102話
砕けた容器から飛び散る空色の液体。それは重力に従って落下していき、無情にもフィンセントの口に吸い込まれていく――ことはなかった。
「ぐっ……」
フィンセントの顔が苦痛に歪み、小さく呻く。
空中に舞った青に混ざる、わずかな朱色。それは容器を掴んだフィンセントの右手から放たれていた。その正体は鮮血。
即座に行動できないがゆえに極限まで集中していたハロルドの瞳は何が起きたのか全て捉えていた。ハロルドの背後から飛来した一本の矢が、フィンセントの右手を穿ったその瞬間を。
誰が、と考えるよりも先に距離を詰める。
あと一撃でいい。フィンセントがいくらダメージを無視して行動していようとその許容量には限界がある。現にダメージは蓄積されているし、アストラルポーションはそれをさらに無視するための奥の手だったはず。ならばハロルドは余力を振り絞って最速の一撃を叩き込むだけだ。
容器を取り落としたフィンセントがハロルドを迎撃しようと構えるが、もう手遅れだ。カウンターはおろか防御も回避も不可能なタイミングで、甲冑が砕け露わになった腹部を剣の柄で強打した。
屈強なフィンセントの肉体に柄が食い込む。元より傷を負っていない部分の方が少ない体だ。
口から鮮血を吐き、そのままゆっくりと仰向けに倒れる。ハロルドはそんなフィンセントに対し、警戒を緩めることなく見下ろす。
しかし彼は身動き一つしない。今度こそ、本当に、沈黙した。
「止めは刺さないのかい?」
勝利の余韻……というよりもフィンセントに勝利して命を繋いだことに呆然としているハロルドの背後からそんな声が届いた。その声はある意味予想通りの人物のものであり、しかし原作を考えればなぜここにいるのか分からない人物でもあった。
「必要ない。それよりどうして貴様がここにいる、コーディー」
コーディー・ルジアル。フィンセントの親友にして、原作ではその手で彼を殺すはずの男がそこにいた。
「最近ソイツの様子がおかしくってねぇ。しまいにゃ無断でどっか行こうとしたからつけてたのよ」
そういうことか、とハロルドは納得する。原作と異なりコーディーは未だに騎士団に所属している身だ。となればフィンセントの様子を近くで見ることができる。
幼馴染という間柄を考えればその変化に気付いても不思議はない。
「つまりこそこそと覗き見をしていたわけか。悍ましい趣味だ」
「いやいや、あんな人外の領域に片足どころか全身頭まで突っ込んでるような戦いに割って入れるわけないでしょ」
ボクだって自分の命は惜しいさ、とヘラヘラ笑うコーディーの真意は掴めない。本心ではきっとフィンセントを死なせたくないと思っているはずだ。
まあ結果的に助けられたのだからいちゃもんをつけることもないか、と考えながらハロルドはフィンセントに治癒魔法をかける。
ゲームの設定上そうなっていることだが、ハロルドの治癒魔法の効果は絶大である。数値で言えばHPが二千以上も回復するのだから、主人公パーティーの回復役であるエリカと比較しても文字通り桁が違う。
さすがにフィンセントと一騎打ちをしている最中に回復している余裕はなかったが。ゲームでは魔法が発動さえしてしまえば一瞬で回復されるが、変なところで現実感のあるこの世界では傷が癒えるまで相応の時間を必要とする。
フィンセントの前で悠長に回復するのは自殺行為でしかない。
「おや、助けていいわけ?復活したらまた襲ってくるかもよ?」
「生身なら問題ない」
ハロルドもエーテルを飲めば体力を回復できるし、その上で拘束しておけばまた目覚めたところで制圧はそう難しくないだろう。体力と気力を相当削られはしたが、物理的なダメージはあまりないのだ。
まあ万が一のために武器は遠ざけておいたし、そもそも回復魔法をかけたところで傷は癒えてもすぐに意識は戻らない。何よりこのまま放っておけばフィンセントは間違いなく死ぬ。さすがにそれは寝覚めが悪い。
「それとも貴様はコイツに死んでほしいのか?」
「……その聞き方はちょーっと卑怯じゃない?」
「なら口を挟むな」
「はいはい、分かりましたよ」
コーディーとこうして顔を合わせ会話するのはハロルドが騎士団を抜けて以来のことだ。時間にすれば五年ほどの空白期間があるが、コーディーの軽妙な言動は相変わらずだった。
