38話
それは突然のことだった。
前触れもなく屋敷が騒がしくなり、何事かと使用人に話を聞けばハロルドが訪ねてきたと言うのだ。
それだけならばさして珍しいことではない。タスクやイツキに会うためにこの家を訪れたことは幾度もある。
しかし気がかりなのはその二人がいない時にハロルドがやって来たということだ。
キリュウからの報告によれば急用があるらしく、どこか焦れているようで有無を言わせぬ迫力があったという。
そんなハロルドの様子を伝え聞いたエリカは、どこか腑に落ちないものを感じた。
「ハロルド様はどちらに?」
「客間へお通ししております」
「そうですか」
キリュウが退出してからわずかに逡巡した後、エリカはすっと立ち上がり自室から出る。
いつも避けられ、顔を合わせることがあれば露骨に煙たがられる相手の元へ向かっていてもエリカの歩みに臆した様子はまるでない。その程度のことに怯む弱さとはもうすでに決別している。
客間の前に到着するとエリカは正座し、襖越しに声をかけた。
「失礼致します」
いつものように邪険に追い払われるだろうか。もしかしたら無視をされるかもしれない。
キリュウから聞いた通り焦れているのなら苛烈な言葉を浴びることも考えられる。だからといって今回は一歩も引くつもりはない。
しかしハロルドからの返答は予想に反して“入れ”という一言だった。
すんなりと入室を許可されたことに驚いて一瞬固まりつつ、許しを得られたので襖を開けてる。
「お久し振りです、ハロルド様」
深々と頭を垂れた。
はあ、という嘆息を挟んでハロルドから疑問を投げかけられる。
「貴様がわざわざ俺の元へ来るなど何を企んでいる?」
ハロルドは自分がエリカに嫌われていると確信している。自らそうなるように仕向けているのだから当然と言えば当然だ。
故にエリカが好んで自分を訪ねてくるはずがない、という結論に達したのだろう。
ここで正直に大した理由などなく、単に心配になって顔を見たかっただけだと答えれば追い出されるかもしれない。なのでエリカはハロルドの調子に話を合わせた。
「そのような意図はございません。自ら率先したわけではありませんので」
「じゃあ何のために来た?」
「ハロルド様は私の婚約者ですし、スメラギ家にとって重要な客人ですから。当主とその妻である両親が不在なので私がお相手をさせていただきます」
「いらん。貴様と同じ時間を過ごすなど鬱陶しい」
即座に否定されるがエリカは食い下がる。
婚約者という間柄、スメラギ家としての立場、ハロルドの行動が招いた結果。それらを駆使して尤もらしい理由を並び立てる。
「客人を丁重にもてなさないなどスメラギとしても面目が立ちません。とはいえ本日は急なご訪問でしたので充分なご用意はできておりませんが、どうぞご理解頂きたく」
「……」
エリカが意地でも動きそうにないことを察してかハロルドが口を閉ざす。所在を確かめることもせずに訪れた自身にも非があるのは分かっているのだろう。
その反応を了承と受け取ったエリカは、部屋に備え付けられている囲炉裏に火を灯し、用意してきた鉄瓶を熱し始めた。
ハロルドは無言のままでエリカの方を見ようともしない。エリカはそんな彼の横顔を窺いながら、やはりいつも通りではないと感じていた。
眉間に皺を寄せた不機嫌そうな表情こそ変わりないが、相手を威圧するような雰囲気は影を潜めている。それどころか少し弱々しくさえあった。
普段弱味を見せないハロルドがエリカを前にして取り繕えないほど消沈している。
ハロルドの言動を知る者なら驚天動地とまではいかなくとも、小さくない驚きを受けるだろう。
だがエリカは違う。彼女は知っている。
ハロルドといえど弱気に苛まれ、人知れず涙を流すこともあるのだと。その弱さを傲岸不遜な振る舞いで隠し通そうとしているだけなのだ。そうしなければならないほどハロルドは独りだった。
そしてそんな彼だからこそエリカは支えになりたいと思っている。
「どうぞ」
沸いた湯に茶葉を入れ、湯のみに注いでハロルドの前へ置く。
しかしハロルドは湯のみやお茶請けに手をつけることもなく黙する。やがて淹れた緑茶も温くなり始めた頃、淹れ変えようとエリカが手を伸ばしかけたところで反応を示した。
「……貴様は自分の置かれた状況をどう感じている?」
ポツリと、独り言のようにハロルドが呟く。
視線は未だに虚空を捉えているが、その問いかけは誰かに縋っているようにも聞こえた。
あまりにハロルドらしくない問いだ。普段の彼なら他人が何を考えどう生きようが表面上は関心など向けないだろう。
もしかしたらこれは自身と相手を重ね合わせた問いかけなのかもしれない。それほどまで悩み、追い詰められているのだとしたら……。
「私は今の環境に感謝しています。スメラギ家の一人娘として生まれたことに不満など何一つとしてありません」
返答によってはハロルドを慰めることができたかもしれない。
