聖女の加護を奪われた私は、闇の聖女になりました
貴族に生まれた子供には、五歳になると必ず受ける儀式がある。
神殿へ赴く平民とは違い、爵位を持つ家の子供は自らの屋敷に設けられた祈りの間で神の加護を授かる。
それは貴族にとって、人生を左右する大切な儀式だった。
剣の加護を授かれば騎士として。
知識の加護を授かれば文官として。
そして、ごく稀に現れる聖の加護を授かった者は聖女として神殿に迎えられる。
聖女は、ただの神官ではない。
神に選ばれた崇高な存在。
国中から崇められる存在である。
その力は病や傷を癒やし、時には死の淵にある者さえ救う。
だからこそ、聖女が誕生すれば、その家は一夜にして名誉を得る。
私たちが五歳になった日。
伯爵家の双子の娘である私たちにも、その時が訪れた。
「お姉様、もしかして緊張しているの?」
隣に立つ妹が楽しそうに私を見上げていた。
「……少しだけ」
そう答えると、妹はくすくすと笑った。
「私は楽しみよ。きっと素敵な加護がもらえるわ」
「そうね」
「お姉様は?」
「……私も、そうだといいと思う」
「早く時間にならないかしら?」
私は小さく頷いた。
妹の名は、リリア。
私の双子の妹だ。
顔立ちはよく似ている。というか瓜二つだ。
けれど、性格は正反対だった。
リリアはよく笑い、よく喋り、誰に対しても愛想がいい。
大人が好きそうな言葉を選び、少し首を傾げて笑えば、たいていの人間は彼女を可愛がった。
対して私は、昔から感情を表に出すのが苦手だった。
いくら顔が整っていても、幼い子供で愛嬌が無さすぎるのは致命的だった。
嬉しくても、笑うことが少ない。
悲しくても、泣くことが少ない。
怒っても、大声を出すことはなかった。
だから両親からは、よく言われていた。
『お前は、リリアのようにもう少し愛嬌を持ちなさい』
けれど、どうすればいいのか分からなかった。
それでも、その日の私は私なりに楽しみにしていた。やはり感情が表に出なくても、両親からの愛は欲しい。妹の半分……いや、十分の一だけでも愛が欲しかった。
もしかしたら……良い加護を授かれば、父も母も私を見てくれるかもしれない。
リリアばかりではなく、私にも笑いかけてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、私は祈りの間へ入った。
部屋の中央には、神を象った小さな像が置かれている。
その前に、私とリリアが並んで跪いた。
向かいには、神殿から呼ばれた神官が一人。
父と母は、その後ろで私たちを見守っていた。
「それでは、お二人とも神へ祈りを」
神官の言葉に従い、私たちは目を閉じた。
静かな時間だった。
何も聞こえない。
何も見えない。
ただ、胸の奥で祈る。
どうか……どうか、私にも何かをください。
そう、誰かに必要とされるものを。
そう願った瞬間だった。
目を閉じているはずなのに、目の前が眩しくなった。
「……っ」
思わず目を開く。
そこには、白い光が浮かんでいた。
柔らかく。
温かく。
私の身体を包み込むような、純白の光。
神官が息を呑んだ。
「これは……」
父が立ち上がる。
「まさか……」
母も口元を押さえていた。
「あなた、あの光は……!」
私は何が起きているのか分からなかった。
ただ、白い光がとても綺麗でその光に包まれていることが、嬉しかった。
ようやく、私にも何かがある。
そう思った。
けれど、その直後だった。
「お姉様」
隣から声がした。
リリアだった。
私は振り向いた。
妹の顔には、先ほどまでの笑顔がなかった。
代わりに、見たことのない表情が浮かんでいた。
羨望。
焦り。
そして――欲望。
「それ、私のほうが似合うと思うの」
「……え?」
次の瞬間。
リリアが私の手を掴んだ。
「きゃっ!」
「な、何を!」
神官が叫ぶ。
けれど、遅かった。
白い光が大きく揺らいだ。
私の体から何かが引き抜かれるような感覚。
「いや……」
初めてだった。
私は声を上げた。
「やめて……!」
けれど、光は止まらない。
白い光が私の身体から離れ、リリアへと流れ込んでいく。
「……あ」
リリアの身体が白く輝いた。
その瞬間、私の中へ今度は別のものが流れ込んできた。
冷たい。
暗い。
底の見えない何か。
……禍々しい黒い光だった。
それは私の身体へ入り込み、胸の奥へ沈んでいった。
「……っ!」
苦しくて、私は床に手をついた。
神官が何か叫んでいる。
