58話
リーファにとって王都での生活は刺激と新鮮さに満ち溢れたものだった。自分の村にいたのでは一生見ることができないだろう物、経験できないだろうことが王都には数多くあった。
恵まれた環境に思わず置かれた状況を忘れてしまいそうなほどだったが、それでも心の底から楽しめないでいるのは自分の軽率な言動でハロルドに迷惑をかけてしまったという自責の念を少なからず感じているためだ。
ならば早く謝罪をしてわだかまりをなくしてしまえばいいのだが、いざハロルドと顔を合わせるといつもの挑発に反応して売り言葉に買い言葉になってしまう。結局謝るタイミングを逸したまま今に至ってしまった。
そして心に若干の引っかかりを残したまま迎えた滞在三日目。この日、ようやくユストゥスとの最初の談論が行われた。
時間にすれば小一時間。しかしそれはリーファにユストゥスという人間がいかに優れた人間かを印象付けるには十分なものだった。
自分とは違う視点、自分にはないアイディア。完成したと思い込んでいた自身の論理の改善点が次々と見つかる。伸びた鼻を折られるような感覚こそあったが、悔しさや恥ずかしさよりも、自分の魔法の完成度がさらに上がるだろうことを考えると、楽しみの方が遥かに上回っていた。
だが、それでもリーファの気分は晴れない。
「はあ……」
「どうしたの?元気ないね、リーファちゃん」
時刻は日が傾き始めた頃。休憩を兼ねてフリースペースでゆっくりしていると、そこに居合わせた男性に声をかけられた。名前までは記憶していなかったが人当たりの良い笑顔はリーファの印象に残っている。
その男性はあたかもそうすることが自然かのようにリーファの向かい側に腰かけた。
「別にそんなことないけど……」
「さっき所長さんにリーファが考案した技術論を聞いてもらったんだけど、自分で思っていたよりも至らないところが多かったせいでちょっと落ち込んでるみたい」
「容赦ないなぁユストゥス所長も……」
隣に座っていたエルがさり気ないフォローを入れてくれる。事実ではないが余計な詮索をされないで済むならその方がいい。ここ数日で、リーファはここの職員達とあまり会話をしたくないと思い始めていた。
「でもそれなら心配することなかったな。俺はてっきり、アイツに嫌な目に合わされたのかと思ったよ」
その理由がこれだ。彼らは何かにつけてはハロルドの名前を挙げ、程度の差こそあれ貶める。
彼らの悪意はハロルドの言動や伝え聞く悪逆非道な振る舞いが原因で、それはつまりハロルド自身の責任だ。それを無視してハロルドをフォローしようとは思わない。
確かにハロルドは性格がひねくれていて、口を開けば嫌味と皮肉と嘲笑を浴びせかけてくるような男だ。嫌われるのも頷ける。
しかしリーファにとってハロルドはそれだけの人間ではない。
口約束に過ぎないようなお願いで氷竜を相手に戦うという危険を冒してくれた。それも氷竜が二体同時に現れるという非常事態でもハロルドは約束を守ってくれた。本当に非道な人間であれば真っ先に見捨ててしまいそうな状況にも関わらず、躊躇なく助けてくれた。
傍若無人で自分勝手な人間が律儀にもそんな約束を守ってくれるものだろうか。少なくともリーファにはそう思えない。
後の見返りを期待しての行動かもしれないが、それも結局はリーファの研究の手助けになっているだけで、ハロルド本人には何の利益も発生していないように思える。
「うーん、ボク達は彼に何かされたことなんてないから危機感が湧かないんだけどね」
「そうやって油断させてるんだって!アイツには近づかない方がいいよ」
ハロルドがいかに危険かを力説する男。彼にとってはそれが事実であり、リーファ達の身を案じての行動なのだろう。
だがそれもリーファを惑わせるだけのものだ。
延々と続くハロルドを罵倒する言葉。エルはそれを聞きながらなぜそんなことを言われるようになったのかと、ハロルドの過去を探る。あまり耳にしていたい会話ではなかった。
そんなことを考えているとますます気が滅入ってくる。というか本当に気分が悪くなってきた。
「……ごめん、あたし部屋に戻るわ」
それだけ言うと二人の声に耳も貸さずリーファは席を立った。そのまま振り返ることもなくあてがわれている部屋まで戻ると、ベッドに横たわって布団を頭まで被る。
これはリーファの癖だった。
