61話
「いいんですか?」
訝しむようにエルがそう尋ねた。重要な機密だと言っていたにも関わらず白状しようとしたのを怪しんでいるのかもしれない。
教えてもらえるならそれに越したことはないが、確かにリーファとしても本当にいいのかと感じるところはある。
「情にほだされたなどと言うつもりはない。ここでこれから語られることはあらゆる記録にも、誰の記憶にも残らないのだから話すも話さないも大した違いはないだろう。まあやはり聞くのが怖いというなら止めるがね」
清々しいほどの詭弁。言葉通りリーファの気持ちに胸を打たれて、というわけではないのだろう。
だがそれでも聞かないという選択肢はリーファにはなかった。
「そこまで脅されるとボクとしては遠慮したいんですけどね……どうせここで引いてもリーファは止まらないでしょう。リーファ一人に背負わせるくらいならボクもご一緒するよ」
「ありがとう、エル」
観念したように承諾したエルにリーファは感謝する。言動からして彼女がここで話を聞くのは得策ではないと考えているだろうことは明白だった。機密を知ることのリスクや、リーファでは及びつかない難しいことに頭を悩ませていたのだろう。
それらを踏まえた上でリーファのわがままに付き合ってくれるというのだ。
「ならば語ろう、ボクとハロルドが出会った五年前のことを」
◇
当時からこの研究所に勤めていたユストゥスがハロルドの名前を耳にしたのは研究の進捗状況を報告しに王城へと足を運んだ時のことだった。たまたま騎士団員達が立ち話をしているのを小耳に挟んだのだ。
「最近正規の手段じゃなくて特別試験を受けて騎士団に入った奴がいるらしいぞ」「どうせお偉いさんのコネじゃないのか?」「いやいや、聞けば設けられた試験で何十人もの新兵を一方的に倒したとか」「そりゃ新兵が弱かっただけだろ」「それは否定しきれないんだが、なんとその新入りはまだ十三歳の子どもだって話だ。しかも歴代最年少で聖王騎士団に入った天才なんだと」「つまりは副団長よりもすげぇってことか?」「どんな化け物だよそいつ」「確か名前はハロルド・ストークスって……」
口々に新しく入ったという少年について語っていた。本来の自分なら気にも留めない、城を出る頃には記憶から抹消されていたであろう些末な情報。
この時ユストゥスの頭にハロルドの名前が残ったのはとあるフレーズのせいだった。
“副団長よりもすげぇってことか?”
一人の団員が発したそれは、単なる可能性を指した言葉だ。そのハロルドという少年が聖王騎士団副団長・フィンセントの十三歳当時よりも強いかと言えばそう単純に比較できるものではない。
だが、もしかしたら本当に上回るかもしれない可能性が存在する。それも屁理屈や言葉の綾で言われるような可能性ではなく、現実に起こり得るかもしれないというレベルでだ。フィンセントとは交友があり、その規格外の戦闘能力を知っているユストゥスからすればにわかには信じ難い話であった。
しかしそもそもとしてあの傑物と比較されるだけの要素を含んでいる時点で尋常ではない存在なのだ。
フィンセントは強い。戦うための力だけではなく、苦難に屈しない心も、悪に立ち向かう正義感も、弱き者に手を差し伸べる優しさも。味方にすればこの上なく頼もしく、敵に回せば誰よりも強大な壁として立ちはだかるであろう男。
他国を見渡してもこれほどの人間はいない。世は彼のような存在を英雄と呼ぶのだろう。
そんなフィンセントを超えるかもしれないしれない少年が、ユストゥスには気にかかった。
いつの日か顔を合わせてみたいものだ。そんな風に思っていた矢先のことである。
当然のように研究へ打ち込んでいたユストゥスの元に再びハロルドの名が届いた。周囲の状況など完全にシャットアウトし、世間で何が起きているのかすら把握していない彼が知覚するほどに、王都はハロルドの話で持ち切りだった。
曰く任務中に上官の命令に違反して敵前逃亡。しかしそれは演技であり実はサリアン帝国の間者だったハロルドは騎士団を裏切って情報を帝国引き渡し、手引きしておいた帝国軍による奇襲を仕掛けて甚大な被害をもたらした。