父も母も騒いでいる。
けれど、私には何も聞こえなかった。
ただ、身体の中にある黒い何かだけが、はっきりと分かった。
やがて光が消えた。
祈りの間に静寂が戻る。
リリアは自分の手を見つめていた。
その身体には、まだ白い光の残滓が漂っている。
そして口元も押さえずに彼女は大きく笑った。
とても嬉しそうに。
「ははは、これで聖女の座は、私のものよ。そう、私が聖女になるのよ……」
その言葉を聞いた瞬間、私は妹を見た。
意味が分からなかった。
どうして……どうして私の光を欲がるのか。
どうして、私の身体に黒いものが入っているのか。
私は神官を見た。
神官は顔を青ざめさせていた。
「……こ、これは」
その声には、明らかな動揺があった。
私は知らなかった。
このとき神官だけは、何が起きたのか理解していたことを。
そして、その日のうちに父から大金を握らされることになることも。
数日後。
神官は、正式な記録を残した。
――リリア・アストレア。
聖の加護を授かったアストレア伯爵家の娘。
もちろん、父からたっぷりの賄賂を渡された神官は、姉である私については、いっさい記録することはなかった。
もちろん神官は真実を知っていた。
私に最初に白い光が現れたことも。
リリアがそれを奪ったことも。
私の中へ黒い光が流れ込んだことも。
全部知っていた。
それでも、口を閉ざした。
伯爵家から渡された金貨の重みに負けたのだ。
その日から、私の人生は変わった。
「あなたは、この部屋にいなさい。私達の許可なくこの部屋から出ることを禁じます」
母にそう言われた。
「え……一体どうして?」
「あなたは闇の加護を持っているのでしょう?」
「……でも」
「でも、ではありません」
母は闇の加護持ちである娘には輪をかけて冷たかった。
「リリアは聖女なのです。あなたが余計なことをして、あの子や私たちの立場を悪くするようなことがあっては困ります」
「私は……何もしていません」
「そういうところが嫌なのです」
母はため息を吐いた。
「本当に、あなたは愛想がないわね」
それから私は、屋敷の奥にある部屋へ移された。
窓はある、けれど外へ出ることは許されなかった。
食事は一日にニ度。家族は一日に三度の食事。
もちろん、妹が食べるものとは違った。
服も、妹が着なくなったものや街で買ってきた中古の既製品である。
玩具も、本もない。
時折、使用人が食事を運んでくる。
それだけだった。私が何かを尋ねても、誰も答えてくれない。
最初の頃は、何度も両親に訴えた。
「私の加護だったの」
「リリアが取ったの」
「最初に白い光が出たのは私だった」
けれど、誰も信じてくれなかった。
「妹を妬むのはやめなさい」
「そんなことを言う子に育てた覚えはありません」
「聖女になれなかったからって、リリアを恨むのはやめて」
いつしか私は、何も言わなくなった。
すると両親は、それを見てさらに私を嫌うようになった。
「本当に、何を考えているか分からない不気味な子ね」
母がそう言った。
「ああ、お前は何を考えているのか全く分からない」
父も同意した。
そして、妹だけが毎日のように褒められた。
「リリアは本当に可愛いわ」
「笑顔が素敵ね」
「さすが聖女様だ」
彼らが廊下を歩いていると、そんな声が聞こえてくる。
私は部屋の中から、その声を聞いていた。
羨ましいとは思わなかった。
ただ少しだけ、寂しかった。
ある日リリアが私の部屋へやってきた。
五歳になってから、彼女は以前よりも頻繁に来るようになっていた。
誰も見ていない場所では、決まって笑っていた。
「お姉様」
「……何?」
「まだ、私の聖女の加護を返してほしいと思ってる?」
「……」
「ふふっ」
リリアは楽しそうだった。
「やっぱり、随分と未練がましいのね」
「それは本来、私のものだった」
「違うわ」
即答だった。
「神様が私を選んだのよ」
「違う」
「お姉様は、本当にしつこいわね」
リリアは私の前にしゃがみ込んだ。
そして、耳元で囁いた。
「聖女は私」
五歳のあの日と同じ言葉だった。
「お姉様は闇」
小さな指が、私の胸を指す。
「不吉で、暗くて、誰にも愛されない闇の加護」
「……」
「私のほうがずっと可愛いもの」
「……」
「早く消えた方がお姉様のためよ?」
そう言って、リリアは笑った。
私は何も言わなかった。
言い返しても意味がないことを、もう知っていたから。
それから三年が経った。
私は八歳になった。