母親にこっぴどく叱られた時、研究が行き詰った時等々、嫌なことがあるとリーファはこうして布団にくるまり、暗闇の中で心を落ち着けようとする。両膝を抱きかかえながら寝ころんだリーファの頭には自分の行動への後悔や、ハロルドに対する疑問などが次々と浮かんでは、答えを出せないままに思考は堂々巡りを繰り返す。
どれくらいの時間そうしていただろうか。気が付けばリーファはその姿勢のままで眠りに落ちていた。だいぶ長く寝ていたのか大量の汗をかき、シャツが肌に張り付いて不快だ。
うぅ、と唸りながらのそのそとベッドから顔だけを出す。窓の外を窺えばすでに夜の帳が落ちていた。かなり長い時間寝ていたようだ。
「起きた?」
その声に寝返りを打てば自分のベッドライトだけを灯してハードカバーの本を読んでいるエルの姿があった。本をパタリと閉じると、テーブルに置いてあったトレイを取ってリーファへと持ってくる。
トレイに乗っていたのはサンドイッチとサラダ。さらにエルは水差しから氷水をコップに注いでリーファに手渡した。
「調子はどう?軽食は用意したけど足りないなら食堂に行く?」
「ううん、これでいいわ。ありがとう」
感じている空腹は強いものではないのでこれだけあれば足りるだろう。まずは受け取った氷水を半分ほど飲み干して、大きな息をついた。
そんなリーファをエルは優しい瞳で見守っていた。その視線に少し気恥ずかしくなる。
「何よ?」
「色々と思い悩んでるみたいだから相談に乗れることでもないかなと思って。余計なお世話かもしれないけど」
どうやらエルには胸中を察せられていたらしい。まあ別に隠すことでもなければ、エルにも聞いておきたかった話でもある。
そう考え、リーファはぽつぽつと心の内を語り始めた。
「エルはさ、ハロルドのことどう思ってる?」
「それは彼が噂に聞く通りの人間かどうかってことだよね?」
「うん」
リーファが何を聞きたいのかをエルは正確に把握していた。もしかしたらエルも同じようなことを考えていたのかもしれない。
「いまいちよく分からないかな。口は悪いし性格も良いとは言わないけど、悪逆非道な殺人鬼なんて印象と結びつくほど冷酷な人間でもない。ハロルドの言葉を借りるなら誰かが彼の悪い噂を流してるみたいだし」
「そういえばそんなこと言ってたっけ」
それがハロルドの大きなギャップに繋がっているのだろうか。そうだとしたらハロルドはやはり悪い人ではないのかもしれない。
しかしそんな方向に傾きかけた心をエルが引き戻す。
「でも火のないところに煙は立たないとも言うしね。あの性格なら至るところで大きな問題を起こしてたり恨みを買ってても不思議じゃない。だから分からない……というかハロルドに関して知っていることが少ないから手持ちの情報だけじゃ判断できないよ」
「でもエルはハロルドのこと知ってたんでしょ?」
「それも噂に関してだけだよ。審議所での一件もそうだけど彼の情報はどうも秘匿されがちなんだよね。本人による隠蔽もあるんだろうけど、それだけ彼が抱えている秘密は多いのかもしれない」
「ハロルドの秘密……」
確証もなく状況証拠だけで処刑されかけた。それが何者かによる手回しである可能性が高いということ。その上でシナリオ通りであるかのように処刑を免れて身を置くことになった研究所では被検体としての生活を送っている。
エルに教えてもらっただけでも不可解な点はこれだけある。加えて挙げればハロルドがなぜサリアン帝国の軍服を着ていたのかや、彼の審議に関わっていた人間に話を聞こうとした途端その人間が突如として錯乱状態に陥って命を落としかけた、という謎も残っているのだ。
これだけのことがハロルドを中心に起きている。彼がひた隠しにしている秘密とは果たしてどれほどのものなのか想像もつかない。
「周りの声に引きずられないようにするのは難しいかもしれないけど、どうするかは自分の目で彼を見極めてから決めればいいさ。それがハロルドの近くにいる人間の特権だよ」
「……うん、そうよね。ありがと、ちょっと元気出たかも」
「それは何より」
言われてみればその通りだ。元よりリーファ自身が周囲の声など意に介さず自分のやりたいことをやり抜いてきた人間である。発明家の道も無理だと言われようが、ダメだと止められようが、自分で決めた意思を貫いてここまできた。
人への評価や物の価値においても同様だ。リーファには自分の中に明確な基準がある。そのはずなのにどうしてハロルドに関してだけはこんなにも迷ってしまうのだろうか。
(もしかしてこれ、ハロルドが悪い人間であってほしくないっていうあたしの願望なのかな……?)
