57話
庭園でエルとの打ち合わせを終えた翌日。ハロルドが起床したのはまだ太陽も昇りきっていない、明け方の薄暗い時間帯だった。
自室で手早く準備を済ませると、人の気配が全くない研究所内を物音ひとつ立てずに移動して屋外へと出る。その手には氷竜との戦いで用いた二振りの剣が握られていた。
研究所から適当に距離を取ると、ハロルドは見えない敵を相手にしているかのような気迫を感じさせながら、その二本の剣を縦横無尽に振るう。
さらに剣だけではなく、斬撃の合間には拳や蹴りといった打撃技も挟まれていた。
かれこれ八年間、ほとんど毎日行ってきた自己鍛錬。始めたばかりの頃と比較すれば威力も速さもキレも正しく段違いと言えるレベルまで達している。見る者を圧倒するような荒々しくも流麗な剣舞がそこにはあった。
端的に言ってしまえばゲームにおけるコンボ技の修得練習に過ぎないのだが。ハロルドからすれば実益を兼ねた趣味に近い感覚である。
しかし「継続は力なり」ということわざもある通り、ハロルドの体が高い身体能力を有していることを考慮しても、本人の努力の賜物であることに違いはなかった。でなければ氷竜二体を瞬殺などそう易々とできることではない。
無尽蔵な体力に物を言わせ、休むことなく二時間ぶっ続けで行われるトレーニング。それを終える頃にはさすがに汗だくになっていた。それでもまだ余力が十分に残っているのだから恐ろしい体である。
ひとまずかいた汗を水浴びできれいさっぱりと流したハロルドは、ちらほらと職員が姿を現し始めた所内を我が物顔で闊歩する。無論すでにスイッチは切り替わっている。
おかげで相も変わらず突き刺ささる敵意の視線に臆することなくスムーズに目的の場所へ到着した。
そこは開放感のある所内の食堂だった。壁の一角が一面ガラス張りになっており、そこから差し込む昇ったばかりの朝日がキラキラと反射しながら食堂内を照らしている。
この食堂は昼夜以外にも、徹夜した職員のために早朝から利用が可能だ。
研究所に身を置いて以来、ハロルドはここの常連である。例に漏れず食堂のスタッフにも嫌われているが、もう諦めているので大した問題ではない。
ハロルドは適当に注文を済ませ、受け取った朝食を手に窓際の二人掛けの席、彼の定位置に腰を落ち着ける。ちなみに今の時間帯は人もまばらなので目立たないが、混雑する昼食時でもハロルドの周りの席は常に空いている。加えてチラチラと不躾な視線を浴びせられた上に陰口まで叩かれる。
並の神経では二度と食堂を利用できなくなるかもしれないが、スイッチを切り替えていればやはりそれも大した問題にはならなかった。
ハロルドのぼっち化は着々と悪化の一途を辿っていた。
中々に悲しい自己分析をしながら食事をとっていると、何やら騒がしい集団が入ってきた。その中にはリーファとエルの姿もある。集団は十人ほどで、リーファとエル以外は男だった。
二人の周りにいるのはこの研究所でも比較的若い世代の人間のようだ。といっても一番若い男で二十代半ばなのでリーファと比べれば十歳以上は離れているが。そういえばエルの年齢はいくつなのかとどうでもいいことを考えている内に、リーファ達が食堂の中央付近、二十人は座れそうな横長のテーブルに腰かけた。
ハロルドからは少し遠く、声は聞こえないが、姿ははっきりと確認できる程度の距離だ。
恐らくは親睦を深めようとか、そういった類の集まりだろう。男達からは下心が見え隠れしている気もするが、男女比九対一の男所帯ではそれくらいは致し方ないことだ。リーファは見た目こそ幼さが際立つが、この世界の基準からすればお付き合いはもちろん、結婚しても後ろ指を指されるような年齢ではない。
ハロルドからすれば完全に中学生、言動によっては時折小学生にも見えるので、そんな彼女を囲む成人男性達というのは犯罪臭が漂う光景だったが。
ところでもう一方のエルは男か女か未だに不明なのだが、もし男だった場合、周囲の男達がどんな反応を示すか興味はある。
そんなことを考えていると、ふとエルと目が合った。すると一瞬だけ笑みを浮かべてわずかに頷くような動作を見せる。
アイコンタクトが可能なほど阿吽の呼吸ができる関係ではないが、これに関していえば「しっかりガードしてるから安心して」といったところだろう。ハロルドは昨日、ユストゥスからの接触を嫌って、極力リーファを一人にさせるなと伝えておいたのだ。
あの行動はハロルドのそんな不安に対して大丈夫という意味を込めたものかもしれない。
エルは基本的に高スペックの人間なのでその辺はハロルドも信用している。なのでハロルドも「分かっているからそっちに集中しておけ」という意味で顎をクイッと動かす。それが通じたのかエルは歓談に加わっていった。