そして、その年。
私の人生は、もう一度大きく動くことになる。
きっかけは、些細なことだった。
屋敷の庭で魔物が一匹暴れた。
小さな魔獣だった。
「どこから入ってきた!?」
使用人たちが逃げ惑う中、私は偶然、窓からそれを見た。
怖いとはちっとも思わなかった。
ただ、その魔獣から漏れ出している魔力が、私にはひどく鮮明に感じられた。
気づけば、私は窓越しに魔獣へ手を伸ばしていた。
すると黒い光が、私の指先から広がった。
魔獣が動きを止める。
そして、そのまま眠るように地面へ伏した。
その様子をたまたま見ていた使用人が、悲鳴を上げた。
その日の夜。
私は両親の前に連れていかれた。
父は険しい顔をしていて、母も青ざめている。
……そして、そこにはリリアもいた。
「闇の加護を使って闇魔法を使ったのか」
父に尋ねられた。
「……はい」
「なぜ使った?」
「魔獣が……怖かったから」
「嘘をつくな」
父の声が響いた。
「お前がその力を使ったことが外に知られれば、伯爵家はどうなると思っている!」
「……」
私は黙った。これに関しては迂闊だった。言い訳は逆効果であると分かっているため、一先ず口をつぐむ。
するとリリアが口を挟んだ。
「お父様」
「なんだ」
「私、前から思っていたの」
リリアは私を見て笑った。
「お姉様は、ここにいないほうがいいと思うわ」
「「……」」
父も母も黙って私を見つめていた。
そして、その翌日。
私は屋敷の外へ連れ出された。
荷物は小さな袋一つ。
中に入っていたのは、古びた服と僅かな食料だけだった。
たったこんな物か。私という存在がまるで荷物の量で表されているみたいで余計に虚しくなった。
「……私は一体、どこへ行けば良いの?」
私は尋ねた。
父は答えなかった。
屋敷の正門前には、母とリリアがいた。
使用人たちも、遠巻きにこちらを見ている。
私はそこで初めて理解した。
ああ……捨てられるのだ。
「今日限りで、お前はアストレア伯爵家の人間ではない」
父が言った。
「……はい」
私は頷いた。
「お父様」
リリアが父の腕に抱きついた。
「これで安心ね」
「そうだな」
父はリリアの頭を撫でた。
その手は、私には一度も向けられなかった。
私はリリアを見る。
「……あの白い光は、私のものだった」
最後に、もう一度だけ言った。
するとリリアは笑った。
「まだそんなことを言っているの?」
「……」
「お姉様って、本当に可哀想」
母が眉をひそめた。
「リリア、もういいでしょう」
「だって、お母様」
リリアは楽しそうだった。
「最後くらい、教えてあげてもいいでしょう?」
そして私の前まで歩いてくる。
「聖女は私なの」
私の目を覗き込む。
「お姉様じゃないの」
「……」
「お姉様は、ずっとここに閉じ込められていたでしょう?」
「……そうね」
「だったら、それがお姉様の価値なのよ」
胸が、少しだけ痛んだ。
けれど私は泣かなかった。
泣く方法を、もう忘れていた。
まさか感情表現の少ないことが、こんな所で役に立つとは……随分と笑えない。
「さようなら、お姉様」
リリアは満面の笑みを浮かべた。
「もう二度と帰ってこないでね」
私は振り返った。
誰も引き留めなかった。
父も。
母も。
妹も。
誰一人として。
私は一人で歩き始めた。
行く先は知らない。
帰る場所もない。
まだ八歳の私には、生きていく方法すら分からなかった。
ただ、遠くに見える森だけがあった。
人々から恐れられている、魔の森。
私はそこへ向かった。
もう生きているのも嫌になる。でも、自らの手で終わらせる勇気すらない自分がもっと嫌になる。
歩いて。
歩いて。
歩き続けて。
やがて、足に力が入らなくなった。
その場に座り込む。
お腹が空いていた。
寒かった。
身体中が痛かった。
それでも私は泣かなかった。どうせ泣いても、誰も来ない。
そう思った、そのとき。
森の奥から、低い唸り声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、大きな魔物がこちらを見ていた。
怖い。でも闇の加護を持つ自分にはお似合いの最後かもしれない。
そう思った瞬間。
私の身体から、黒い光が溢れ出した。
魔物が立ち止まり、唸り声が消える。
やがて、その魔物は私に背を向けた。
まるで、私の存在を恐れるように。
その光景を見ていた私は、初めて気づいた。
私の中にある、この黒い力は。
もしかしたら――
