14話
その後無事に剣を回収し部屋へと戻ってきたが、胸に引っ掛かりのようなものを感じていたせいか中々寝つけなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを繰り返し、ようやく睡魔が訪れたのはもう夜明けも近くなった頃。わずかに白んだ空を尻目に少しだけでもと一希は眠りの淵へと落ちていく。
その淵は思っていたより深かったようで、一希が目を覚ましたのは昼を回ってからだった。
重い体を引きずるようにして起き上がる。まだ昨日のダメージが残っているのかもしれない。
(つっても体にじゃないけど)
エリカに打たれた頬をさする。肉体的にはもうなんら痛みは残っていない。
響いているのは体の内側、心の方だ。
一晩経っても胸中は年端のいかない少女を泣かせてしまった罪悪感に苛まれている。
とはいえあそこで「殺していない」とは口が裂けても言うわけにはいかなかった。それは一希の保身だけでなくエリカのためでもある。
「ふん、下らない」
ため息交じりに呟いた“仕方ないか”という弱音すらハロルドの口は許してくれなかった。これが彼の素なのならそのメンタルの強靭さには感服である。
単に自己中心的なだけとも言えるが。
立ち上がった途端に朝食と昼食を抜かれたお腹が空腹を主張するが、まずは寝起きで回転の鈍い頭をスッキリさせるためにシャワーを浴びることにした。
ちなみにストークスの邸には風呂が無い。入浴という文化自体が根付いていないからだ。
ハロルドに憑依してもうすぐ4ヶ月になる。その間風呂に入れたのはスメラギの邸に1泊した時だけだ。
しかも屋外に設置された檜らしき大浴場は風呂というより温泉に近い豪勢なものだった。また入る機会があれば源泉なのかどうか確認してみようと胸に誓う。
入浴への渇望を感じながらシャワーを終えた一希は次こそ空腹を満たすために食堂へ足を向けた。
その途中で廊下の反対側から歩いてきたユノと出くわす。立ち止まり会釈をする侍女のユノにわざわざハロルドが言葉をかける必要はない。
だがエリカの泣き顔がフラッシュバックした一希は気が付くとユノに彼女の様子を問い質していた。
「病弱女の調子はどうだ?」
ハロルドの認識ではいつの間にかエリカは箱入り娘から病弱女へとクラスチェンジしていた。
これで心配しているつもりなのだから手に負えない。
「それが今日は一段とご気分が悪いとのことで~。ハロルド様が仰った通り落ち着くためにスメラギ領へ戻ることも検討した方がいいかもしれませんね~」
あんまりな呼び名だったがユノは特に表情を変えることなく受け流す。そのおおらかさに助けられ、いい加減に怒られるんじゃないかとビクついていた一希は密かに冷や汗を拭った。
避難先で体調を崩して自治領に戻るのは時間を浪費するだけのような気もするが、エリカの滞在という想定外の事態に見舞われているだけに彼女らには速やかに帰宅してもらえると一希としては安心できる。両親とはまた別の理由でクララの一件をエリカ達には知られたくなかった。
「ところでハロルド様はエリカ様が体調を崩されている原因をご存知でしょうか~?」
「知るか。俺は医者じゃない」
嘘である。
ここ2週間の不調は分からないが、今日一段と酷いというのは恐らく昨晩の煽りが原因とみてまず間違いない。
加えていうならば一希が知らないだけでそもそもの理由はハロルドがクララとその娘を殺したという噂にショックを受けたためである。つまり1から10まで一希が原因だ。
仮にそれを一希が知れば更なる良心の呵責に襲われていただろう。一希は10歳の少女を辛い目に遭わせて悦ぶ人格破綻者ではないのだ。
自領で異常事態が発生し、家族がその対応に追われ疲弊していく中、それでも成果が上がることはなく多くの民が苦しみ、そんな弱みに漬けこむように突如として取り決められた婚約。その相手が人を人とも思わず平気で殺す度しがたい最悪のクズとなればエリカが抱えているストレスは相当なものだろう。
彼女が置かれた境遇や心理状態を鑑みればビンタ程度いくら食らっても安いもんだ、と一希は断言できる。
その代わり好感度は最低値でお願いしたかった。
「それは残念です~。お薬を作れるくらいですからさぞ病気などにお詳しいのではと思ったのですが~」