理由は不明だが、彼が思い悩んでいることは明白だ。そんな心情を察して同調すれば、共感できる相手がいれば、安易に救いを与えられたのかもしれない。
だがそんなハロルドは見たくなかった。誇り高く歩んできた彼には似合わないと、まるでハロルドがハロルドではなくなってしまうように思えた。
自分勝手な憤りだと分かっていながら、その想いを抑えることができなかった。
何よりここでそれを良しとしてしまえば、きっとハロルドを真に支える存在にはなれないと、直感的に悟った。
だからエリカは突き放す。自身の力で答えを導けるように、ただ与えるだけの優しさなどは彼に不要だと断じて。
「正直に言え。望まない相手との結婚を押しつけられた者の本心とは思えないな」
むしろエリカとしてはハロルドとの婚約こそスメラギ家の娘であることに感謝する要因である。口が裂けてもそんなことは言えないが。
ハロルドは胡散臭いものを見るような目をしている。本当にエリカの言葉を信じていないようだった。
「私はスメラギ家に生まれ、この家と民達に支えられてきたおかげで不自由のない暮らしを送ってきました。その恩に報いるためなら自分の心を殺す覚悟はとうに決まっております」
これはエリカの嘘偽りなき言葉だ。事実、ハロルドが最低の人間だとしてもそれがスメラギ家や民を救うことに繋がるならエリカは私情を捨てて結婚するつもりでいた。
そんな覚悟を良い意味で台無しにしたのが眼前のハロルドであり、逆に彼が婚約を解消しようと画策しているのだから中々に皮肉が効いている。
「第一、それを言うならハロルド様こそ私との婚約など本心では望んでいないのでしょう?貴方に毛嫌いされていることに気付かないほど私も鈍感ではありませんよ」
毅然と論を返すエリカに面食らってか、ハロルドは小さな声で独白するように呟く。
「……なぜだ?なぜ認めがたい現実を受け入れられる?」
貴方と出会えたからです。
そう言いたかった。護るべきもののために躊躇いなく汚名を被るその生き様を知って否応なく惹き付けられた。
強い信念を持つハロルドに魅了され、気付いた時には恋に落ちていた。
それだけにハロルドが弱々しく言葉を吐き出す姿を見ていられず、人としても異性としても貴方を好いているのだと、伝えてしまいたかった。
それは親愛と愛情が混ざりあった感情だった。咄嗟に込み上げた衝動をエリカは必死に押し留める。
それはできない。言ってしまえば、ただでさえ苦悩しているハロルドに余計な悩み事を与えることになるだけだ。
間を取り、気を落ち着かせるためにこほん、とわざとらしい咳払いをひとつ。
「ハロルド様のお力は素晴らしいと思います。羨望していないと言えば嘘になるでしょう」
いきなり話が切り替えられた上、突然賛辞を口にされハロルドが呆気に取られたような顔を見せる。かなり貴重な表情だ。
しかしすぐにいつもエリカに見せる険しい顔つきに戻る。
「はっ、今さら俺に媚びへつらうつもりか?」
「素直な気持ちです。ハロルド様は自分の歩む道を自らの力で切り拓いている。私にそんな力はありませんし羨みもします」
困難に屈せず立ち向かう、というただの根性論だけではない。現状を俯瞰して正しく認識する広い視野、相手の心や未来を見透かしているかのような冷静な思考力、瘴気の影響を緩和する抗体薬や革新的な農業を生み出す知識と発想。
どれも並大抵のものではない。いつかタスクが言っていた言葉を思い返す。
『彼は優秀だけどあまりに優れすぎている。時にその力は彼を孤独にするだろう』
だからエリカは望んだ。ハロルドを独りにしないために、ハロルドを支えられる存在になりたいと。
そしてそのためにはハロルドと同等の力が必要だと、そう思っていた。
だがそれでは駄目だ。今のハロルドを見てそう痛感した。
「ですがいかに優れた人間でも一人では限界があります」
「……」
「一人でできるからといって、必ずしも一人でやらなければいけないわけではありません。ハロルド様はもう少し誰かに頼ることを覚えるべきです」
ハロルドはたった一人でも多くの事ができてしまうのだろう。それ故に他人に頼る必要性がなかった。頼れる人がいなかったからそうなったのかもしれない。
しかしそれではいずれ張り詰めきった末に、パンクしてしまうのではないか。そんな不安がエリカの胸をよぎる。
「偉そうに分かったような口をきくな」
「確かに私はハロルド様について多くを知りません。しかしそれは貴方も同様でしょう?」
「なんだと?」
「貴方への協力を惜しまない人がいることをハロルド様は知らない」
ハロルドは孤独であることに慣れてしまっている。人を寄せ付けようとせず、独りでいることが当然だと思っている節もある。
これまで他人を信じることができなかったためにそんな固定観念が根付いてしまったのかもしれない。
それはいったいどれ程の苦痛が伴う道だったのか、想像するだけでも身を切られる思いだ。