呪いではないのかもしれない。
そしてその少し後。
魔の森を調査していた、一人の騎士が私を見つけた。
「……子供!?」
驚いた声が、森の中に響く。
私は顔を上げた。銀色の鎧を身につけた男が、こちらを見ている。
男は私の姿を見て息を呑んだ。
「なぜ、こんな場所に……」
そして、私の周囲に集まっていた魔物たちが、一匹……また一匹……と静かに離れていくのを見て、男は目を見開いた。
「……まさか」
彼は、私の身体から漏れ出す黒い魔力を見つめた。
「闇の聖女……なのか?」
その言葉を聞いたのは。
私にとって、その日が初めてだった。
自分が、ただの不吉な子供ではないのだと知ったのは。
「闇の聖女……?」
その言葉の意味を、私は知らなかった。
ただ、目の前にいる騎士が驚いていることだけは分かった。
「君、名前は?」
「……エレノア」
「親は?はぐれたのか?」
「……」
答えようとして、口を閉じた。
親……そう言われても、もう私には家族と呼べるような人がいない。
伯爵家を追い出された。
だから、答える必要もないと思った。
「……おりません」
「孤児か?」
「はい」
騎士は眉を寄せた。
そして、私の姿を改めて見た。
薄汚れた服。
細すぎる腕。
頬は痩せこけ、手足には小さな傷がいくつもある。
まだ幼い子供が一人で魔の森にいる。
見た目は孤児ではある……孤児ではあるが孤児にしては品がありすぎる。まるで貴族の令嬢のように。
このアンバランスさ。どう考えても普通ではない。
「……誰にここへ連れてこられた?」
「誰にも」
「一人で来たのか?」
「はい」
「どうして?」
「捨てられたからです」
騎士の表情が固まった。
私はそれ以上、何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、騎士は大きく息を吐いた。
「……そうか」
それだけ言って、彼は自分の外套を脱いだ。
そして私の肩へ掛けてくれる。
「寒いだろう」
「……ありがとうございます」
「立てるか?」
「たぶん」
立ち上がろうとした。
けれど、足に力が入らなかった。
身体がぐらりと傾く。
騎士が慌てて私を抱き留めた。
「おい!」
「……すみません」
「謝らなくていい」
抱き上げられる。
驚いた。
誰かに抱き上げられたのは、いつ以来だっただろう。
小さかった頃、母に抱かれたことがある。
けれど、それも妹と比べればほんの僅かな時間だった。
そんなことを考えているうちに、私は急に眠くなった。
「少し眠っていい」
騎士の声が聞こえた。
「……はい」
目を閉じる……そのときだった。
遠くから魔物の咆哮が響いた。
騎士が振り返る。
森の奥から、何体もの魔物がこちらを見ていた。
私を守りながら一人で相手をするには厳しいだろう。
けれど、何故か襲ってこない。
私が騎士の腕の中にいる間も、一定の距離を保っている。
騎士はそれを見て、確信したようだった。
「……やはり、この子が抑えている」
その声を最後に、私の意識は途切れた。
目を覚ますと、知らない天井があった。
白い天井。
柔らかな布団。
そして、身体を包む暖かな空気。
私はゆっくりと起き上がった。
「……ここは?」
「目が覚めたか」
声がして、横を見る。
そこには、森で私を見つけた騎士がいた。
「ここはアークライト公爵家だ」
「公爵家……?」
「ああ」
私は周囲を見渡した。
広い部屋だった。
壁には美しい絵が飾られ、窓には厚いカーテンが掛かっている。
私が今まで閉じ込められていた部屋とは、何もかも違った。
「医師に診てもらった。かなり栄養が足りていないそうだ」
「……そうですか」
「それから、君の加護についても確認した」
私は少し身構えた。
「……私を、追い出しますか?」
「なぜそうなる?」
「闇の加護だから」
「だから?」
騎士は不思議そうに首を傾げた。
その反応が、私には理解できなかった。
「闇は……不吉なものだから」
「誰がそんなことを言った?」
「……家族が……いえ、家族だった人達が」
騎士は黙った。
しばらくして、低い声で言った。
「その家族は、君を捨てたんだよな?」
「……はい」
「悪い、ストレート過ぎた。でも、そいつらの言葉を信じる必要はない」
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
「君の加護は、我々にとって非常に重要なものだ」
「……重要?」
「ああ」
