貴様が勝てば俺は貴様に従ってこの身を引いてやる」
「俺が負ければ?」
「当然、俺の言うことを聞いてもらおうか」
「……いいだろう」
何事か考えた後にフランシスはそう答えてレイピアを鞘に納めた。すると背後からの圧迫感も消える。どうやらこの場で殺される危険は完全回避に成功したようだった。
ハロルドが安堵しているとフランシスが思ってもみなかったことを呟いた。
「確かにハロルドは噂に聞くだけの男ではないようだ。それは認めるよ、イツキ」
「その口振りだと完全に信じてくれたわけじゃないか」
背後からの声。とりあえずハロルドは何も考えず振り向きざまに蹴りを叩き込んだ。
「痛あっ!」
格闘家がいれば絶賛するであろう流れるような動きできれいに決まる。
左足の太ももを押さえてうずくまるイツキを見下ろしながらハロルドはフランシスに向けていたものより数段冷たい声でイツキを問い詰める。
「説明しろ」
「ふ、フランが夕べ僕の部屋にきて『ロードはハロルド・ストークスじゃないのか?』って言うから『そうだけど?』って……」
イツキが悶えながらした説明をまとめるとこうだ。
まず昨日の騒ぎでフランシスの従者がハロルドの正体に気付き、それをフランシスに報告。その従者は以前王都でハロルドを見かけたことがあったらしい。
そこからフランシスはイツキに情報の正誤を確認。イツキがあっさりとハロルド本人だと肯定したことでフランシスは関係を見直すように説得するも話し合いは平行線を辿った。
これでは埒が明かないと思ったイツキはこう提案したというのだ。
“ならハロルドがどういう人間か確かめてみればいい”と。
そして引き起こされたのが今回の茶番ということだ。とりあえず全てはイツキが悪いのだと理解した。
ハロルドの正体を本気で隠す気があるのか疑わしい。というか多分ないのだろう。
まあ彼への制裁は後々するとして気になることもある。ハロルドは振り返り再びフランシスに話を聞いた。
「で、貴様はイツキに何を吹き込まれて俺の何を認めたと?」
「『彼は本来悪評が流れるような悪人ではない。人に厳しく、自分にはさらに厳しいから勘違いされやすいだけだ』と言われてね。それだけで“騎士殺し”などと呼ばれないだろうとは思ったが……」
自嘲気味にフランシスは笑う。
「君は強い。恐らく俺では百回戦って百回負けるかもしれない。ハロルドなら俺が視線を切った時に制圧することは難しくなかったはずだ。」
「意図して隙を作ったか。舐めてくれたものだ」
「お互い様だろう?それに俺の方は命がけだった」
俺も似たようなもんだよ、と内心で愚痴る。
しかしそんな気分が吹き飛ぶほど、フランシスはとんでもないことを言い出した。
「そんな状況でも君はお互いが対等な立場になる舞台を揃えようとしてくれた。君からすれば利のない面倒事だというのにな」
「それが俺を認めた理由か?」
「ああ、そうだ。そして……此度の俺の行動は非常識極まりない。ハロルドが俺の処罰を望むのなら甘んじて受ける」
冗談ではない。そんなことになったらフランシスの原作加入フラグが消失する危険が発生してしまう。そろそろ原作が始まる時期だというのにフランシスを牢屋に閉じ込めるわけにはいかない。
ハロルドは即座にその言葉を拒否した。
「貴様の処遇などどうでもいい。小うるさい羽虫を払う度に剣を抜くのは時間の無駄だ」
「……温情に感謝する。しかし申し訳ないが……これだけで君を完全に信用することはできない……」
それは当たり前だろう。かえって一連のやり取りだけで信用されてもハロルドの方が困惑する。
こうしてはっきり口にしてくれた方が分かりやすくていいくらいだった。
「だから無理を承知でお願いしたい。ハロルドとの決闘、やらせてもらえないだろうか」
フランシスが腰を折って懇願する。彼の心情は慮れないが、その頼みはハロルドにとっても願ったり叶ったりの申し出だ。
「イツキ」
「なんだい?」
「立会人は貴様だ」
「……やれやれ、仕方がないな」
「重ね重ね、感謝する」
「礼など不要だ。精々俺との格の違いを味わって無様に這いつくばるがいい」
そんな捨てセリフを残してハロルドは準備を整えるために部屋から去る。
狙った形とは異なったが、こうしてフランシスとの決闘が行われることになった。
感想欄で背後に立ってるのがイツキだとモロバレなのがつらい……。