33話
その日、聖王騎士団本部の一角にある新規兵隊舎はとある話題で持ちきりだった。事の発端は数日前、騎士団内全体に出された通達だ。
内容は新規で入団する者が来る、というそれだけのこと。毎年行われる公募試験を経ない中途入団は、確かに少数ではあるものの特別騒ぎ立てるようなことではない。
ではなぜ話題になっているのか、といえば中途入団が決まった者の年齢が本来の規定年齢を大きく下回っていたのが理由だ。
何せ13歳の少年である。騎士団創立以来最年少での入団だ。
それだけでも話題に事欠かないというのに、入団試験で数十人の先輩騎士を一人で倒したというのだから一体どんな人物なのかと興味は尽きない。
その少年と同期にあたる94期生が詰めている隊舎ではなおのこと騒ぎになっていた。
特に最も浮き足だっているのは少年と同室となる、94期生第7班の面々だ。
「なあ、例の新人が噂通りの奴だったらどうする?」
7班の班長、アイザックはそわそわとした様子で班員にそんな質問を投げかける。
「またその話?噂の内容は信じ難いものばかりだし、さすがにそれはないと思うけど……」
「でも先輩を何人もボコボコにしたのは本当らしいので少なくとも普通ではないでしょうね」
「身長2メートルを越えるムキムキ野郎で武器も使わず相手を殴り倒し、どんな攻撃も効かない……だっけ?そんな化け物とやってける自信ないよ俺は」
「実は戦場で死んだ騎士達の怨念が寄り集まった亡霊じゃないかって話してる人もいたよ。だから攻撃が当たらないんだとか」
「ありえないだろ……ないよな?」
次々に口をつく言葉は彼らの感じている不安の表れだった。ここ数日で団員の間で広まった新人に関する噂があまりにも現実離れしているせいである。
一笑に付したい内容だが、それをできない信憑性があった。亡霊云々はさすがに突拍子がなさすぎではあるが。
そんなわけでここのところ暇さえあればああでもないこうでもないと新人の素性についてそれぞれの憶測をぶつけ合っていた。
しかしそれも今日で終わりだ。
話題沸騰の新人がついに今日、ここにやってくるのだから。
その時不意に、ノックされることもなく扉のノブが引かれた。四人の視線が一斉に扉へ集中する。
ギギギギ、という古めかしい音を立てながら徐々に開いていく。そして扉の向こうから現れたのは――
「ちょいと失礼。全員揃ってるかい?」
襟足が伸びたボサボサの髪に無精ヒゲの男だった。
まだ入団して数ヵ月の彼らはその男と面識はなかったが、肩口の腕章で上官であることを察知して敬礼の姿勢を取る。
「はいはいご苦労。おれは届け物を持ってきただけだから後はよろしく」
なんとも投げやりな発言をした上官の背後から、目測でおよそ160センチほどの身長の少年が顔を覗かせた。
その表情は険しい。
「俺を物扱いするとはいい度胸だなコーディー。貴様の方こそ酒樽に突っ込んで海に蹴り落としてやろうか?」
もしかして緊張でもしているのかと思いきや、少年は臆することなくいきなり上官を罵倒した。全く予期していなかった光景を前にして、アイザックを始めとした四人はぽかんと口を開けて固まってしまう。
入団したての新人が上官相手に敬語を使わないばかりかこの言い草だ。子どもだからとか、威勢がいいどころでは済まされない。
自分達の常識からかけ離れた振る舞いである。
「その時は樽一杯に酒も入れといてほしいもんだね。いつもは飲めないコニャックとか」
「下級エールで我慢しろ。貴様にはお似合いだ」
「とんだ安酒じゃないの。人生最後の晩酌が下級エールなんてたまったもんじゃない」
だというのに上官も上官でそれを気にする素振りもない。むしろヘラヘラとした笑みさえ浮かべていた。
彼らの頭がこの異常事態を処理できないでいる内に上官は「じゃあね」と手を振りながら退室してしまう。すると当然、連れてこられた少年だけがアイザック達の前に取り残された。
噂されていたような身長2メートルの屈強な男ではない。年齢に比べてやや大人びた印象を受ける端正な顔立ちだが、それでも年相応の幼さも感じさせる。
黒髪に黒衣、その中にあって目を引くのが見る者を引き込むような深紅の瞳。