壊滅寸前まで追い込まれた騎士団だったがギリギリのところで本陣が踏みとどまったことと、ハリソン統括長が直々に率いた王国軍の後援部隊の奮戦により巻き返すことに成功して帝国軍を殲滅。その際に裏切り者であるハロルドを瀕死ながらも生きたまま捕縛することにも成功した。
それでも騎士団の遠征部隊が半数以上死傷し、国軍の到着が間に合わなければ最悪騎士団と星詠族の紛争にまで発展していただろう。それほどの大惨事を画策したハロルドは到底許されるべきではなく死刑に判決は妥当である。
これが巷で語られていた事の顛末だった。これを聞けばハロルドが死刑になるのは当然という論調にも納得がいく。もし流布されている話が真実であれば、だが。
一連の話を聞いて真っ先にユストゥスが感じたのは騎士団を裏切ったことへの怒りでも期待外れだったという失望でもない。あまりにも整えられた状況への不自然さだった。
身元が確かな貴族の息子でたった十三歳の少年がどうやったら帝国軍の間者になるのかとか、王国軍が駆けつけるタイミングがあまりにもよすぎるだろうとか、流して聞いただけでも気になる点がいくつかある。その中でも最たる違和感は、ここまで詳細な噂がどうして遠征部隊の帰還後数日という異常なまでの早さで広まっているのかということであった。
通常であれば事の次第が大きいほど状況の整理と確認ができるまで情報統制が行われるはずだ。状況の整理など口で言うのは簡単だが正確に把握するにはかなりの手間と人員、そして時間を要する。
それが遠征部隊の帰還と同時に終了しているというのがまずおかしかった。聞けば拘束直後のハロルドは意識不明の重体で、意識が戻ったのは王都に到着する数日前だったという。尋問して情報を出揃わせる時間すらあるかも怪しい。
帝国軍の捕虜から引き出した情報もあるだろうが、捕虜対策が施されているだろう全員の証言が一致するとは考えにくいし、それらの情報を精査する時間と労力が多くの死傷者を出し帰還だけでも手一杯だった遠征部隊にあるはずもない。
結論から言えば流布されている噂は意図的に広められているもので、その内容が真実である可能性は低い、ということだ。もしかするとハロルドは何者かによりスケープゴートにされたのでは?とも考えた。
しかしそうだったとしたらなんだというのか。事実だろうが嘘だろうがそんなものはユストゥスに関係はなく、何より他人の生き死にに微塵の関心もない。
普段ならばそう切って捨てるところだ。ハロルドが秘めている可能性を気にかけてさえいなければ間違いなく見捨てていた。見捨てるという意識すら持ち合わせることはなかっただろう。
偶然ハロルドに興味を抱いたこと、偶然ハロルドの悪評を耳にしたこと、偶然騎士団や審議所にちょっとした伝手があったこと。数々の偶然が重なり合った結果、ユストゥスはハロルドと面会するという機会が訪れた。まあ面会と言っても直接顔を合わせるわけではなく、遠目からその姿を確認した程度のことだったが。
王都にある審議所の地下牢。そこで出会った、腕を鎖で壁に繋がれた黒髪赤眼の少年。
彼こそがハロルド・ストークスだった。
最初に受けた印象は狼。
孤高で、研ぎ澄まされていて、誇り高く、自分しか信じていない。そんな雰囲気をまとっていた。牢に囚われ、鎖で繋がれ、死刑の執行を待つという絶望的な状況にあってなお、彼の瞳は翳りなく燃えていた。瞳の色と同じ、深紅の炎を宿しているかのように。
言葉のひとつも交わす前にユストゥスは確信した。ああ、彼は絶対に間者などではない、と。彼ならばきっと手段は選ばなくとも生き様は選ぶだろう。己の信念を貫くためなら死を厭わないからこそ、今もあれほど力強い目をしているのだ。
陳腐な言葉で飾るならば「美学ある悪」とでも評すればいいのか。なんにせよ死なせるにはあまりにも惜しい人材だとユストゥスは直感的に悟った。
そこからの行動は我ながら迅速だったとユストゥスも思う。研究に関すること以外であそこまで能動的なアクションを取ったのはかなり久しぶりのことだった。
仕事を通じて交友があったお偉方や権力者に総当たりし、死刑執行の遅延や助命の嘆願をして回った。
しかしユストゥスの立場はただの科学者。面倒事を背負い込んでまで彼の嘆願を聞き入れる者は現れなかった。
