46話
ユノへの斬撃を受け止めたハロルドは、なんとか間に合った、と胸を撫で下ろした。しかしその安堵も束の間、視界に入ってきたのは痛々しい怪我を負った黒装束達の姿。
そして周囲に漂う血の匂い。
誰がこの惨状を生み出したかは一目瞭然だった。
ユノを叩き斬ろうとした悪趣味な甲冑の大男と、その部下だろうサリアン帝国軍の兵士達。彼らが伝令の言っていた増援だろう。
そう理解した瞬間、ドクン、と一際鼓動が高鳴る。それは自分が同じような目に合うかもしれない恐怖や不安という訳ではなかった。
体中の血液が沸騰したような感覚。ハロルドが感じたのは腸が煮えくり返るような怒り。
そのせいなのか相手を逆撫でる口はいつも以上に絶好調であり、また、それを止める気は毛頭なかった。
この時点で冷静な判断はできていなかったのだろう。ユノ達を助けること。目の前の敵を全滅させること。それしか考えられなかった。
そしてリッツェルトへの怒りが最高潮へ達したのは、彼が自分の仲間をわざと消し炭にした瞬間だった。その光景を前にして、ごく自然に“殺す”という意思に支配される。
それがどれだけ異常なことか、普段のハロルドならば気が付いただろう。
だが今のハロルドにはそれに気付く余裕も、何よりその気持ちを抑えようというつもりもなかった。
再びの挑発を挟み、一足でリッツェルトに接敵して勝負を決めようとする。
全力の踏み込みではあったがあまりに直線的過ぎた。ハロルドも頭に血が上っていた。
待ち構えていたように炎の突風がハロルドを襲う。直撃を避けるため方向転換を強いられるが、回避した先めがけて氷の槍が飛来してきた。
それを剣でなんとか弾き落とす。
魔法の発動が速い。間隔を空けずに次々と放ってくる。狙いは正確で、威力も高い。
魔導師と名乗ったその肩書きは偽りではなかったようだ。
剣技で対応できるかは不明だがハロルドの動きを見て魔法を撃ち込むことはできている。距離が開いているというのも理由だろうが、逆を言えば距離を詰めるのは困難だ。
どちらも相手の仕掛けを防ぐ手段はあるが、そこから一歩先に進むには決め手に欠ける。
ハロルドが懐に飛び込もうとし、リッツェルトが魔法で迎撃。それによって回避行動を選択することで再び間合いが開く。
では魔法で攻略するならどうか。
そう考えて魔法による攻撃に切り替えてみるが手応えはない。相手は自分より魔法に精通している。
魔法の対処はお手のものであるらしい。
互いに有効打が与えられない。
これでは千日手だ。しかも接近戦を得意とするハロルドより、魔導師であるリッツェルトの方に分がある間合いである。
ましてやハロルドは度重なる戦闘ですでに疲労し怪我も負っている。対するリッツェルトはほぼ万全の状態だ。
どちらが不利かは明白だろう。
そしてもう一つ。ハロルドには大きな弱点がある。
リッツェルトが不意に攻撃の手を緩めて、食い下がるハロルドに呆れたような顔を向けた。
「いつまで結果の分かりきった戦いに労を割くつもりだ?貴様では我に勝てん」
「ほざけ肉達磨。その首を斬り落としてやる」
「聞き分けのない小童だ。仕方あるまい」
ニヤリ、と。リッツェルトが醜悪な笑みを浮かべる。嫌な予感がした。
リッツェルトが放ったのは氷柱の雨。そしてそれはハロルドではなく、仲間の治療を続けているユノ達へと襲いかかった。
「クソが!」
忌々しく吠えながら、ハロルドは『ダストストーム』という魔法で氷柱の雨を吹き飛ばす。それで漏らしたものは高速で移動しながら剣で叩き斬った。
だが、それでもまだ足りない。数多の氷柱が降りかかる。
鮮血が飛び散りユノの顔を濡らした。