その瞳がスッと細められ、鋭い視線が四人を捉える。
「ハロルドだ。貴様ら、俺を不快にさせないよう細心の注意を払え」
さも当たり前のように、そして思わず聞き逃してしまいそうなほど簡潔に、ハロルドと名乗った少年はそう言い放った。
生意気など通り越して傍若無人。同期とはいえ年長者として本来ならば怒りを露にするべきなのかもしれないが、ここまでつき抜けられるとただただ面食らう。
「……あ、はい。僕はアイザックです。よろしくお願いします」
呆然としながらもなんとか反応を示したアイザックは、頬を引きつらせながらやたらと丁寧な言葉遣いでそう返すのがやっとだった。その姿に対して年下相手に情けない、と非難の目を向ける者はいない。
ハロルドの持つ有無を言わせない強烈な存在感に、誰もが圧倒されていた。情けない、と言うならば漏れなく全員である。
これが94期生第7班の面々とっては生涯忘れることのできない、ハロルドとの邂逅だった。
◇
ハロルドは基本的に寡黙なのか、それからは必要最低限の言葉を交わすだけに留まった。押し黙るハロルドの空気に尻込みしてアイザック達が話しかけられなかったせいもあるのだが。
そんな息が詰まりそうな雰囲気のまま迎えた翌日。
まだ朝靄のかかる早朝から第7班を含めた入団1年未満の新兵は屋外の訓練場に集められた。なんのことはない、いつも通りの早朝訓練である。
いつもとの違いを上げるなら開始前にハロルドの紹介が挟まれたことである。
「お前らも話には聞いていただろうがコイツが最年少で入団したハロルド・ストークスだ」
教官のその一言で新兵達にざわめきが広がる。大方噂されていたような大男ではなく普通の少年にしか見えないからだろう。
本当に実力があるのか、という懐疑的な囁きがほとんどだ。教官の隣に立つハロルドはそんな声など聞こえていないのか眉ひとつ動かさない。
「入団したからには年齢など関係ない。全てにおいて同等に扱う。ハロルド、その覚悟はできているな?」
「愚問を吐くな。コイツらと同程度なんて生温いくらいだ」
「口の利き方も知らんというのは本当のようだな。お前は訓練場を30周してからの参加だ!行けっ!」
教官の言葉に全員がぎょっとする。
早朝訓練はまず準備運動がてら訓練場を10周してから体捌きや素振りなどを行う。遅刻者や弛んでいると判断された者は罰として訓練場を追加で走らせられることは少なくない。
それでも30周などという回数を課されることは稀だ。入団して半年足らずの94期生にとっては初めて耳にする数字である。
ハロルドの態度が相当教官の気に障ったようだ。
罰走を命じられたハロルドは口答えすることなく走り出す。その直後、教官が再び声を張り上げた。
「何をしている!お前らもアイツと同じだけ走りたいのか!?嫌ならさっさと走れ!」
その声に尻を叩かれて、それだけはごめんだと一斉に走り出す。
訓練場は1周で約400メートル。30周となればおよそ12キロだ。新兵の彼らでも完走するのに50分はかかる。ハロルドくらいの年齢なら1時間以上だろう。
それを完走してから訓練に参加する体力が残っているとは思えない。
初日から脱落だろう。誰もがそう思っていた。
しかし2周目に入った辺りで彼らは違和感に気付く。
先行するハロルドとの差が一向に縮まらないことに。それどころかどんどんと開いていく。
「どう見ても飛ばしすぎだ」
「あれじゃ30周まで保たないな」
アイザックと並走していた何人かが素直な感想を口にする。誰もがその通りだ、と思っていた。
だがその予想に反して、5周目になる頃にはハロルドはアイザック達を抜き去って周回遅れにしていた。それでもまだペースは落ちない。
規則正しい呼吸、ぶれることのない体、力強く振り出される手足。軽快な走りは限界にまだ遠く、余裕さえ残しているように感じられる。
信じられなかった。もし自分達がハロルドと同じペースで走っていればもうすでに息も絶え絶えになっているだろう。
だというのに、だ。ハロルドはチラリと後方を見やり、数瞬何事かを考えてから誰にともなくこう呟いた。