エルにとってはあれも情報収集のために必要な時間のはずだ。
というわけでハロルドは自分の食事に戻り、食べ慣れた定番のメニューを黙々と口に運んでいく。
皿の上が空になるまで十分もかからなかった。食堂を後にしようと立ち上がると、なぜか辺りがざわつき始める。それもハロルドを中心にした騒めきだった。
確かにこれ以上ないくらい嫌われてはいるが、この反応にはまるで心当たりがない。一体何事かと足を止めた瞬間、後ろから声がかかった。
「ボク達を置いてどこに行くの?ハロルド」
そこにはエルがいた。隣にはエルに手を引かれたリーファもいる。若干気まずそうな顔だ。
さっきの集まりはどうしたのかと、二人がいたはずの席を見れば男達が憎しみの籠った視線をこちらに向けていた。その怨嗟たるやハロルドもわずかにたじろぐほどのものだった。
彼らからすれば美少女二人が自分達のところから離れて、憎き相手に奪われたとでも思っているのかもしれない。普段とは違う意味で怖いので見なかったことにする。
「俺がどこに行こうが貴様らには関係ないだろう」
「あるよ。昨日、時間を取ってって言ったでしょ?」
「それは昼間の話だ」
今は昼間というより早朝だ。時刻にすれば七時半を回ったところである。
この時間帯を昼間と形容する人間はめったにいない。そのめったな人間がエルなのかもしれないが。
「聞いたんだけど、ハロルドって基本暇なんだってね。だからちょっと早めにしようかと思って」
「だとしても確認を怠る理由にはならないがな」
「それはごめん。もしかしてこれから用事があった?」
「……」
何もない。なんなら今から旅行に行くと言われてもお供できるくらいに暇である。
むしろ自分から提案してスメラギの温泉に浸かりに行きたい。日本人としての心は常に風呂を求めている。
「もし良ければお願い。初めての三人でのデートだし、時間は多い方が嬉しいかなと思って」
「で、デート!?」
リーファが素っ頓狂な声を上げる。おかげでハロルド達を遠巻きに眺めていた職員達にもその衝撃的な単語が届いてしまった。
その瞬間、独り身が多い職員から殺意の波動が送られてきた。いつか「塵と共に滅せよ!」と叫びながら襲ってくるかもしれない。一対一の近接戦闘ならば読み負けることはないだろうが、修羅と化した集団相手に多勢に無勢となればワンチャン与えてからの滅殺もあり得るだろう。心の臓を止められてはたまったものではない。
(……って違う!格ゲーの話をしてる場合か!)
動揺で錯乱しまくった思考をなんとか正す。しかしそれくらい乱れるほど、エルが放ったデートという単語の威力は高かった。
リーファも驚いていることを踏まえればエルの独断だろうが、こんな場所で不用意に注目を集めるような言動を行う人間ではない。何かしらの狙いがあって三人でのデートなどという偽りの爆弾を投下したはずだ。
だがそれを理解できているのはこの場においてハロルドただ一人。
傍目には満場一致で嫌われている人間以下の最低なクズ野郎が、美少女二人を侍らせて街へ繰り出そうとしているように見えるだろう。これではリーファやエルが毒牙にかけられる前に助けなければ!と義憤に駆られた人間が現れないとも限らない。
そんな面倒事に巻き込まれるのを避けるため、ハロルドは戦略的撤退を図った。
「あっ、ハロルド。正門のところで待ってるからねー!時間は――」
去っていく背に向けてエルがこれ見よがしに言葉を投げかける。容赦のない追い打ちだが、これでわざと悪目立ちしていると確信した。こういう行動を取るなら時間に関すること以上に事前に知らせておいてほしかった。
もうこの状況自体がことさら面倒事である。
◇
そんなこんなで朝から盛大に気力を奪われたハロルドだが、エルが指定した時間はすぐにやってくる。研究所の正面入り口がある門柱に背を預けたハロルドは、腕を組みむっつりとした表情で人を待っていた。
「やあ、おまたせ」
その待ち人である一人、エルは何ら悪びれることなく現れた。清々しい笑みを前にすると、文句の一つも言ってやろうという気も湧かない。そんなことよりもあんな行動に走った理由を説明してほしいところだ。
食堂での一件は早くも研究所内を駆け巡ったようで、今も四方から恨みがましい視線が飛んできている。身の危険までは感じないが非常に鬱陶しい。
しかし一番気にかかったのは挙動不審なリーファだった。
「お、おはよう……」
まず元気がない。視線も合わない。そして緊張しているのか声が震えているようにも聞こえた。
以上の要素からハロルドは一つの答えを得る。
(まさかコイツ、ユストゥスに釣られたからってこんなに凹んでんの?)