それを懐かしみながらハロルドはフィンセントの治療を終える。大きな傷は塞いだし血も止まった。治療のついでにその身ぐるみを剥がす。
「何をやってるのかな?」
「物騒な物を隠している可能性がある」
所持しているアストラルポーションがあれ一個だけとは限らない。一応身体検査もしておいた方がいいとハロルドは判断した。
それにもしかしたらフィンセントが秘宝を持っているかもしれない。まあここで待ち受けていた時点ですでにユストゥスの手に渡っていそうだが……。
「……何もない、か」
結局空振りであった。秘宝探しも、フィンセントとの戦闘も、である。唯一の収穫は洗脳フィンセントという危険な手駒を潰せたことだろう。
「ところでハロルド君。きみはこれからどうすんの?」
「……まずは町に移動する」
「足は?」
「近くに馬車を待機させているからな。呼べばすぐに来る」
こういう細かなところで『フリエリ』は役に立っていた。
とりあえず怪我人であるフィンセントを医者に診せて、問題ないようならそのままコーディーに連れ帰させる。目覚めた時に洗脳が解けていなくても拘束武器なし状態のフィンセントであればコーディーでも後れを取ることはないだろう。
「行くぞ」
「はいよ」
「コイツは貴様が担げ」
そう言ってフィンセントを指差す。甲冑を脱がせたとは言え長身で筋骨隆々の体格からして体重は百キロを超えているだろう。
洞窟から出るにはそんなフィンセントを担いで足場が悪く上り坂になっている道を歩いて行かなければならない。そしてハロルドは戦闘の直後で疲れ果てている。誰が担ぐかは自明の理であった。
「はっはっはっ、ご冗談を」
「……ふっ!」
「ごほぉ!?」
洞窟内にコーディーの苦悶する声が響く。
そのボディーにはハロルドの左拳がめり込んでいた。
◇
両手を拘束されたフィンセントを首の後ろで担ぎながら、先ほど拳を叩き込まれた腹部をさすってコーディーは苦笑する。記憶にあるよりも身長が伸び、背丈は自分と同じほどになっていた。さらには大層な男前になっていたが性格の方はまるっきり変わっておらず、むしろ大人びただけあの尊大な態度が板についてきた感さえある。
そのハロルドはコーディーにフィンセントを任せると洞窟の奥に進んでいった。なんでも望み薄だが奥に探し物があるらしい。
こんな辺鄙な場所にある洞窟の奥底に何が眠っているのか見当もつかないが、フィンセントがおかしくなったことと何か関係があるのだろうか。どうにもハロルド関連は考えることが多い上に、考えたところで分かりそうもないことばかりで思わずため息が漏れる。
目下の心配事は明らかに常軌を逸した状態だった親友が正気を取り戻してくれるかどうかだが。
一体何が起きているのやら。そんな疑問を抱きつつ洞窟の外へ出る。
ここに入った時は日が暮れる少し手前くらいだったが、それからもう数時間は経っている。コーディーがフィンセントを発見した時点ですでにハロルドと激しく戦っていたが、あの二人は何時間にわたって剣を交えていたのだろうか。
あのレベルの殺し合いを長時間行いながら、決着後すぐに洞窟の最深部に向かったハロルドはやはりおかしい。体力はエーテルで回復しても精神面の疲労は取れないのだから、常人であればしばらく動けないはずである。
「まあハロルドに関しちゃいまさらか」
普通や常識といったものさしで測れないのは出会った時からずっとだ。
とりあえずハロルドに渡されたライトを取り出し、教えられた方向に時間間隔を空けながら点けたり消したりをくり返す。すると木々の奥から数人の男達が現れた。
その内の一人がコーディーに声をかけた。
「旦那の仲間か?」
「旦那ってのがハロルドのことならそうだねぇ。彼からこの男を近くの病院まで運ぶように言われてるんだけど」
「なら符丁を言いな」
「『御空の宝玉に集う勇敢な心』、だっけ?あとこれ」
そう言って、コーディーはハロルドから受け取っていた銀製のカギを彼らに見せる。
符丁とこのカギが本当にハロルドの味方である、という証拠になるらしい。なんとも手の込んだことをしているものだと思う。
「……こっちだ」
検問をクリアし、コーディーが案内された先には小さな馬車があった。
「これにアンタとその男を乗せる。あまり速度は出ないが、夜が明ける頃には最寄りの町に着くだろう」
