62話
ハロルドの過去と秘密を聞いたリーファは自室に戻って膝を抱えていた。あまりに重い、ハロルドが背負っている宿命。ユストゥスから聞いた話が何度も何度も頭の中で繰り返される。
極めつけは彼が最後に告げた言葉だ。
『今のままでハロルドの寿命は残り数年、二十を超えるまで生きられるかどうかというところだろう。これからも力を使えばその時間はもっと短くなっていく』
ハロルドは十八歳だ。後二年もしない内に、下手をすればもっと早く彼は死ぬ。
受け入れ難い現実がリーファにのしかかる。どうしたらいいのか自分の考えもまとめることができない。
「……大丈夫かい?」
「エル……あたしどうしたらいいんだろう?どうやってハロルドに……」
「聞いたこと後悔してる?」
「……分かんないよ」
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「ボクは知っていたから。ハロルドが命を削りながら戦っていたことを」
「そんな!じゃあどうして止めなかったの?」
「止めてやめるような人間だと思う?」
「それは……そうだけど、でも!」
エルは知っていた。知っていて、どうしてあそこまで自然にハロルドと接することができるのか。どうして笑いかけることができるのか。
ハロルドにしてもそうだ。どうしてそこまでして戦うのかリーファには理解できなかった。死ぬのが怖くないはずがないのに、なぜあそこまで冷徹に剣を振るうことができるのか。
頭がこんがらがって言葉すらまとまらない。
「もう何なのよ……みんな意味分かんない……」
「そうだね。多分それが正しい感情なんだと思うよ」
エルが悲しげに微笑みかけてくる。
その優しさも今のリーファは受け取ることができなかった。
「ねえリーファ」
「……何?」
「もしハロルドを止めようと考えているならやめた方がいい」
「でもそれじゃ……」
ハロルドに何もしてあげられない。そう考えたリーファにエルは語気を強める。
エルらしくないからこそ、それがどれだけ重大なことか嫌でも伝わってきた。
「これはハロルドが覚悟して選んだ道だ。事情を知らない人間が易々と踏み込んでいい問題じゃない」
「ならエルはハロルドが死んでいくのを黙って見送れって言うの?そんなことできないわよ……」
「だとしたらもうリーファはハロルドに会わない方がいいかもしれない」
「どうしてそんなこと言うの!?」
リーファが声を荒げる。
しかしキッと睨みつけてもエルは怯まない。冷静に滔々と、事実だけを語る。
「ボクはハロルドの秘密を知ってたって言ったよね?それを誰にも、リーファにだって教えなかったのは他ならないハロルドが望んでいるからだよ。彼には彼の目的があって、そのために必要なことなんだ」
「何なのよその目的って……」
「そこまでは教えてもらえなかったよ。でも彼からすれば自分の命よりも大切なことなんだろうね」
どんなことだって命あっての物種なのにね、とエルが呟く。
なぜハロルドはそこまでできるのだろう。どうして死の運命を受け入れることができるのだろう。
それほどまでに大切なこととは一体何なのか、リーファには全く思いつかない。
「さあ、今日はもう寝よう。落ち着けばもう少し心の整理がつくかもしれない」
「……うん」
エルに促されるまま自分のベッドに入る。部屋の明かりが消され完全な暗闇に包まれた。
しかし心の中は感情の波がうねり眠りにつける気配はない。
押し潰されそうな心を守ろうとしてかリーファは体を丸める。そして無垢な少女は神様へ祈るように、ポツリと願いを口にした。
「死なないでよ、ハロルド……」
◇
「とりあえず死ね」
開口一番、ハロルドはイツキにそう告げた。絵に描いたような好青年であるイツキはそんな暴言にも慣れたもので難なく受け流す。
「元気なようで安心したよ。何か飲む?」
「いらん」
場所はカブランの喫茶店。夕食にしゃれ込みたい時間帯ではあったが何かを食べながらでは落ち着いて話を聞くことができないと思い、適当に目についたここへイツキを連れ込んだのだ。
対面に座っているイツキはいつもながらの爽やかな笑みだ。逆に煽られているような気さえする。
「さっさと一から説明してもらおう」
「まあ簡単に言うと僕が結婚するんだ」
「ほう」
いかにも無関心ですとばかりにハロルドが相槌を打つ。
