2話
艶のある黒髪に赤い瞳。日本を飛び出しアジアからもかけ離れた造形の容姿はハロルドの面影を嫌でも感じさせる。
身長はおよそ140センチほどで年齢はやはり10才前後。
ピンタックの付いた純白のクロスタイブラウスに膝丈のハーフパンツという装いで、まさに絵に描いたような名家の英国少年といった風体である。
平沢一希はハロルド・ストークスへと成り代わった。受け入れがたいが、それが事実なのはこれでほぼ確定した。
その理由も方法も分からない。果たしてこの事態が憑依と呼ぶべきものなのか、ただ恐ろしいほどリアルな夢を見ているだけなのか。それとも平沢一希とハロルド・ストークスが入れ替わったのかもしれないし、もしかすると平沢一希という自意識はこの体の持ち主の気が触れて生み出された妄想に過ぎないのかもしれない。
自己を証明する要素の喪失。足元が崩れ去るような感覚に襲われ、力が抜けそうになった膝に手をつくのと同時に込み上げてきた嘔吐感を寸でのところで食い止める。
息が苦しい。目眩で視界は白く染まり、胃酸が逆流しようと暴れ回る。
とにかく酷い気分だった。
もうこのまま全て投げ出して眠ってしまおうか。そんな投げやりな気持ちで一希はベッドに倒れ込んだ。すでに思考を働かせる気力すらない。
寝て起きたら夢オチで、マジ焦ったわーとか呟きながら冷や汗を拭う。そんな希望にすがって手放しかけた意識は、しかし扉をノックする音によってハロルドの体へと引き戻された。
「……入れ」
無視を決め込むという選択肢も頭を過った。
だが深く考える前に口は返答を吐き出していた。それがハロルドの意思なのか、一希の無意識だったのかも判然としない。
(ああ、でも“俺”ならいきなり「入れ」はないよな)
誰かも分からない相手にそんな不遜な物言いをするほど一希は礼儀知らずではない。となると先程と同じように体が勝手に動いたのだろうか。
返答してしまった手前仕方ない、と気だるい体を起こしながらそんなことを思い付いてさらに気分が沈み込む。
だからといって来訪者が入室を控えてくれるわけもない。白髪混じりの男性が扉を開き恭しい一礼を見せてから部屋へと踏み入ってきた。
その顔を見て一希は相手が誰なのか認識した。
ノーマン。
この屋敷で執事を務める彼はプレイヤー達から『ストークス家の良心』という異名を与えられ、親しみを込めて「ノーマンさん」と呼ばれるキャラクターである。ただの執事であり血縁者というわけでもないのでストークス家の一員ではないのだが。
ともかくヘイト値高めなストークス家関連のイベントにおいて心の清涼剤となる彼が一希の自室を訪ねてきた。
「失礼致します」
「何の用だ?」
「実はハロルド様にご相談したいことが……」
言いかけてノーマンの言葉が途切れた。
不審に感じて一希はノーマンの顔を見つめ返す。すると返ってきたのは困惑したような言葉だった。
「もしや体調が優れないのですか?でしたら……」
「問題ない」
「しかし顔色が――」
「問題ないと言っている」
なんとも無下な態度でノーマンの気遣いを切って捨てる。
正直なところ問題しかないのだが、「実はハロルド君に憑依しちゃったみたいです」とバカ正直に伝えられる訳もない。なのでやんわり断ろうとしたらこの有り様だ。
どうもこの口は言葉を自動的にハロルド口調へと翻訳してしまうらしい。先程の「入れ」もこの口の仕業だろうか。だとしたらなんとも迷惑な機能である。
対してそんなハロルドの素っ気ない反応にノーマンは大きな違和感を感じていた。
彼が知るハロルドという少年は我慢することを極端に嫌う。努力はせず、苦痛からは逃げ、気に障るものは全て排除しようとする。