「もう少しペースを上げるか」
その声を耳で拾った者がゾッとする。まだ速くなるのか、と。
途端にハロルドの歩幅が大きくなる。それに比例してハロルドはぐんぐん加速していった。
それとほぼ同時、急激に足が重くなる。普段なら早朝訓練の終わり近くになって感じるほどの疲労度が今の時点で溜まっていた。
なぜ?という疑問が湧くが、すぐに氷解する。ハロルドに釣られて、アイザック達のペースも速くなっていたのだ。息も上がってしまっている。
残り4週。そう意識するだけで足が止まりそうなほど苦しい。
ペースを乱されたことで、結局10周を終えるのにいつもに比べて5分以上も遅れてしまった。それでいて疲労の色が濃い。
ただ何より驚きだったのが、アイザックらが全員走り終えたその数分後にハロルドも30周を完走してしまったことだ。驚異的な速さだった。
教官ですら信じられないものを見たような顔をしている。当のハロルドはといえば汗を流しながらも涼しげな顔を崩していない。
「……持久力はかなりあるようだな」
「当然だ。この程度でへばるほど軟弱な鍛え方はしてない」
「ほう。なら次の型稽古ではお前にこれを振ってもらおうか」
未だ減らないハロルドの軽口にしごき足りないと思ったのか、教官は普段なら型稽古では使用しない長尺の剣をハロルドに手渡した。刀身が長いということはそれだけ重さや遠心力によって扱いが格段に難しくなる。
まだ骨格や筋肉が成長しきっていない体ではまともに振り抜くことさえ困難だ。
しかしそれは一般論である。教官を含め、ここににいる誰もがハロルドはそんな常識などに囚われない例外なのではないかと薄々感じ始めていた。
そんなアイザック達の気を知ってか知らずか、長剣を受け取ったハロルドは周囲から距離を取ると、剣の重心やかかる負担を確認するためか縦横無尽に振るう。自在な剣閃はまるで舞踏のようにも見えた。
その時である。ザアッと風が吹き抜けた。
突風というほど強いものではなかったが、木々を揺らしいくつかの緑葉を散らす。宙に舞った新緑の木の葉が、風に導かれハロルドの元へと流れてきた。
眼前を木の葉が通過する瞬間、ハロルドが幾重もの斬撃を繰り出す。驚異的な速度のそれらは、アイザックには長剣がぶれ、残像のようにしか見えなかった。恐らく他の同期生も同様だっただろう。
今のハロルドの行動が舞い散る木の葉を切ろうとしたものなのは一目瞭然だ。
そんなことが可能なのか。
それが率直な気持ちである。不規則に動き、剣の風圧で逃げてしまう木の葉を切り裂くなど途轍もない技量や動体視力が要求されるだろう。
だがハロルドにとっては実行可能な範疇だった。
斬撃を浴びた6枚の木の葉が裂ける。縦横垂直の十字に刻まれ、計24枚の破片へと。
細かく切断された木の葉は風に巻き上げられて彼方へと消え行く。それを呆然として見送る彼らなど気にも留めないハロルドは、長剣をまじまじと見つめる。
「ふん、悪くない」
今のはただの試し切り。小手調べ程度のことであり、できて当然。
ハロルドの態度がそう物語っている。
長剣を含め、いわゆる剣と総称される武器の刃は厚い。先程のように宙に浮かんだ木の葉を切り刻むことは困難だ。
もしできるとすれば相手を刺突するため鋭利にとがらせている剣先、その数ミリの部分だけ。
文字通り風に吹かれるほど軽量で簡単に形を変えるほど軟らかく、かつ不規則な動きをする物体を、重量があり扱いにくい長剣の先端のみで正確に切り裂く。
斬撃が1ミリでも狂えば。間合いを紙1枚分測り違えば。
たったそれだけのズレが生じるだけで成し得ない絶技。
それだけのことを軽々やってのけるハロルドの実力はどれだけのものだというのか。
恐らく伝え聞いた数十人の先輩騎士を圧倒したという噂も事実なのだろう。
94期生の誰もが理解した。自分達では辿り着けないほどの高みにハロルドはいるのだと。
本能で悟ってしまった。それは野生動物が天敵に抱く瞬時の直感に近い。産まれ落ちた時から定められていたような絶対の序列。
ハロルドは入団2日目にして94期生全員を、その圧倒的なまでの性能を見せつけて掌握したのだった。