これでも一応は祝っているつもりなのだが。
しかしイツキもいよいよ結婚するのかと思うと感慨深い。改めてスペックを語れば顔良し、性格良し、家柄良しで、おまけに剣の腕も立つ完璧超人だ。むしろよく今までフリーだったものである。
欠点を挙げるとすればシスコンだということくらいか。
そういえば以前、ハロルドが騎士団に入る少し前にイツキと互いの結婚について語ったことがあったなと思い出す。
イツキがあまりにもしつこくいつエリカと結婚するのかと問い詰めてきたことがあった。さすがに将来破談にするつもりだとは言えず、口から出まかせで貴様が結婚すれば考えてやるとお茶を濁したことがあった。
なら遠くない内に僕達は兄弟だなと嬉しそうに肩を組んでくるイツキだったが、その時偶々居合わせて会話を聞いていたユノが笑顔でプレッシャーを放っていたのはハロルドにとって冷や汗ものの思い出である。あの人もかなりの美人だがお相手はいないのだろうか。
「僕の妻になる人がこの街の盟主様の娘でね。家に嫁入りする前に結婚を祝って祝賀会を開催するということになった」
「それで?」
「格式張った堅苦しいものじゃないから一家総出というわけではないんだ。でも義理の姉妹となるエリカを連れてこないというのもどうかと思ってね」
「帰っていいか?」
「問題なのは身内だけではなく大々的にやるみたいで、他の貴族や商家の子息も多く参列することになっている」
イツキはハロルドの言葉など聞こえていないかのように話を続ける。完璧に無視された。
ハロルドを相手にこんな態度を取れるのはイツキくらいだろう。
「そこで君には僕の妹に言い寄る獣達を追い返す虫除けになってもらおう」
「相手が獣なのか虫なのかはっきりしろ」
「虫けら同然の獣だ」
臆面もなくさらっと毒を吐くイツキ。好青年という評価は撤回した方がいいかもしれない。
というか大事なのはそこではなかった。
「なぜ俺がそんな面倒に付き合わなければならない」
「だって君はエリカの婚約者だろう。むしろ当然じゃないか」
「貴様の頭の中はどうなっているんだ?五年前、俺がエリカとの婚約は解消しろと言ったのを忘れたか」
「覚えているさ。そしてそれを承諾した覚えもない」
「そんなわけが……」
「父は『いずれこの日が来ると思っていたよ。これは避けられないことだったんだろう』としか返事をしていないはずだけど?」
確かにそうだ。
だがあの娘思いのタスクが、エリカを犬猿の仲の相手と結婚させるはずがない。婚約を破棄できるならそうするだろう。だからあれは「婚約破棄は避けられないものだったと」と返答したのだと思っていた。いや、思い込まされていたのだ。
もしあの言葉が「破談は避けられない」という意味ではなく「破談を申し込まれる日が来ることを避けられない」という意味だったのだとしたら、婚約破棄の成否については明確な言及をしていないことになる。
ハロルドが愕然としている内に、イツキは注文していたコーヒーに口をつけた。
一息をついてカップをソーサーに置いたイツキが改めて向き直る。ハロルドの見間違いでなければそのこめかみには青筋が浮かんでいた。
「だいたいね、君は身勝手すぎるんだ。何でもかんでも一人で決めて一人で動く。かと思えば知らぬ間に大変なことになって死にかける。心配する側の気持ちになってみろ。感情論を差し引いても君の発案で導入した農法の運営を父に丸投げしたせいで、今や僕まで巻き込まれて現場に駆り出される始末さ。まあそれ自体には感謝しているし文句を言うのは筋違いだと百も承知しているが、もう少しやり方ってものがあるだろう。いい機会だから言わせてもらうと君みたいなわがまま小僧の言い分を聞いてやる義理はないね!
どうせ婚約破棄の宣言もスメラギの家に迷惑がかからないようにとかそんな下らないことを考えたんだろうけど残念ながら君のおかげでもう持ち直しているんだよ。君の悪評ごと飲み込むなんてわけもないさ。自分勝手な物言いだと思うかい?お互い様だ、上等だよ。君がそうするように僕も身勝手にやらせてもらうことにしたんだ。ちょうど結婚を機に実家に関わる案件をいくつか任されることになったからね。その中にはエリカの婚約を判断するものも含まれている。幸い“あの手紙”には責任者が父でなければならないという文言はなかったんだから別に構わないだろう?