だが今の彼には味方になってくれる人がいる。タスクやイツキはその最たる存在だろう。
彼らが心底ハロルドを気に入っていることを家族のエリカは承知している。ハロルドはもう自分以外の人間を信じてもいいはずなのだ。
「一度だけで構いません。しっかりとご自分の身の回りを見つめ直しください」
そうすればきっと信頼に値する存在を見出だせるだろう。
ただその中に自分の姿がないだろうことに、エリカは小さくない痛みを感じていた。
◇
(“いかに優れた人間でも一人では限界があります”か……)
エリカの言葉が頭の中で反芻される。
どうしようもないほど正論だった。ハロルド自身、体のスペックが突出しているだけで頭の方は平凡だという自覚がある。
原作知識という反則技を駆使しているからこそなんとか立ち回れているだけだ。
一方で、この原作知識は厄介でもある。ハロルドにとってはゲームのシナリオに過ぎないそれは、この世界にあっては未来予知にも等しい。
原作終了までの限定的な能力だが、それでも使う人間が使えばとてつもない影響を世界に及ぼすだろう。必然的にハロルドがそういった思想を持つ人間に狙われる危険が増す。
だからこそ未来の記憶を保持していることがバレないように、可能な限り一人であれこれ画策してきたのだ。
しかしそれもエリカの言う通り限界なのかもしれない。少なくとも今回の一件に関してはハロルド一人で処理できる案件ではない。
バタリと仰向けに倒れる。
これまでも誰かを頼らなかったわけじゃない。クララとコレットの救出やLP農法に関しては、ノーマン達やタスクの助力がなければ実現できなかっだろう。
ただ彼らに全幅の信頼を置いているかといえば否だ。
その理由は原作知識の露見だけではない。あまり頼ってしまえば彼らも原作から逸脱した行動を起こしてしまうのではないか、それによって原作の一部が崩壊してしまうのではないか。
ハロルドはそれを恐れてきた。
(けどそれも今さらなのか?)
鑑みればハロルドの行動はイレギュラーの塊みたいなものだ。それによりクララは生存し、LP農法を開発し、抗体薬によりスメラギを支援し、本来より3年も早く騎士団入りを果たした。
それらのほとんどは自身の死亡フラグの目を摘むためにはやむを得ないことではあった。
今回は原作のためにロビンソン達を見殺しにするか、原作の流れを変えてでも助けるかを天秤にかけて判断に迷っていた。
しかし彼らが死ぬことになる星詠族との戦闘に自分まで参戦するのを余儀なくされてしまったのである。
予想外の事態に混乱してタスクの元に駆けつけたわけだが、考えてみればこれが答えだったのかも知れない。エリカにも諭され、それがよりハッキリとした気もする。
全てのフラグを一人で回避しようというのは無理なのだろう。事態の大きさも、ハロルドの精神的にも。
原作にはなかった他者の積極的な介入も、もしかしたらひとつの解決策なのかもしれない。
最終的にユストュスを倒せるのならば多少の原作改編を許容するという、今までとは根本から異なる考え方。
愚策、だろうか。原作から乖離すればするほど最も大きなアドバンテージを失うことになる。
しかし、だ。もうすでにこの世界の流れは原作から外れ始めている。
何よりも脅威なのはユストュスの計画が前倒しで進んでいる危険性があることだ。これではライナー達の成長が間に合わない恐れがある。
手を打たずに星詠族との戦いに参加して死ぬのだって真っ平ごめんだ。
(……なら一か八か、ロビンソン達の生存も、ユストュスの計画遅延も、ライナー達の強化も、全部まとめてやってやろうじゃねーか!)
失敗すれば死ぬかもしれない。だがそんなものは今さらだ。ハロルドに憑依した瞬間から常に死亡フラグに晒されている。
逆に上手くいけば原作とは違った形になるかもしれないとはいえ、ゲームクリアを大幅に助けることができる。
思えばリスクを避けることにばかり固執し過ぎていたのかもしれない。危険を冒さずに最良の結果を得ようなんて芸当、ハロルドには到底無理な話だ。
元より死ぬ運命を覆そうというのだから、それ相応のモノを賭けなければ生存ルートを掴むなんてできやしない。
ある意味で開き直ったような境地だった。一人で無理なら他人の力を借りる。そんな単純な結論。
他人を巻き込むリスクに尻込みするのはもう止めだ。
光明が差したような気がした。それもエリカのおかげだろう。
『いかに優れた人間でも一人では限界があります』
『ハロルド様はもう少し誰かに頼ることを覚えるべきです』
『貴方への協力を惜しまない人がいることをハロルド様は知らない』
嫌っている自分に対して、よくこれだけ言ってくれたものだと思う。本当に優しく、魅力ある女の子だ。原作屈指の人気キャラだけはある。
エリカに嫌われたのは勿体なかったかもしれない。
不覚にもハロルドは、苦笑しつつそんなことを考えてしまっていた。