だからユストゥスは手を出したのである。ハロルドの命を助けるためだったとはいえ、開発した自らが禁忌と定めた呪いにも似た実験に。
地下牢での二度目の邂逅。自分の前に姿を現したユストゥスを目にして、ハロルドは何よりも先に彼の名を口にした。
「ユストゥス・フロイント……」
「ほう、ボクのことを知っているのか?」
「貴様のような男がここへ何をしにきた?」
「……そうだな、無駄な話は省こう。座して死を待つのを良しとしないのならこちらへ来い、ハロルド」
単刀直入。真正面から切り込んだ。
そんな言葉を口にしたユストゥスの狙いを読み取ろうとしてか、ハロルドは睨みつけるような目を彼に向ける。ユストゥスとしても彼が簡単に乗ってくるとは思っていない。ハロルドの視線を受け止めながら、彼が口を開くのを待つ。
「戯言だな。貴様なら俺に下された判決を覆せるとでも言うのか?」
「ああ、そうだ。必ず覆してみせる」
力強く断言した。はったりでもなんでもなく、自分が開発した武器と交渉術があればそれが充分可能だという自負があったからだ。
あの武器が実用化できれば王国は無敵の軍隊を作り上げることができる。そのために死刑囚一人の命を生贄に捧げることを躊躇する者はいないだろう。ただ殺すのではなく利用し、弄び、苦しめて殺すのだから、ハロルドの死を望む者の溜飲も下がる。
そうなれば上がる反対の声などは極僅かだ。押し潰すことなど造作もない。
「ただしこうも言っておく。ボクの下へ来ればさらなる地獄を味わうことになるかもしれない」
「……どういうことだ?」
「ボクが開発し、欠陥の大きさ故に封印せざるを得なかった剣がある。そいつは使用者から魔力を吸収することで飛躍的に戦闘能力を向上させる代物だ。その副作用として使用者は命を削られ、やがて死に至る。君にそれを振るう覚悟があるならば、ボクがここから解き放ってやろう」
包み隠さず全てを打ち明ける。ハロルドに与えた選択肢は二つ。
ここで無抵抗のまま死を受け入れるか、僅かな猶予とさらなる苦難を与えられた上で死ぬか。どちらを選んでも死は避けられない無慈悲な選択を突きつける。
良心が痛むなど高尚なことは言わない。本当ならばハロルドにこんな選択肢など存在しなかったし、元よりユストゥスの行動原理は善意ではなく己の興味に従った結果なのだ。
「……く」
「?」
「くくく……ハハハハハ!」
ハロルドが笑う。嗤いながら、呵う。
まるで深淵の底から響いてくるような、聞く者をゾッとさせる邪悪さに染まった笑声。あまりに場違いなそれは止むことなく、狂ったように、ただひたすらに、薄暗い地下牢を満たし続ける。
「……何が可笑しい?」
悪魔かと錯覚しそうになるハロルドを前に、意を決してユストゥスが問う。するとハロルドの笑い声がピタッと止まり、地下牢内で反響していた木霊も収まっていく。
一転して訪れる静寂。ユストゥスのこめかみを汗が伝う。それが冷や汗だと自覚して、自分が目の前の少年に気圧されていることに気付いた。
「何が可笑しいか、だと?これが笑わずにいられるか」
ハロルドが立ち上がりながらそう答える。腕が鎖によって後方に引かれ背筋を伸ばすことができず、前のめりな体勢になりながらもその目はユストゥスを捉えて離さない。
ガシャン、と鎖が鳴る。壁に繋がれていることなどお構いなしにハロルドは歩み出ようともがき、そうするごとに鎖が悲鳴を上げる。
「さらなる地獄?命を削り、死に至る覚悟?」
ガシャンガシャンと、その音はどんどん大きさを増していく。
鉄輪が装着されたハロルドの両手首から血が滴り始めた。それでも彼はもがき続ける。
「その程度がなんだと言うんだ?俺を舐めるなよ、ユストゥス‼」
一際大きな音を立てて、ついには鎖が千切れた。数歩踏鞴を踏んだハロルドはそのまま牢の柵を両の手で掴む。
手首から飛散した鮮血がユストゥスのくたびれた白衣を汚した。
「剣を、力を寄越せ。俺が貴様に本当の地獄と覚悟を教えてやる」
「……素晴らしい、文句の付けようのない回答だハロルド」
ハロルドとユストゥスが笑い合う。それは投合とは真逆の、互いへの宣戦布告を示す悪逆な笑みだった。