顔を朱に染めながら信じられないものを見たような表情のユノ。ハロルドはそんな彼女に怪我はないことを確認してから、己の右肩に突き刺さった氷柱を抜き出した。
大量の血が滴り落ちる。
激痛が走った。普段なら絶対にできはしないだろう。
しかしそんなことなど気にならないほど、体を焦がす憤怒の炎がハロルドを突き動かしていた。
リッツェルト《アイツ》を殺す。
ただその一念。異常なまでの執念。
もしかして、これはそういうことなのか、とハロルドの中で答えが出る。
(ああ、そうか――お前はずっと俺の中に居たのか、ハロルド)
血を失い、わずかに残っていた理性的な思考でぼんやりとそんなことを考える。
この世界に来た最初も最初、驚愕で動けないでいる体を動かしたのは、喋る意思など皆無だった口を開いたのは……。
(全部、お前だったんだな)
道理で口が悪いわけだ。道理でゲームの動きを忠実に再現できたわけだ。
良くも悪くも常に原作ハロルドの影響を受け続けてきたのかもしれない。平沢一希という平凡な人間がこの世界に適応できたのは、そのせいだったのかもしれない。
では最終的に今あるこの自意識はどうなってしまうのか。原作ハロルドに飲み込まれるのか、逆に一希の人格が上書きされるのか。それとも一希とハロルドが混ざりあった人格が生まれるのか。
(そんなものは知らないし、今はどうでもいい)
考えても分からないことを考えている暇はない。元よりこの仮説が正しいのかすらも定かではないのだ。
ただ、もし、本当に自分の中にハロルドがいるのなら――
(力を貸せよ、ハロルド・ストークス。お前だって自分を傷付けられて、計画が思い通りに進まなくて、アイツにブチ切れてんだろうが!)
それがハロルド・ストークスという人間だ。どこまでも自己中心的で、自分勝手で、自分本位なクズ野郎。
たとえ自業自得でも高いプライドを傷付けた奴は絶対に許さないような奴だ。ここまでボロボロにされてリッツェルトを殺さずにハロルドが止まれるわけがない。
「ほう、流石に無傷ではないがあれを凌ぐか。小童よ、言動を悔い改めれば我の配下にしてやらんでもないぞ」
勝利を確信してかリッツェルトがそんな提案をしてくる。こんな状況でさえなければ一考の余地はあったかもしれないが、今となってはこちらから願い下げだ。
「貴様の下に入るくらいなら死を選んでやる。俺を従えられるのは俺だけだ」
「……どこまでも愚かな奴よ」
視界が霞む。呼吸は整えられない。全身に力を入れ続けていなければ今にも倒れそうだ。
次の攻撃で決着をつけるしかない。
背後を覗き見れば治癒魔法の効果か自分の足でたって歩ける者が増えていた。
「貴様らはさっさと退け。ここにいても邪魔なだけだ」
「ですが……」
「二度は言わない。だいたい貴様らの身元が割れるのはタスクが困るはずだが」
ハロルドに指摘されユノ達がぐっと押し黙る。恐らくハロルドの援護とスメラギ家の名を天秤にでもかけているのだろう。
そんなもの比べるまでもないだろうに。
「……畏まりました。ですがこれだけは受け取って下さい」
苦渋を浮かべながらユノはそう決断した。
その去り際、なけなしの魔力を使って治癒魔法をハロルドにかける。微かに「エリカ様には申し訳ないですが……」という呟きが聞こえた。
傷を治すのが申し訳ないということは、エリカには「捨て置きなさい」くらい言いつけられているのかもしれない。
だとしたら本当に嫌われている。
まあそれでいい。それでこそハロルド・ストークスだ。
(……だから、頼むぜ。ハロルド《おまえ》の力があればできる)
今までの訓練でも成功率は2割以下。とても実戦で使用できる完成度ではない。
