66話
「私の露払いのため、ですか?」
「そうだ。迷惑なことにな」
抵抗むなしくエリカと乗船することになったハロルドは、この状況で隠す必要もないと事の経緯を素直に白状した。
真相を知ったエリカの反応は深々と頭を下げて謝罪する、というものだった。
「兄が勝手をしたようで申し訳ありませんでした」
「謝るくらいなら最初からアイツの手綱を握っていろ」
我ながらこの口は無茶な文句を垂れているなぁと思うものの、エリカがイツキをコントロールできるならばこうして顔を合わせる機会も減るだろう。精神衛生上、その方がお互いのためになるのでエリカには頑張ってもらいたいところである。
まあそれはそれとして、とハロルドは一度気持ちを整える。そして自分からエリカに切り込んだ。
「それで?ここまでしておいてそんな些末な事が聞きたかっただけというわけではないだろう」
「……そうですね。ハロルド様に確認しておきたいことがあります」
「貴様の質問に答えてやる義理などないんだがな」
まず予想される質問からして答えられるものがかなり少なそうだ。今の立場や任務の内容、ユストゥスに関連する事項はほぼ全て黙秘をすることになるだろう。
「もちろんハロルド様がお答えできるものだけで構いません」
「ふん、簡潔に済ませろ」
「ありがとうございます。では率直にお聞きしますが、五年前のあの時どうして私との婚約を破棄しようとなさったのですか?」
エリカは声を潜めてそう問いかけてきた。水夫の男に漏れ聞かれないようにするためだろう。
肝心の水夫の方はハロルド達に興味もなくカブランの紹介に勤しんでいる。あれは乗船した客に聞かせているというよりも、こう言えと強制されているようにしか見えない。やっつけ仕事もいいところだが、ハロルド達にとっては好都合だった。
「そんな分かり切ったことを聞いてどうする」
「言葉を変えましょう。どうしてあのタイミングだったのですか?」
あのタイミングとは再審議の後、処刑の判決が覆り、ユストゥスの研究所へ身柄が移されると決まった時のことだ。
再審後、判決を見守っていたタスクに真正面からそれを叩きつけた。タスクは悲しげな表情を見せこそしたが、驚きは少なかったのをよく覚えている。だいぶ前からいずれそんな日が訪れると心の準備はできていたのだろう。
ハロルドとしてはエリカの婚約が解消されて婉曲ながら喜びを表すものと思っていただけに意外だったが。
大変だったのはタスクと一緒にいたヘイデンとジェシカ、ハロルドの両親である。当然ながら猛反対され考え直しなさいだの気の迷いだのとしつこく説得されたが、それでもハロルドはエリカと結婚する気はないと断言した。
父親のヘイデンからは未だに説得を続ける手紙が定期的に届いているが、これはエリカと出会う前から決めていたことだ。今さらそこを曲げる気はない。
ちなみに婚約破棄を申し入れたのは本当に再審判決が下った直後、退場する間際のことだ。
そうしたのはスメラギとの繋がりはなくなったことを周囲に、誰よりもユストゥスに知らしめるのが狙いだったためである。
現在もスメラギ領で発生している謎の瘴気はユストゥスが発生させているものなのだ。もしユストゥスの傘下に入った後もスメラギと親交があれば、そこから瘴気の被害を食い止めている薬を誰が提供したか割れる恐れがあった。
もしそうなれば当時十歳だったハロルドがなぜ瘴気に対する免疫を上げられる薬の製造方法を知っていたのか疑惑の目を向けられる。ユストゥスの下にいながらそんな疑いをかけられるのは致命的だ。
こんなことなら抗体薬に関しても口止めを念押ししておくんだったと後悔したのも後の祭り。公表こそされていないが、あれがハロルド発案のものだということはスメラギ家とその屋敷の縁者ならば知っている者も少なくない。加えて汚染範囲を予想したマップの存在などが明るみになればどうして知り得ることができたのか疑問に感じたユストゥスに興味本位で解剖される恐れも否定できなかった。
狂気の天才科学者を相手に矛盾なく言いくるめられる弁舌などハロルドは持っていないのだから、問い詰められる可能性の方を潰すしかなかった。