それとなく探りを入れるユノ。あの薬の出所が掴めていないため彼女としてもかなり気がかりだ。
一希はそんな意図にまるで気付かず「俺ってそんな風に思われてんの?」と自分への評価に驚く。
「心配ならお抱えの医者にでも診せろ。ここにいても無駄に長引かせるだけだぞ」
スメラギほど大きな家なら専属医の1人や2人いても不思議ではない。自領に留めておくのが不安なら別宅なり別荘なりにエリカと医者を突っ込んでおけば解決するだろう。
それをせずこうして粘っているのだからやはり何かしらの目的があるのだろうというのは一希もとうに勘付いている。何を狙っているのかまでは依然として不明だったが。
ユノの目的は大まかに分けてストークス家の内情とハロルドの素性を探るという2つだ。前者の方は一枚岩ではないというかストークス一家が嫌われているので邸の使用人は基本的に口が軽く、彼らの愚痴の聞き役に徹するだけで欲しい情報が得られた。
だが後者、ハロルドの周辺だけは異常にガードが堅い。
まず当人の警戒心、そして気配察知能力が高いせいでまともに近付けないのだ。観察初日でユノの存在を看破し警告してきた程である。
これによりユノはターゲットを変更せざるを得なくなってしまった。
そのため彼の元に度々集まっている3名の使用人へと接触を図ったのが、そちらも一様にはぐらかされ続けている。最も付け入り易そうなゼンは1度口を滑らせそうになったりしたが、それでも今のところ有力な手がかりは掴めていない。
あくまで日常会話の雑談の中で違和感を抱かれないよう慎重になっていることを含めても情報統制の意識が徹底されている、とユノは感じていた。それが忠誠か脅迫かによるものか判然とせず攻めあぐねているのが現状だ。
(内偵班からの報告では頻繁に農村地区へと出向いているらしいですが~……)
ストークスのお膝元に潜伏している内偵達とも情報を交換しているがそこで何をしているかまではまだ分かっていない。個人農家の集まりなどは少数でのコミュニティが確立されてしまっていて潜入するのは難しい。
やるならば数年のスパンで事に当たる必要があり、今回はそれだけの準備をする余裕がなかった。急くあまり人口の多い中心街に内偵を集中させたタスクの采配ミスとも言える。
その後二言三言で会話を終えると一希は進軍を再開した。邸で食事を摂れるのは普段ストークス一家が利用しているダイニングルームと客を招いて会食を行う大広間、そして使用人専用の大衆的な食堂の3つがある。
一希が向かったのはこの内の1つ目、ダイニングだ。
ノックをすることもなく無遠慮にドアを開く。すでに14時を回っているため両親の姿はなく、いつも食事をサーブしているメイド服の少女がテーブルクロスを交換している最中だった。
突然現れたハロルドに少女は驚き、そして狼狽える。
(恐怖と混乱で動けないと見た)
基本的にハロルドの顔を知っている人間からは老若男女問わずビビられるのでこの手の反応にはもう慣れたものだ。ショックを受けるどころか観察する余裕すらある。
その心情を慮り彼女の邪魔にならない席へ腰かけた。
「それが済んだら厨房に軽食を作るように伝えてこい。ついでにノーマンを此処へ呼べ。ぐずぐずするなよ」
「は、はいっ!」
命令を受けた少女はクロスを手早く交換し終えると慌ただしくダイニングルームから退出した。廊下をパタパタと駆ける音が遠ざかっていく。
それから10分と経たずに食事が運ばれてきた。仕事をしている途中だったのかノーマンが到着したのはそれを粗方食べ終えようかという頃だった。
「申し訳ありません、遅くなりました」
「座って待ってろ」
残っていたパンを口の中に放り込み、ほとんど噛まずにスープと一緒に胃へと流し込む。行儀はよろしくないがノーマンとメイドしかいないので気にする必要もない。
メイドに皿を下げさせ2人きりになったのを見計らいノーマンは声をかける。
「本日は遅いお目覚めでしたな。疲れが溜まっているのでは?」
「問題ない。少し寝付きが悪かっただけだ」
「なら良いのですが」
「まあその分知恵を絞る時間はあったがな」
一希が口角を吊り上げた。その表情を見てノーマンは合点がいく。
「人員不足についてでしょうかな?」