それを全面的に容認する両親にも大きな責任はあるのだが、つまりハロルドが体調を崩しているならばこうして堪えるなどせず体の不調を大袈裟に訴えるはずなのだ。
ところが今日に限ってそうはせず、顔を真っ青にしながら話の続きを促してくる。
時間を改めるべきかとも考えたが、ハロルドの目が「早く語れ」と訴えているのを見てノーマンは言葉を続けた。
「……では手短に。クララに課した処罰の軽減をお願いしたいのです」
一希は言われて思い出す。自分が今、人の命を握っているという事実を。
ハロルドに成り代わってしまったという衝撃があまりにも大きすぎて完璧に失念していた。
新しい魔法の実験台にするというのはイベントのセリフを口が勝手に消化しただけであり、もちろん一希にそんな心積もりは一切ない。
なのでノーマンの申し出を二つ返事で快諾しようとして、しかしそれを言葉にすることができなかった。
ハロルドの意思が邪魔をしたとかそういう訳ではない。一希自身が言葉を飲み込んだだけだ。
なぜか、と問われれば原作の知識を持っているからと答える他無い。
原作通りならば使用人のクララはハロルドの魔法によって焼き殺される。それによって身寄りをなくした彼女の娘・コレットはストークスの領地から追い出されてしまう。
やがて心身共に疲弊して行き倒れたコレットを保護し、それから同じ屋根の下で暮らすことになるのが原作主人公とその家族なのだ。
早い話がコレットはメインヒロインであり、ここでクララを助けてしまえば主人公と出会う本来のストーリーから大きく解離してしまう。一希はそれに気付いて返答に窮したのだ。
これはあくまでも可能性の話だ。
別にクララを助けても殺してもコレットは主人公と出会い、仲間になるのかもしれない。歴史の修正力、などと呼ばれる事象だ。
もし一希が好き勝手に動いても修正力が働くならば良くも悪くも気にする必要はない。
(でもそんなものがあったら原作のイベントは回避できないし俺のお先が真っ暗だ。ここは修正力なんて存在しないものとして考えておこう)
そうでもしておかないと一希の精神衛生上よろしくなかった。
だが逆にいえば修正力なんてものが作用しなければ原作知識を有する一希にとってハロルドが犯したクズ行為を避けて好感度を下げさせないように振る舞うのは困難極まる話ではない。
一希の心に希望の光が差す。
(その為には原作からの大幅な解離はアドバンテージを失うことになるから下策だよな。大まかなシナリオは変化させずに結末だけまともな方向に誘導できれば……!)
このまま何も行動を起こさずシナリオが原作通りに進行すれば、どうせ一希は数年後に死を迎えることになる。それはなんとしても回避する。
しかし原作のストーリーを破壊してしまうとどんな影響が出るか分かったものではない。ましてやRPGという死が近い世界だ。
そんな世界において大まかな未来の流れを知っているのは最大の強みであり、これを放棄すれば原作にはなかった展開で死にかねない。
弱肉強食の世界と膨大な死亡フラグ。その両方を相手取って生き残るには原作の流れを汲みつつ、自分のフラグを叩き折っていけばいいのだ。
とにかく死にたくなければご託を並べる前にできることをやるしかないか、と一希は腹を括った。
そんな強い決意を宿した一希の瞳にノーマンはドキリとする。このような目をする彼の少年は見たことがなかったからだ。
「クララ、とはあの使用人だな?アイツを助けるために俺が行動を起こせというのか、貴様は」
口を開いたことを一希はすぐさま後悔した。
一希としては「クララさんってさっきの使用人の方ですよね?助けたいのは山々ですが俺は大っぴらに動けないんです」と口にしたつもりなのだ。それをどう意訳すればこんな発言になるのか。
当然ながらノーマンの表情も気落ちしたように曇る。
(これはイカン!)