まあ早い話が保身のためである。そもそもとして原作ではハロルドがユストゥスの下につく展開などなかった。本来ならライナー達に二度も敗れたことで復讐に燃えるハロルドの心にユストゥスが付け入り、『アストラルポーション』という秘薬を授けるはずなのだ。
それは摂取するとどういう原理か体内の魔力—―アストラル体—―が増幅され、普段とは比較にならないほどのパワーアップが可能になるというドーピングアイテムである。
しかし体はその強化についていくことはできず、原作のハロルドは膨れ上がった己の力に飲まれ、人とも呼べぬ異形と成り果てた末、体を崩壊させながら命を落とした。
まあこれに関してはアストラルポーションさえ摂取しなければ回避できることだが、狂化ハロルドとの戦闘で得る経験値がライナー達に蓄積されないというデメリットもある。そこは装備の強化やゲーム内で効果的だった戦術を仕込むなどして地力の底上げで補うしかないだろう。
それはさて置き。ではなぜ原作と異なる展開だと承知の上でユストゥスについたのかといえばそうするしか生存の道がなかったからだ。なにせいきなり地下牢で囚われているハロルドの前に現れたかと思ったら「大人しく処刑されるのとボクの仕事を手伝うのはどちらがいい?ボクのところにくるなら今以上の力を与えよう。まあそれも地獄の苦しみかもしれないが」という極限の二択を突き付けてきたのだ。
生き残るにはその提案に乗るしかない。しかしそれは死ぬ確率がべらぼうに高い選択だった。
ユストゥスの仕事を手伝うということは彼の野望に手を貸すということだ。必然的にライナー達の敵になるし、上手くいってしまえば世界の滅亡だ。捨て駒にされることも充分考えられる。
生き残るにはそれしかなかったとはいえ簡単に選べるようなものではない……はずだった。
これはハロルド当人も忘れかけていたことなのだが、彼の口には言葉を自動的に変換する以外の機能も備わっている。過去に発動したのは二回だけ。それもこの世界にきて間もない時のことであった。
言うなれば原作再現。ゲーム内で口にしたセリフが口をついて出るというものだ。時期も場面もゲームとは異なったが、ユストゥスがハロルドへ力を授けるというシチュエーションは原作と同じだった。
だからこそ彼の口は自分でも引くほど高笑いした後、こう返したのである。
『力を寄越せ。俺が貴様に本当の地獄というものを教えてやる』と。
力を渇望した原作ハロルドによる愚かしいまでの即断即決。こうしてハロルドは思ってもみなかった展開によりラスボスお抱えの兵隊となった。
予想外もいいところである。おかげでその後のルート選択に非常に頭を悩ませた。そしてそれは現在進行形の問題でもある。
そんな苦い思い出をかみしめながらハロルドはエリカの質問に答えた。
「あそこが俺にとって最良の場面だったからだ」
「周囲にスメラギとの繋がりを絶ったと知らしめることができたから、ですか?」
まるで心の中を読まれたように言い当てられた。
そんなことはあり得ないだろうが、ならばなぜエリカはその答えに至ったのだろうか。まさかユストゥスについて何か知っているのか?とそんな疑問が頭をよぎる。
「さてな」
不用意にユストゥスの名前は出さずにはぐらかしておく。
エルですら掴んでいない情報をエリカが入手できるとは考えにくい。
何よりユストゥスの素性を真の意味で知っていたとしてもハロルドの思惑は汲み取れないはずだ。ということは先ほどの言葉もハロルドの狙いを読み取ったわけではなく、エリカが自分なりの観点から導き出した答えなのだろう。それがたまたま、言葉の上では意味が通じるよう合致しただけの可能性の方が高い。
「そうまでして一人になろうと……」
「何か言ったか?」
「いいえ、お気になさらずに」
考え事に思考を割きすぎてエリカが小声で何か呟いたのを聞き逃した。気にはなったがすげない態度で返されたところをみるに聞き返しても口は開かないだろう。
まあ今後はエリカ……というよりもスメラギがユストゥスに何か探りを入れていないか注視しておいた方がよさそうである。イツキが依頼を取次げたということは面識が皆無ということはないだろう。
完全に縁を切ったと思い込んでいただけに、スメラギ側がユストゥスの方へアクションを起こすという選択肢はハロルドの頭から抜けていた。