確かに散々隙を見せるなと言い聞かせていた。それを守れなかったことでハロルドへ対する申し訳なさを感じ、同時に叱責されることに怯えているのではないか。
事前にエルから話は聞いていたが、ここまで顕著に気落ちしているとは思わなかった。小さくなっている姿はまさに叱られている子どものそれだ。
一歩踏み出すと、リーファの方がびくっと跳ねる。
それに構わず接近して、左手をリーファの頭の上に乗せた。そして頭を鷲掴みにすると力を込めた。再びのアイアンクローである。
「痛い痛い痛いっ!」
悶絶するリーファを三秒ほど眺めてから左手の力を緩める。
自由の身になったリーファは案の定ハロルドをキッと睨みつけた。
「何するのよ!」
「目が覚めたなら行くぞ」
取り合うこともせずハロルドは先に門を潜った。
背後ではリーファが抗議の声を上げながら後をついてくる。それすらも聞き流していたハロルドの耳が、苦笑交じりのエルの言葉を拾った。
「これであの件はチャラってことじゃないかな?……多分」
多分は必要なかったが、そこまで正確に自分の言動を把握しているエルにハロルドは少しだけ驚く。
いきなりあんな行動に出たのもリーファの性格からして言葉だけで許しても引きずりそうだったからであり、そもそも下手に慰めや励ましの声をかければどんな暴言が飛び出るか分かったものではないと判断したからだ。
外からは非常に分かりにくいハロルドなりの気遣いである。普段はそれが正しく通じることなどほぼないのだが。
リーファはそれから中心街に出るまでは渋々とした様子だったが、いざ王都の顔とも言えるメインストリートまで出ると一気に機嫌が回復した。わぁー!と歓声を上げるほどはしゃぎながらそっちこっちへ歩き回る。完全にお上りさん状態だった。気落ちしていたことなどきれいさっぱり忘れているかもしれない。
そんな後姿を微笑ましそうに見守るエルにだけ聞こえるよう、抑えて声をかける。
「この茶番はどういうつもりだ?」
「疑われてるならいっそ逆に率先して目立ってみようかと思って」
エルなりに考えた結果なのだろうが、それにどんな狙いがあるかは読めない。
衆人環視であんなことをすれば、ハロルドだけでなくリーファとエルも研究所内の注目を集めることになる。そうすることでユストゥスにも動きにくくさせるための牽制だろうか。
思いつくのはその程度のことしかない。原作知識が及ばなければそんなものだ。
「ところでハロルド。昨日頼んだ君の関係者だって証明できる物は用意できそう?」
エルが急に話題を変える。ちなみにリーファはファンシーな雑貨を取り扱っている店舗のディスプレイを食い入るように見つめていた。ちゃんと女の子らしい趣味もあるのか、と失礼なことを考える。
「これを持っていれば身内だと認識される」
そう言ってとある紋様――フリエリのシンボルマークが刻まれた銀製のカギを取り出す。王都の細工師ではなく任務で立ち寄った町の職人に頼むという迂遠な手段を用いてまで作らせた逸品ものだ。
ついでに自分しか知らないはずの内容と、エルが組織の指揮を振るうことになる旨をしたためた直筆の手紙も渡しておく。
「これがアジトに通じている扉のカギ?」
「見た目だけの飾りだ」
フリエリの人間かどうかをスムーズに確認するためだけに作ったものなのでカギとしての役割はない。
だがもし第三者の手に渡ったとしてもカギという形状をしている以上、使える扉を探そうとするだろう。そこでミスリードさせられるのではないかという思いつきが形になったのだ。はっきり言って結果論だが。
ちなみに現在所属しているメンバーにも同じマークをあしらえた腕輪や銅貨を授けてある。技巧を凝らした細工なので少なくない額の金銭が飛んだが、ハロルドとしては概ね満足していた。結構形から入るタイプなのだ。
使えないカギを渡されたエルは不思議そうな顔をしていたが、とりあえず納得したようだ。
「ふーん。ところで肝心のアジトはどこに?」
無言でもう一枚の紙を手渡す。それに記されている場所は、当然ながらユストゥスのお膝元とも言える王都ではない。かといって王都から離れすぎているといざという時に迅速には動きにくいし、小さな町だと人が集まれば目立ってしまう。
ユストゥスの影響力が及びにくいくらいには王都から離れていて、比較的発展していて人口の多い街。そこにフリエリの本拠地がある。
「失くすなどという失態は犯すなよ」
「了解。じゃあ仕事の話は一旦止めにして観光を楽しもうか」
「俺は見て回る必要もないがな……」
五年以上住んでいるだけあって知らないところはほぼない。
思わずため息が漏れる。たったこれだけの話し合いをするためにこんな事態になっているかと思うと頭痛もしてくる。
対してエルは笑顔を崩すことはない。
「まあそう言わずに。ボク達にとっては新鮮味のない街でもリーファにとっては……おっと」
対向してきた男と軽く肩をぶつけてエルがよろめく。転びそうなほどではなかったが咄嗟にその細い肩を掴んで支えた。
華奢な体だった。エルの正確な年齢は公式でも定められていないが、見た目で判別するなら十五、六といった辺り。それくらいの年齢の男でこの細さというのはあり得るのだろうか?
これまで大して気にも留めていなかったが、ハロルドはふとそんなことを思う。ある意味原作キャラの中で最も謎多き人物だ。
「ありがとう。意外と優しいね」
「ほざくな鈍間」
優しい、という言葉を久方ぶりに向けられたことで気恥ずかしさを感じ、パッと手を離す。その仕草を見てかエルがクスクスと笑った。
照れを隠すため、それに気付かないフリをしたハロルドは、今にも迷子になりそうなほど忙しなくうろちょろしているリーファを確保しに向かうのだった。