それでもリッツェルトを倒すにはあの技しかないのも事実だ。
ユノの治癒魔法でいくらか軽くなった体も背を押してくれているように感じる。
死ぬのはごめんだ。しかしリッツェルトに負けるのは死んでもごめんだ。
ハロルドは駆け出した。塞がりきっていない傷から血が勢いよく流れ出すが構わない。
何度目になるかも分からない突撃。リッツェルトの冷めた視線を正面から受け止めながら、それでもハロルドは突き進む。
迎撃するために放たれた魔法。前方に跳躍して飛び越えるが、そこへまたもや氷柱が降りそそぐ。
身動きの取れない空中。このままでは避けられない。
そう、“空中で身動きが取れないまま”ならだ。
ゲームでは幾度も目にしてきた。自らもキャラクターを操作して何度も使ってきた。
イメージは空中に存在する見えない足場。
ハロルドの体が空中で不自然に、あり得ない方向へと傾く。リッツェルトの目が狂っていなければ、ハロルドは虚空を蹴った。
それによって加速し、氷柱の空襲を潜り抜けた。そしてもう一度、ハロルドが何もない空中を蹴るようにしてまたも加速する。
『空中ダッシュ』
何の捻りもないネーミング。読んで字のごとく空中で加速する技だ。まるで空を駆けるようであり、コンボを繋ぐには不可欠な技術でもある。
タイミングを間違えば相手の攻撃に突進するだけだが、上手く使えばコンボにも回避にも用いることができる。
そしてハロルド・ストークスの戦闘スタイルにおいては絶対に欠かせない技。
トップスピードに乗ったまま踏ん張りをきかせて進行方向を変える。骨が軋みを上げ、筋繊維がブチブチと音を立てて千切れる。
歯を食いしばり、声にならない声を上げながら、全身を襲う負荷に耐えた。
空中での不規則な多段加速。いくつもの戦場を経験してきたリッツェルトすら目にしたことのない、常軌を逸した光景。
とても反応できるような速度ではない。
ハロルドは瞬きするよりも速くリッツェルトの背後を取った。
リッツェルトが振り向こうとするが遅すぎる。こちらへ向き直るよりも早くハロルドは剣を振るった。
手に響く生々しい感触と共にリッツェルトの右腕が宙を舞う。
そのまま返す刀で斬りつけ甲冑を切断し、剛打掌、さらには廻し蹴りを叩き込んで体を浮かせる。
ハロルドの猛攻はまだ終わらない。
斬り上げ、完全に浮遊したところに雷鳥を浴びせ、数メートルは吹き飛ばす。離れた間合いは空中ダッシュで瞬く間に詰めた。
そこから斬撃、拳撃、蹴撃を畳み掛ける。
リッツェルトの絢爛な甲冑はすでに見る影もない。砕かれ、汚れにまみれ、血に染まっている。そしてそれを着ている本人は甲冑以上にボロボロだった。
時間にすれば十数秒。その間に食らわせた攻撃は50を超える。
最早上空とも呼べるような高さまで打ち上げられたリッツェルト。それよりさらに一段高い位置から、ハロルドはグルッと前宙し、腹部に渾身の鳳仙脚を打ち下ろす。
「くたばれ」
ゴキャッ、という何かが砕ける音を残し、リッツェルトは落下していく。一拍の間を置いてハロルドもそれを追従する。
鈍い音を上げながら地に落ちたリッツェルト。その隣にハロルドも着地する。
沈黙。聞こえるのは自らの呼吸とも呼べないような不格好な息づかいのみ。
すると視界の隅でリッツェルトの指先がピクリと動いたのが見えた。
あれだけの攻撃を受けながらまだ息がある。瀕死ではあるが驚きのタフさだ。鍛えた筋肉も無意味ではなかったらしい。
しかし、まだ生きている。殺せていない。殺さなければいけない。
朦朧とした意識の中で、ハロルドは剣を握る力を強めてリッツェルトへ突きつける。あとはこれを首に突き刺すだけだ。