ふとそんなことを思う。
周りから疎まれ、排他される。味方も理解者もいない孤独。それは奇しくも村で変わり者扱いされているリーファの境遇と似通っていた。
そんなハロルドに自分を重ねていたのだとしたら?だから無意識の内にハロルドが正しくあることで自身の正しさも証明できると思い込んでいたのかもしれない。情けない話ではあるがそう考えると納得がいった。
ハロルドがどんな人間か、その本質が見えてこないわけである。リーファはハロルドの表面的な部分しか捉えておらず、彼の中身を知ろうとしていなかった。
そう思うといてもたってもいられなくなるのがリーファの性分だ。目の前にあるサンドイッチとサラダをあっという間に平らげる。
「ごちそうさま!」
「そんなに急いで食べることないのに」
「ちょっとハロルドに会いに行きたいの」
「こんな時間にかい?」
慌ただしく動き始めたリーファに苦笑しながらエルが時計を指さす。時計が指し示している時刻は間もなく日付も変わろうか、という位置だった。ハロルドはもう眠っているかもしれない。そうでなくとも訪ねるには非常識な時間帯である。
そして何よりもこんな時間まで眠っていた自分に驚きだ。
「さすがに今からは迷惑か~……」
「まあ夜這いするっていうなら適した時間だけどね」
「しないわよ!」
「止めないし、秘密にするよ?」
「そんな気遣い必要ないから!」
エルの茶々にしっかりツッコミを入れつつハロルドへの来訪を諦めるリーファ。時間も時間なのでそのまま就寝することになったのだが、直前までぐっすりと熟睡していただけにそう易々と眠気は訪れなかった。
しばらくじっとしてはゴロゴロと寝返りを打つという行為を何度も繰り返すこと数時間。一度も睡魔に襲われることもないまま空が白み始める。研究や開発に熱中するあまり徹夜をしてしまうことが多いリーファにとっては見慣れた空だ。
どうせ眠れることはないのだし、と気分を入れ替えて、明け方の澄んだ空気を吸いに散歩でもすることにした。隣で眠るエルを起こさないよう音を立てずに部屋を出る。
実のところ、こうして朝の散歩を楽しむというのもリーファにとっては新鮮なことだった。リーファの村は小さく、また農業や畜産で生計を立てている家がほとんどのため、とにかく朝が早い。空が明ける前から動き出す家もざらにある。
そんな時間帯に出歩きでもすれば村で孤立しているリーファの姿は嫌でも目立ってしまう。それもあってリーファがまともに外出できるのは日が暮れてからに限られていた。
ここではそんな窮屈な生活を強いられることもない。気の向くままに研究所の敷地内をゆっくり回っていく。
そんな時、リーファの耳が微かな風切り音を拾った。その音に誘われるようにリーファの足が研究所から離れた物陰へと導かれていく。
そこには形状の異なる二振りの剣を自在に操るハロルドの姿があった。
目を奪われる、というのはまさにこの瞬間のことを言うのだろう。ハロルドが剣を振る様は洗練された舞踏のようであり、見る者を惹きつける。氷竜を倒した時は距離が近かったこともあって何が起きているのかさっぱりだったし、何よりも理解が追い付かないほど圧倒的な強さを持つハロルドに畏怖を抱いた。しかし改めて見れば彼の戦いがいかに美しいものか分かる。
戦う力を美しいと感じたのは初めてのことだった。
どれくらいそうしていたのか時間の感覚はない。最優先の目的であるハロルドを前にしてもただ見とれていた。