「ああ。外部の人間を協力者として取り込んではどうかという話をしただろう?」
「何か妙案がお有りで?」
「そうかどうかを確認するために貴様を呼んだんだ」
羊を数えるなどという古典的な手段には走らず小難しいことでも考えていれば眠くなるだろうと思っていたのだが、予想に反して全く眠気は訪れず明け方までどっぷりと思索の海に浸かってしまったのである。
その甲斐あって思い付いたことがあるのだが、所詮は素人の浅知恵だ。実現可能かどうかはノーマンやジェイクに判断を仰がなければ答えは出ない。
「で、外部の協力者についてだが商人にLP農法の有益性を示しその利権で契約を結ぶことは可能か?」
商業に詳しくない一希でも高サイクルで収穫できるLP農法の作物、そしてその技術自体も利益を産み出すものだという確信があった。従来よりも多少のコストはかかるが生産効率は格段に上昇する。
味にも差異が生じることから差別化も図れるし新たな市場の開拓にも繋がるかもしれない。
LP農法の技術を商人に売り付けて、それを更に商人が農家へ売る。農家はLP農法を使用するための契約料を商人に払いそれをまたハロルドと商人で折半する、という形が一希の理想だ。
しかし今の段階では収穫量を意図的に抑える必要があり、農家がそれに反しないよう定期的に監査する人間を送り込める程度には規模の大きい商会でなければ難しい。
ノーマンは一希の計画案に感心しつつ気になった部分を尋ねる。
「して、その商会について当てはあるのですか?」
「ないな。そこを含めて貴様やジェイクの意見を聞かせろ」
「伝がないとなるといきなり商会に話を持ちかけても取り合ってもらえないでしょうな。個人で運営している商人ではやはり人手が足りないでしょうし……」
伝ならばハロルドの両親もいくらかはあるだろう。しかし話を通すためにはLP農法の存在を明らかにしなければならず、それはまだ時期尚早だと一希は考えている。
「現状では実現させるための方法が見当たらないということか」
「残念ながら。ですが商人を味方につけるのは良い案かと」
「ならその方向で話を煮詰めてみるぞ。ジェイクにも方針を伝えておけ」
「畏まりました。問題は信用に足る商人と如何にして渡りをつけるかですな」
その後あれやこれやと意見を出し合う2人だったが、それ以上話が進展することはなかった。
◇
ガラガラと音を立てながら畦道に刻まれた轍をなぞるように進む馬車がストークスの邸の門を潜る。門柱に立つ守衛の兵士と軽口を交わしながら入ってきた馬車の騎手はお気楽そうな笑みを張り付けたゼンだ。
備蓄品の買い出しを終えたゼンは積み荷を下ろし荷馬車を所定の場所に戻すとその足でハロルドの部屋へ向かう。仮にその光景を一希が見ていれば「まるで飼い主に依存した駄犬だな」と小馬鹿にすることだろう。
しかしそんな毒舌など気にも留めなさそうな当の本人は通い慣れた足取りで扉の前まで来ると最近部屋の主に厳命されたノックをして在室を確認するが応答はない。
「ハロルド様ー?いないんですかー?」
普通の使用人ならそのまま立ち去るところだがハロルドに対する馴れ馴れしさでは他の追随を許さないゼンは扉を開けて中を窺う。
が、そんなことをしてみてもやはり無人だった。
今の時間で居ないとなると剣術の鍛練だろうかと退散しようとして廊下に佇む小さな人影が目に留まる。
見るからに気落ちしているその小さな影にいたたまれなくなったゼンは努めて明るく声をかけた。
「こんにちは、エリカ様」
緩慢な動作で振り返ったエリカはその声で初めてゼンの存在を認めたかのように小さく目を見開いた。
「ごきげんよう。貴方は……」
「あ、おれはゼンって言います。ユノさんはどうしたんですか?」
珍しく1人でいるエリカにそんな疑問を感じる。まさか喧嘩でもして元気が無いのだろうかと邪推するが、全くの見当外れだ。
「彼女なら今は私用で街の方へ出ていますので」
包み隠さずいうならば他の内偵との情報交換のために出掛けている。今日もついさっき出たばかりなのであと1~2時間は戻ってこないだろう。
そんなことを口にはできないが。
「そうだったんですか。それでどうしてここに……もしかしてハロルド様にご用事でもありました?」