「ハロルドはどうすんの?」
「気にするな。あの人はどうとでもする」
なんとも適当な答えだが、それだけの信頼があるということだろう。
思い返してみればハロルドはベルティスの森に向かう時も馬に一歩後れを取るくらいの速度で移動していた。十三歳当時であれだったのだから、今はあれよりもさらに速くなっているのだろう。
実際、洞窟内での戦闘時に見せた速さときたら全体が見渡せる位置からでも視認するのが一苦労であった。いざ相対せば見失うこと請け合いである。
なのでまあ大丈夫なんだろうと納得したコーディーは馬車に乗り込み、数時間かけて到着した町の医者にフィンセントを診せた。
その処置も終わり、安静にしていればすぐに目を覚ますだろうと聞かされ一息ついた時にはもう日が高く昇っていた。そしてそれからしばらくしてハロルドが合流する。
興味本位でどうやってここまできたのか尋ねてみると、洞窟の外に待機させていた人間にコーディー達が向かった場所を聞いて、馬車が戻ってくるのを待たず走って追ってきたとのこと。
長時間の戦闘を終えた直後に洞窟を踏破し、すぐに踵を返して洞窟を出るとその足で数十キロの道のりを駆けるなど常軌を逸した行動でしかない。それをやろうと思うこと自体がおかしいし、できてしまうことはさらにおかしい。
「やっぱハロルドって人間じゃないよねぇ」
「もう一発殴られたいか?」
「君は人間の鑑だね、うん」
笑顔でそう返したコーディーに拳は飛んでこず、代わりにふくらはぎを蹴られてうずくまる。
なんて理不尽だ、と言葉に出すことなく嘆いた。
「病院で怪我人を増やさないでくれよ……」
「そんなことよりフィンセントはどうなっている?」
ベッドに横たわるフィンセントを見下ろしながらハロルドはそう聞いてきた。
「あ、普通に話を進めちゃう……?医者の話だと命に別状はないし、その内目を覚ますだろうってさ」
本来なら死んでいてもおかしくない怪我を負っていたが、それをハロルド自身が治してくれたおかげだ。苦言を呈するべきか、感謝を述べるべきか判断に迷うところだった。
対するハロルドは「そうか」といつも通りのそっけない反応を見せる。すぐに治癒魔法をかけたり容体を気にしたりとフィンセントを心配していないわけではないと思うのだが。
「そんでハロルドはフィンセントがどうしてああなったか知ってるわけ?」
「恐らくはユストゥスに洗脳まがいのことでもされたんだろう」
「ユストゥス……フロイント博士か?洗脳ってのはまた穏やかじゃない……」
「なんだ?」
「いや……」
王国に名だたる稀代の天才博士の名前が出てきたことによる驚きもあったが、コーディーが言葉に詰まった理由は“洗脳”という単語が頭をかすめたからだった。それによりフィンセントの異常な状態と、過去のとある記憶が結びつく。
あれは数年前、ベルティスの森での事件がありハロルドに死刑が下されそうになった時のことだ。
不可解な判決の真相を探るために、審議に関わった一人である同僚のフィネガンに自白作用のある薬を飲ませた。その際に彼は錯乱状態となり、店の柱に頭部を強打し始めた。
それを男二人で何とか止めさせはしたが、あの時の異様な様子は今でも強くコーディーの脳裏に刻み込まれている。
あれはまるで……
「『悪魔に憑りつかれているみたいだった』、か……」
あの時フィネガンの異常を目の当たりにして思わず口から漏れた言葉。自分で言っておきながら薄気味の悪いものを感じたことも思い出す。
あれ以来フィネガンは譫言を繰り返すばかりになってしまい、今は騎士団を辞め自宅療養の身だ。もう意思の疎通ができず寝たきりだと聞いている。
フィンセントもそうなってしまうのか、とどうしても考えてしまう。それだけで言い知れぬ悲しみと怒りが胸の内から湧き上がってくる。
「なんの話だ?」
「あー……」
思わず言い淀む。あれが本当にユストゥスと関係のある出来事なのか分からないというのもあるし、今のハロルドはユストゥスの研究所に所属している。立ち位置が不明なハロルドに話すべきかどうか迷った。
……が、それも一瞬のことだ。
ハロルドという男と共にした時間はそう長くないが、それでも彼の本質というものをコーディーはある程度把握している。