非常にマズイ流れになっているのを一希は肌で感じていた。このままではヘイトポイントが従来と同じく加算されてしまう。
なんとか取り繕おうと必死に言葉を絞り出す。
「助けたいと思うならまずは自分で動け。話はそれから聞いてやる」
「そ、それでは……!」
「くどいぞ。さっさと行け」
予想以上の悪態を発する自分の口に焦った一希は半ば追い出すようにしてノーマンを退出させた。
そんな扱いでも感謝を述べて出ていった彼を見て、なんとか協力する意思があることを伝えられたらしいと安堵する。
ベッドへ今度は仰向けに寝転がり、一希は自分の軽率な考えを深く反省し始めた。
早くも前言撤回せざるを得ない。この口がある以上、好感度を下げずにイベントの結末だけを変化させるのはかなりの難題となりそうだった。
だからと言って「やっぱり諦めるか」というわけにもいかない。
最悪の状況を想定するならばこの世界での死が正しく平沢一希の死へと直結する場合が最も困るのだ。ここで死ぬことによって元の世界に戻れる可能性もあるが、それを試すにはリスクが高過ぎて行動には移せない。
なのでこの状況から脱する糸口が掴めるまではハロルド・ストークスとして原作に沿いつつクズ的行動を避けていくのがベストな手段だ。
そうやって原作に近い位置で世界の流れを注視していけばここが『Brave Hearts』と同じ世界なのか、似て非なる別物なのかもはっきりするはずだ。
そして今一希がすべきことは何か。それは現状を把握するための情報収集である。
希望を見出だしたことで若干気力を回復させた一希は、ベッドから降りて引き出しや本棚を漁り家捜しを開始した。すると部屋の中には雑貨以外にもゲームに登場するアイテムがいくつかしまってあった。
本棚に収納されていたのは魔法に関する書籍や挿し絵の多い伝記などがほとんど。幸いなことに記されていたのは日本語であり一希でも読むことができた。
やはりメイド・イン・ジャパンの世界なのかもしれない。
一通り家捜しを終えると次は部屋を出た。クララと話をするためだ。
近くにいた甲冑の兵士に声をかける。
「おい、貴様」
「ははっ!」
兵士が片膝を地につけて頭を下げる。
ちなみに言葉遣いに関してはいちいち気にしないことにした。
「クララという使用人が収監された地下牢まで案内しろ」
「地下牢へ、ですか?」
「なんだ?文句があるなら聞いてやる」
「いいえ、ありません!こちらです!」
きびきびした動きで兵士が先導する。甲冑がガチャガチャ煩い。
夜中に邸内を彷徨かれたら迷惑になりそうだ。
そのまましばらく兵士の後ろへ着いて歩く。
到着したのは屋敷の裏手に建てられた石造りの寂れた3メートルほどの棟だった。
「ここが地下牢です」
「収監されている人数は?」
「今は1人のはずですが……」
となるとこの中にはクララしかいないらしい。一希にとっては好都合だ。
「貴様はここに残り誰も入らないように見張っていろ」
「か、かしこまりました」
兵士を外に立たせ一希だけが木の扉を開いて棟の中に入る。
「は、ハロルド様!?うおっ!」
詰め所のような造りをしている手狭な部屋にはこれまた兵士の姿があった。椅子を並べその上で横になっている、というあからさまなサボりの態勢である。
焦って身を起こそうとした兵士は椅子から転げ落ちた。一希はそれを無視して部屋の左隅、地面に取り付けられた地下牢へと続いているとおぼしき鉄格子の扉に手をかける。
引いてみるが扉は固く閉ざされていた。
「鍵をよこせ」
「は、はい!」
兵士が壁にかけられている鍵の内、1つを一希に手渡す。それを鍵穴に挿し込み左に回すとガチャンと錠が開いた。
「地下牢の人間に話がある。貴様は入ってくるなよ」
釘を刺し、万が一閉じ込められないように鍵を持ったまま地下牢へと続く階段を降りる。
階段は薄暗く足元もよく見えない。転ばないように10数段の階段を降り終えるとようやく牢獄へと辿り着いた。
左右に2つずつ、計4つの牢獄。中には藁を集めただけのベッドらしきものと剥き出しの簡易トイレくらいしかない。