部屋の近くなのだからゼンがそう思ったのは無理からぬことではあった。しかしハロルドの名前が出た途端にエリカの表情がさらに曇る。
今最も会いたくない人物だ。
だがエリカは目の前の相手がハロルドに対して険を抱いていないことにふと気が付いた。
彼はあの噂を知らないのだろうか。そう考えた時、エリカは反射的にゼンへ問いかけていた。
「貴方は知らないのですか?」
「えーっと、何についてでしょう?」
「ハロルド様が使用人を魔法で殺したことについてです」
「そ、それについてはですね、なんというか……」
今度はゼンが動揺する番だった。
その反応を見てエリカは彼がハロルドの蛮行を知っていると確信する。そして同時に疑問が湧く。
それを知って尚、どうしてハロルドを主として接することができるのか。あくまで対外的なものかと思ったが、言葉に躊躇う様からはハロルドへの畏怖や嫌悪感ではなく、彼の肩を持ちたいが持てないもどかしさを滲み出ていた。
「あー……巷でそんな噂が真しやかに囁かれているのは耳にしたことがあるにはあるんですけど果たして事実かどうかという確認はできていないわけでして、真偽が定かではないのにそれでハロルド様を判断するのは憚られるというか……」
「その噂をハロルド様は肯定していました。そもそも殺されたのはここで働いていた方なのですから貴方も事実だと分かっている筈では?」
「う……」
エリカの言う通りだ。しどろもどろの弁明でゼンは自ら墓穴を掘って言葉に詰まる。
はっきり言ってゼンにはこの状況をひっくり返したり煙に巻くほどの弁舌はない。
彼がノーマンに見込まれたのは人の良さ、つまりはハロルドの心根を理解して味方になれる人間だからだ。
しかし人の良さというのはハロルドだけに発揮されるわけではない。今のエリカはそんなお人好しを刺激するには事足りるほど消沈していた。
「なのにどうして貴方は……いえ、どうすれば貴方のようにハロルド様を慕うことができるのですか?」
重々しい声で発せられたそれは疑問でありながら懇願のようでもある。
人間性がどうであってもスメラギ家の為を思えばエリカはハロルドと結婚しなければならない。彼を許容できない自分の意思など邪魔なだけだ。
そう頭では理解していても責任と感情の狭間で揺れ続けるエリカはどうやって自分を納得させれば良いのか分からなくなっていた。
自らの立場を自覚した時から自由な恋愛や結婚は諦めた。
婚約相手の家が純血主義で民を虐げていると知って怒りに苛まれた。
それでもハロルドは苦しむスメラギに光明を与えてくれた。
しかしそんな彼も結局は貴族の血を持たない人間を人間とは思っていなかった。
勝手に期待して勝手に失望したと言われればそれまでである。返す言葉もない。
だがどうしようもない暗闇に差した一縷の希望がまやかしだったという現実は、エリカを失意のどん底に突き落とすのに充分過ぎた。
使命と感情の板挟みで擂り潰されそうになりながらそれでも懸命に出口を探そうと模索するエリカの姿はあまりにも無情だった。
だがゼンは知っている。彼女の前にそびえ立つ絶望が意図して作り上げられた虚像だということを。
きっと彼女を待ち受けている世界はとても優しい。
なぜならこうして誰かに嫌われ、侮蔑され、その身に“人殺し”という咎を背負う覚悟をしてまで2人の命を救ったハロルドがエリカをこのまま見捨てるわけがないのだ。
そしてまたこうも思う。
家の為、民の為にと己の心を殺そうとする彼女もまたハロルドと同じく強さと優しさを持っている人間なのだと。
幼くありながら重荷を背負い込んででも意思を貫き通そうとするハロルドとエリカ。とても不器用で、壁にばかりぶつかるであろう生き方。
この似た者同士はすれ違うのではなく互いに向き合って本当の自分をさらけ出すべき相手、それができる唯一無二の相手なのではないだろうか。
「エリカ様、おれに着いてきてもらえませんか?」
だから頼りない大人では微力にしかならずともその支えになれるならば、たとえハロルドに不興を買っても、見限られても構わない。
「少しでいいから時間を下さい。聞いてもらいたい話があるんです」
操作ミスで下書きのデータ全消しした時の喪失感がヤバイ。
ひとまず次回でハロルドへの誤解が全て解ける予定です。
その話も半分くらいは書き上げてたのにな……。