彼はベルティスの森でその命を懸けて戦った。ハロルドがいなければ騎士団や星詠族の人的被害は倍以上になっていたことだろう。
騎士団内部には事前に周知していればもっと被害を抑えられたという意見もあったが、当時新人もいいところだったハロルドが言葉だけで説得を試みたところで何かしらの対策に動いたかと言えば甚だ疑問だ。
ハロルドはそれを理解していたからこそ騎士団には頼らずに戦ったのだろう。
そして今回は殺すことも可能だったにも関わらずフィンセントの命を助けた。それらに何かしらの目的があるにせよ、人の命や尊厳を奪うようなことをする人間ではないと信じている。
「……実は数年前にフィンセントと似たように錯乱状態になった男がいてね」
ハロルドに死刑判決が下された審議に参加していたフィネガン。彼に審議がどんなものだったか尋ねた際に起きたそれを伝える。
話を聞いたハロルドは何かを思案しているのか押し黙った。
「今日まで真相は闇の中だったけど、もしかしたらこれにフロイント博士が関係しているんじゃないかと思ったわけさ」
「……断言はできないがその可能性は高いだろうな。アイツは人間の自我を封じ込めて言いなりの人形を作る技術を持っている」
「それはまた恐ろしい。博士って実はとんでもない人なんじゃ?」
「少なくともベルティスの森で起きた一件の黒幕は奴だ。ついでに言えば俺が死刑になったのも、それを撤回させたのもな」
「いくらなんでも一介の研究者にそんな権限ある?」
そう聞かれたハロルドは鞘から剣を抜く。
「コイツはユストゥスが生み出した剣だ。使用者の魔力を吸収することで戦闘能力を飛躍的に上昇させる。代償は使用者の寿命だ」
その説明にコーディーは言葉を失う。
なぜならその剣をハロルドは実際に使用していた。程度は分からないが、ハロルドの寿命が失われているのは確かなのだ。
「研究が進めば寿命を削るというデメリットを改善できる。だがその為には使用実験が必要で、人道的な面からそれは困難だ。ならば死に行く人間に使わせればいい」
ただ淡々と、まるで他人事のようにハロルドはそう語った。
なんて馬鹿なことを、と叱責するのは簡単だ。だが剣を取らなければハロルドはあのまま殺されていたのだろう。それを仕組んだのはユストゥスであり、悪魔のような剣を制作したのもまた彼である。
最初からハロルドには選択肢など存在しなかったのだ。
「完成すれば最強の軍の出来上がりだ。国の上層部がたかだか死刑囚一人の判決を覆すことにどれほどの躊躇をする?」
「……しないね。ああ、しないとも」
王国も、そこに住まう人間も、この世の多くのものは何かしらの犠牲の上に成り立っている。国の暗部などその最たるものだろう。その程度のことはコーディーも理解している。
だが納得など到底できるわけがない。凶悪な犯罪を犯した本物の死刑囚ならまだしも、ハロルドは多くの人間の命を救った男だ。そんな男が罠にかけられ、悪人として命を弄ばれている。そんな理不尽を許せるわけがない。
フィンセントやフィネガン、そしてベルティスの森の件も含めてかつてないほどの怒りがコーディーの心を埋め尽くしていく。
けれどその怒りに体を預けてはいけない、と気持ちを鎮める。今しなければいけないことは怒ることではなく状況の把握と今後の対応を考えることだ。
「でもそこまでして君を手駒にしておいて、なんでフィンセントと殺し合いなんて展開になってるの?二人とも博士側でしょ、一応」
「アイツはある目的の為に動いている。表面上それに協力してきてやったが、裏切った途端迷わず殺しにきた。それだけのことだ」
「そりゃ分かりやすい」
表面上などと言っている時点で最初から裏切る気満々だったところも含めてハロルドらしい。
命を握られていようとも薄れることのない我の強さ。それこそ洗脳でもしない限り彼を服従させることなんてできないのだろう。
そんなことを考えて、あまりの“らしさ”に思わず苦笑する。
「んで、迷惑博士の目的ってのは?」
なんの為にこんなことを仕出かしているのか、いざ事の本題を尋ねる。
「それは――」
「待ってくれ……その話、私にも聞かせてほしい……」
しかしハロルドが答えようとしたところでそんな声が割って入る。
それはとても弱々しくあったが、けれどコーディーにとっては慣れ親しんだ男のものであった。