奥の壁の上部には縦20センチ、横30センチほどの小窓があり、そこから僅かな光が射し込んでいるだけだ。
クララが収監された右奥の牢獄前で一希は足を止める。
「貴様がクララ・アメレールで間違いないな?」
「ハロルド様……?」
一希からもよく見えないように、クララからも牢獄の前に立つ人物の顔は窺い知れなかった。
人影が小さかったこと、そして声で相手が誰であるかなんとか判別できた程度だ。
しかし疑問も浮かぶ。
なぜ彼がここに来たのか、という疑問だ。
「もしかして……もう、なのですか?」
声が震えた。
新しい魔法の実験。自分の前に立つ少年は先ほど確かにそう言っていたのだから。
ならばもうその時が訪れたのか、とクララの顔はさらに絶望の色を刻む。
だがハロルドからの返答は予想から大分外れたものだった。
「貴様が望むならそうしてやる。だが今は別件だ」
腕を組んだハロルドが向かいの牢の鉄格子に背を預ける。
別件とはなんだろうか。この屋敷に勤めて2年になるがハロルドと直接会話を交わしたことは数えるほどしかないクララは首を傾げる。
「別件、ですか?」
「ただの確認だ。貴様は俺の質問に嘘偽りなく答えろ」
「……はい、何なりとお答え致します」
有無を言わせぬ迫力にクララは頷くしかなかった。
我を通そうとする普段の癇癪とはまるで別物。年に似つかわしくない落ち着きさえ発するハロルドの空気に呑まれてしまう。
「貴様の家族構成は?」
「娘が1人おります」
「名前は何だ?」
「コレット、と申します」
「それ以外の肉親や身内はどうなっている?」
「夫とは駆け落ち同然で村を飛び出したので実家とはそれ以来絶縁状態です。夫も病で3年前に……」
(コレットが母親以外に身寄りがなかったのにはそういう理由だったのか)
質問の目的は原作知識との擦り合わせである。
クララは処罰とは全く関係のない事柄を次々と聞かれて困惑していくが、一希はそれに構わず根掘り葉掘り問い質す。
「娘の年齢は?」
「今年で9つになります」
「魔法を使えたり武術の経験はあるか?」
「いえ、そういったものは特に……」
時間にして数分。一希は淡々と質問を繰り返した。中々の成果である。
クララからの情報は全て一希の知識と一致した。これで今の段階で得られる情報は出揃ったし、今後の方針も決めることができた。
「以上だ。じゃあな」
「お待ちください!」
立ち去ろうとした一希をクララが呼び止めた。
足を止めて振り返る。
「……何だ?」
「私が死ねば娘は……コレットは天涯孤独の身となります。あの年では1人で生きていくこともままなりません……」
クララは涙を流しながらそう語る。
「ですから私が亡き後、どうかコレットをよろしくお願いします!あの子には罪はありません。どうか、どうかお願いします……!」
自らの命よりも我が子の将来を案じて冤罪を吹っ掛けてきたに等しい憎いはずの相手に這いつくばって頭を下げ懇願する。
本当のハロルドならその姿を嘲り笑うのかもしれない。
だが一希は違う。今の彼がクララに感じたのは母親の娘へ対する無償の愛だ。
もうじき終わる自分の命よりも娘の幸せを願う母親を笑うなど一希にはできない。彼女はコレットに絶対必要な存在なのだと確信した。
そんな人間を殺すなどあり得ない。
「不様だな。その姿も、意味のない杞憂に囚われる愚かさも」
ハロルドにとってはこれが慰めの言葉になるらしい。一体どこまで尊大なのか。
「それは、どういう……」
クララの質問には答えず一希は歩き出す。これ以上彼女の前にいてはもらい泣きしてしまいそうだったからだ。
しかしそれでは彼女を不安にさせてしまう。背を向けたまま手短に一希はこう告げた。
「それほど愛しているならばもう二度と手離すな」
やがて足音も消え入口の鉄格子が閉ざされる音が地下牢に響く。
クララはハロルドが消えていった闇をぼんやりと眺め、彼が残した言葉を噛み締めた。
「この絶望は杞憂なのですか……?私はまた、コレットをこの腕で抱けるのですか……?」
クララが漏らした呟きに答える者は居らず、その言葉は静寂の中に吸い込まれていく。
なぜだろうか、その静寂が今の彼女には優しさのように感じられたのだった。