「は、ハロ……ルド……?」
聞き慣れた声。救おうとした人間の声。
振り返れば困惑に染まるロビンソン、シド、アイリーンの顔があった。近くにはコーディーの姿もある。
体を張った甲斐はあったようだ。彼らの無事を知った途端、体を支える力が抜けていく。
しかしなぜ自分だと分かったのか。その疑問に答えたのは耳から垂れ下がって揺れているマスクだった。
(ああ、戦っている最中に、外れたのか……そりゃ分かるよなぁ……)
満身創痍のハロルドは思い至らない。
今の自分がサリアン帝国の軍服を着ていることに。騎士団と星詠族の戦闘が行われている真っ只中に降り立ったことに。
その姿を晒してしまった意味に。
「な、何をしているんだ……?」
珍しく動揺しているコーディー。軽口で煽る余力もなく、ハロルドは端的に告げる。
「……コイツは、サリアン帝国の少将、リッツェルト……今回の襲撃は、帝国の仕業だ……星詠族からは、手を…引け……黒幕、は――」
そこでハロルドは限界を迎える。意識は途絶え、リッツェルトにとどめを刺すことも叶わず、事切れたようにその場で崩れ落ちた。
◇
ゴウン、ゴウンと重厚な音を奏でる機器に囲まれた研究施設のような部屋。そこに腰かけた男は報告書を興味深げに読み込んでいた。
ろくな手入れもされず背中に届くまで伸ばされた長い白髪に、不健康な印象を与えるほど痩けた頬。肌は髪と同様に太陽に当たったことがないのかと思うほど白く、まともな睡眠をとっていないのか目の下に浮かんだくまが余計に際立つ。
外見は総じて健康的な生活から程遠い暮らしを送っていそうな男ではあるが、その顔は楽しげに歪んでいた。
「ふむ、今回の計画は失敗したか……しかしサンプルの確保はできたのだし良しとしよう。それよりも気になるのは、やはりこの少年……」
失敗する可能性はほとんどゼロだった。だが世の中には不確定要素というものが多分に存在している。
可能性をどれだけ高めようとも100%になることはない。
だから失敗した、という事実自体は大した問題ではないのだ。
問題はなぜ失敗したのか。
今回の不確定要素。ハロルド・ストークスという、弱冠13歳の少年。
史上最年少での騎士団入り。初任務での軍規違反となる脱走。そして失踪したかと思えば、再び姿を晒した時にはサリアン帝国の軍服に身を包んでいた。
では単なる裏切りやスパイかと思えばそうでもない。発見された時には帝国兵を仕留めていた、というのだ。それも少将階級の者を。
ハロルドの狙いは不明瞭だが、明白なのは彼が今回の騎士団襲撃を事前に察知していたということである。
露見する可能性は限りなく低いと睨んでいた。しかしハロルドはどこからか情報を掴んでいた。
それもかなり正確な情報を。一体どんな情報網を持っているというのか。
「……実に興味深い少年だ。ハロルド、君はボクの力となるか?それともボクの前に立ちはだかるか?」
室内に笑い声が満ちる。静穏な、だが狂気を孕んだ笑みだった。
それを遮るようにコンコン、と扉がノックされる。
「所長、お時間です」
「……今行く」
まるで仮面を貼りつけたように表情が一瞬で無表情なものへとすり替わった。非常に生気が乏しい。
しかし彼のそんな顔を見慣れている助手の目には異なって映ったのか不思議そうに尋ねる。
「何か良いことでも?今日の所長はいつもより楽しそうですけど」
「……まあ気になる研究対象が見つかってね」
「それはいいんですけど、今の研究も大詰めなんですからしっかりして下さいね?ユストゥス所長」
「ああ、分かっているさ」
ユストゥス・フロイントは光が消えたその瞳で、どこか遠くを見つめてそう応えたのだった。