ということで改めて言わせてもらうよ。スメラギ家次期当主、イツキ・スメラギは君とエリカ・スメラギの婚約破棄を絶対に認めない!」
ハロルドが、喫茶店の店員が、他の客が、一人残らず呆気にとられる。公共の場でいきなり長々と説教をされたと思ったら、最終的には何を宣言し出した。屹立し右手の拳を握る様は力強く、まるで選挙演説のようだ。
ここまで一度もハロルドの名前を出していないことから身バレをしないよう気を遣ってくれているのは分かるが、スメラギの名前を出していてはヒントを与えているようなものだ。そして何よりももっと他の部分でも気を遣ってほしい。店内の注目を一身に浴びるような状況は作られては堪ったものではない。
「君にはこれ以上ないほど感謝しているよ。でもそれとこれとは話が別だ。どうだい、呆れるほど身勝手だろう?」
「くっ……子どもか貴様は」
勝ち誇り、どや顔を披露するイツキ。なんだそれはと憤慨する気も削がれるほど幼稚な言い分だ。
全くもって理知的とは言い難い。こんな残念な頭の仕上がりで結婚などして大丈夫なのかと怒りを通り越して心配すら感じる。
「まあ正直僕も今のはどうかと思うけど君と付き合っていくにはこれくらい厚顔無恥にならないと対等にやっていけないからね。振り回されてばかりいるのは趣味じゃないんだ」
「はっ、結局は貴様の負けず嫌いな性格を元にした感情論か。貴様のような兄貴に婚約を押し付けられるエリカが哀れだな」
「あれ?今エリカのこと名前で呼んだ?ねえ、呼んだよね?そうかー、お兄ちゃんが知らない内に仲は進展してたかー」
(うぜぇ……!つーかそのくだりはもうお前の父親とやってんだよ!)
親子だけに同じ部分に食いついてくる。ただし反応の仕方はまるで違ったが。
薄々以上に気付いていたがイツキの煽りスキルは相当高い。しかもハロルドのように全自動全方位に発動するわけではなく標的を狙って煽れる分使い勝手が良さそうである。まあ任意発動なのは普通に考えれば当たり前なのだが。
「と、冗談を言ってる場合じゃなかった。とりあえず僕の言いたいことは分かっただろうしエリカの虫除けは任せたよ」
「ことわ――」
「はいこれ。博士から頂いた委任状」
イツキが不穏な言葉と共に一枚の用紙を懐から取り出す。絶望を感じながら目を通せば本来ユストゥスが持っているハロルドへの強制命令権を指定された期日までイツキへ委任すると記されていた。思えば事前に拒否権はないと釘を刺されていたのもあるし最初からハロルドに逃げ場などなかった。
いわゆる詰みの状態である。
「ということだ」
「エリ……アイツは何と言っている?」
「素直に名前を呼べばいいのに……。エリカは君が来ることを知らないよ。今も友人に会ってくるって抜け出してきたから」
「なんだと?」
「驚かせようと思ってね」
驚きはするだろう。めでたい席にハロルドがいれば驚きのあまり開幕ビンタが炸裂するくらいはあり得るかもしれない。
面倒事を押し付けるイツキを恨みたくもなるが、彼の意趣返しと考えれば自業自得でもある。己の口を忌々しく思うが、そうしたところで口調の変換を止めてくれるわけもなかった。
「ひとまず今日は予約してある近くのホテルで一泊してもらうよ。明日の昼前に迎えに来るからエリカや先方への顔合わせはその後だ」
「待て。エリカはともかく貴様の婚約者に俺をなんと紹介するつもりだ?」
「それは当然婚約者だけど?」
「やめろ。ろくなことにならないのは目に見えている」
ハロルド・ストークスの悪評的に。仮にハロルドがエリカと結婚すれば相手方にとって身内になってしまうのだ。向こうとしては全力回避間違いなしだろう。
イツキに対してハロルドとエリカの結婚を考え直すよう説得してくれるならいいが、これでイツキの結婚の方がおじゃんになっては心が痛むどころの騒ぎではない。
「うーん、しかしただの護衛が言い寄る男をばっさばっさと切り捨てるのも騒動の原因になりかねないし……そうだ!」
名案を思いついたと言わんばかりにイツキがぽん、と手を叩く。そしてハロルドの黒歴史を掘り起こす……いや、塗り替える提案をするのだった。
「君は明日からエリカの婚約者であるロード……ロード・ストルースだ!」
イツキが登場するとスラスラ書ける不思議。