「確認したいことというのは以上か?」
「もうひとつあります。風の噂に聞くハロルド様のお話はどこまでが事実なのでしょう?」
「生憎とそんなものに興味はない。知らない以上事実であるかは知ったことではないな」
「数十人の騎士を惨殺した騎士殺し《ナイトキラー》。悪魔と契約し誘拐した幼子を売り払って富を得る人さらい。この世に存在する悪事全てに手を染め、悪道を究めた覇者。他にもありますが代表的なのはこんなところでしょうか」
どれもこれも聞いたことあるものばかりだった。改めて人の口から聞かされると相当酷いことになっている。
まあだいたいはユストゥスが脚色したせいなのだが。
騎士殺しに関しては任務の道中に騎士団がモンスターの群れに襲われて全滅しかけているところに偶々遭遇しただけだ。人数も十人いたかどうかくらいだったが、ハロルドが到着した時にはすでに半数以上が死んでいたし残りも瀕死だった。かなり本気でモンスターを全滅させたが結局一命をとりとめたのは二人だけ。
しかしどちらも後遺症が残るほどの怪我だったため、その後すぐに騎士団を退役した。
人さらいというのも戦地やスラム街で見かけた孤児や浮浪児を、まともそうな孤児院にある程度の金品ごと置き去りにしているだけである。これは片手で足りる回数しか行っていない上に人の目につかなかったはずなのになぜかユストゥスにはバレていて、彼の恐ろしさを再認識した出来事でもあった。
最後の“悪道を究めた覇者”というのは様々な噂から連想されたハロルドの虚像だろう。これを聞いたユストゥスが「具体性に欠ける。作り込みが甘い」と嘆いていたので彼はノータッチのはずである。嘆くほどハロルドの悪評を流すことに執心しているのは迷惑この上ないが。
とりあえず自分に関する噂を聞く度にハロルドは“それが事実なら俺とっくに捕まってるからね”と思わずにはいられない。
エリカならそれくらい理解できていそうなものだが、こうして聞いてくるということは半信半疑なのだろう。それならば底値を突き抜けているだろう自分への評価にダメ押しする意味でも肯定したいところだが、エリカがライナーの仲間になった後、それがパーティー内に広まって本格的に対立しなければならなくなるのはできれば避けたい。
忠告や情報を聞き入れてもらえる程度には信用を得ておきたいのだ。無理ならばエルを経由して伝えるしかなくなる。
「この手が血に濡れ、悪に染まっているのは事実だ。だがそれがどうした?されるがまま餌食になる弱者が愚かなだけだろう」
これぞ選民意識の塊と言わんばかりの回答。これでも劣等種という単語が出なかっただけ自制できた方だ。
ハロルドは右手の手のひらを見やる。この手に握った剣でモンスターや人間を切り伏せてきた。それは否定のしようがないが、何も感じないわけではなかった。
「価値観が大きく違う貴方とはやはり分かり合えないのかもしれません。ですが……」
ふっと、ハロルドの右手を温かく、そして柔らかいものが包んだ。その熱がじんわりと広がっていく。
熱の正体はエリカの両手。それがハロルドの右手を握っていた。まるで胸に抱きかかえるように優しく、愛おしそうに。
「この手で貴方は私の大切な人達を守ってくださいました。それは揺るぎのない真実です。ですから私はたとえ貴方がどれほどの大罪人だとしても、受け入れる覚悟はできているのですよ」
目を逸らすことを許されない、引き込まれそうなほど熱を帯びた視線。
理性がこれ以上エリカの瞳を見るなと警鐘を打ち鳴らしているような気がした。それでも魅入られたように、ハロルドは思わずエリカの手を握り返し――
「と、兄ならそう言うかもしれませんね。あの人は貴方のことが大好きですから」
そうになったところで右手が解放された。外気に晒され帯びていた右手の熱が引くと、ハロルドも冷静さを取り戻す。
エリカが浮かべる悪戯っぽい笑顔でからかわれていたのだと悟った。急に気恥ずかしくなったハロルドは明後日の方を向き、自由になった右手で腕を組む。
控えめで、それでいて楽しげなエリカの笑い声を聞きながら、ハロルドは照れたことを誤魔化すために船が停留場に着くまでそっぽを向いたままやり過ごすのだった。