結局ハロルドの剣舞が終わるまでリーファが我に返ることはなかった。二本の剣が腰に下げられている鞘にカシャンと収まる。
それが合図となったのか、まるで熱中していた舞台の幕が下りた瞬間のように一気に現実へと引き戻された。そこでようやくリーファは当初の目的を思い出す。
早朝で辺りに人目もない。人に聞かれたくない話をするなら絶好の好機である。
訓練も終わったようだし今なら話しかけても邪魔にならないだろうとリーファが一歩を踏み出したのと、ハロルドがはばかることなくシャツを脱いで上半身を曝け出したのはほぼ同時だった。恐らくハロルドとしても裸体を見せつけようとしたわけではなく、ただ単に汗で濡れたシャツが気持ち悪かったから脱いだのだろう。誰かに見られているとは思ってもいないはずだ。
しかしそれはリーファにとって不意を突かれるものであり、あっと思う間もなく彼の露わになった上半身をその目にしっかりと焼き付けてしまう。
身長が高いこともあって服の上からでは細い印象を与えるハロルドだが、その体には無駄な贅肉など一切なく、強靭さとしなやかさが共存している筋肉は機能美すら感じさせる。彫刻で張られたかのような艶やかな、それでいてたくましい肉体。
恋愛経験皆無かつ初心なリーファにはあまりにも刺激的な異性の裸体がそこにはあった。
脈拍が跳ね上がる。鏡を見ずとも分かるほど急速に血が昇っていくのが感じられた。間違いなく今の自分は真っ赤な顔をしているだろう。
こちらに背を向けているハロルドはまだリーファの存在に気付いていない。ここは両者のためにも立ち去って一旦間を置くべきだ。
頭ではそう分かっているのに、ハロルドの鍛え上げられたその体から視線を外すことができない。足がその場に縫い付けられたかのように体の自由が利かない。
そしてとうとう、ハロルドが振り返る。
まず目が合った。深紅の瞳がリーファを射抜く。出会ってからこれまで何度も見てきた、貴様に興味はないとでも言いたげな瞳にどうしてか今は魅入られる。
言葉を継げられない。さっきまではあれほど話をしたいと思っていたはずなのに、おはようの挨拶も、盗み見ていたことに対する弁明も、何一つ口にすることができない。鼓動は早鐘を打ち、浅い呼吸を繰り返しながら立っているだけで精一杯だ。
そんなリーファとは対照的に、彼女の存在を知覚したハロルドの動きは淀むこともない。脱いだシャツを右肩にかけたままリーファの方へと歩み寄ってくる。
一体どうなるのか、何をされるのか、考えることもできないほどにリーファの思考は茹で上がっていた。
ついにハロルドが目の前まで迫る。それでも彼の歩みは止まることなく、リーファの脇を通り抜ける瞬間、その口を寄せて耳元で囁いた。激しい運動をしていたせいだろう、熱っぽさを宿したハロルドの声がリーファの耳朶を打つ。
「覗きが趣味か?天才発明家らしいご立派な嗜みだな」
いつも通りの皮肉に、リーファの背筋がゾクゾクと震える。恐怖や寒気とは違う、未知の感覚。
ハロルドはそれだけ言い残して何事もなかったかのように立ち去って行った。取り残されたリーファは腰が砕けたようにぺたんと座る。
異常だ。自分の体にはこれまで体験したことのない異常が起きている。しかしその原因が分からない。
それでも一つだけはっきりしているのは、しばらくハロルドの顔をまともに見られそうもない、ということだった。
『俺フラ』初の肌色回。
脱ぐのは当然主人公。