騎士は窓の外を見る。
遠くに、深い森が広がっていた。
「アークライト公爵領は、魔の森と隣接している」
魔の森。
私の最後として向かった場所。
「魔の森では、常に魔物が生まれる。その原因となる魔力を抑え、魔物の狂暴化を防ぐことができるのが、闇の加護だ」
「……私が?」
「そうだ」
騎士は頷いた。
「君は無意識に魔物を抑えていた。しかもとてつもなく強い加護だ」
私は自分の手を見る。
あの黒い光……今まで、ずっと恐ろしいものだと思っていた。
けれどそれは、不吉な力でも、誰かを傷つけるための力でもなかった。
魔物を鎮める力だった。
「……でも」
私は小さく呟いた。
「私には、そんな力を持つ価値なんて……」
「価値?」
「私は……聖女になれなかったから」
騎士はしばらく私を見つめていた。
そして、少し困ったように笑った。
「君は、まだ八歳だろう」
「……はい」
「どうしてそんなに、今から自分の価値を決めたがる?」
答えられなかった。
私は自分の価値を、自分で考えたことがなかった。
自分は無価値である。それはいつの間にか、至極当たり前のこととして刷り込まれていた。
両親や妹が決めた。
たった……たったそれだけで、私はずっと、自分には価値がないと思っていた。
数日後。
私は公爵本人と会うことになった。
大きな執務室。
重厚な机の向こうに、一人の男性が座っている。
アークライト公爵。
魔の森を治める、この国でも有数の大貴族。
鋭い目をした、近寄りがたい男性だった。
「エレノア」
「はい」
「我が家で暮らす気はあるか?」
「……え?」
突然の言葉だった。
「君の加護は、この領地に必要だ」
「……私は一度捨てられた身です。生きる意味も失ってしまいました。私の加護は好きなように使って下さい」
「勘違いするな」
公爵はすぐに付け加えた。
「加護だけを利用するつもりはない」
「……?」
「君の加護ではなく、自身を保護する」
私は黙って公爵を見た。
「正式に養女として迎えよう」
「……私を?」
「ああ」
「どうして?」
「君を拾った騎士から話を聞いた」
公爵は眉間に皺を寄せる。
「八歳の子供を、捨てるような家を私は信用しない。そして話を聞いて、私は君を気に入ってしまった」
「……」
「だから君を我が家で育てる。これは決定事項だ」
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
「迷惑では……?」
「迷惑なら、最初から話を持ちかけていない」
「……お金も、ありません」
「いらない」
「何も返せません」
「返す必要もない。今日からここが君の家だ。もし何か返したいのなら、まずは健康になってからだ」
私は俯いた。
涙は出なかった。
けれど胸の奥が、今まで感じたことのないほど温かかった。
「あり……ありが、ありがとうございます……」
「礼を言うのはまだ早い」
「?」
「我が家には、君よりずっと騒がしい男が一人いる。君の兄となる男だ」
公爵が疲れたように息を吐いた。
「……覚悟しておけ」
「妹!?」
翌日。
公爵の言葉を聞いた少年は、目を輝かせた。
十五歳。
公爵家の嫡男であり、小公爵と呼ばれている少年だった。
「妹ができるの!?」
「そうだ」
「本当に?」
「ああ」
「父上の騎士が拾ってきた子だって聞いたけど!」
「ああ、養女にすることにした」
「じゃあ、俺の妹?」
「まあそうなるな」
少年は私の前にしゃがみ込んだ。
「俺はアルベルト」
「……エレノアです」
「知ってる」
アルベルトは嬉しそうに笑った。
「今日から俺がお前の兄貴だ」
「……兄貴」
「そう」
胸の奥が、少しだけざわついた。
「お兄様……?」
「そう、それ!」
アルベルトの顔がぱっと明るくなる。
「もう一回」
「……お兄様」
「……」
アルベルトは胸を押さえた。
「父上」
「なんだ」
「俺、今日から世界一幸せな兄かもしれない」
「大げさだ」
公爵は呆れた顔をしていた。
けれど私はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「あ」
アルベルトが私を見る。
「今、笑った?」
「……笑ってません」
「笑った!」
「笑ってません」
「父上!妹が笑った!」
「何度も報告するな」
公爵は呆れていた。
でもその声は、どこか柔らかかった。
それからの日々は、私にとって知らないことばかりだった。
朝になれば、温かな食事が出てくる。
好きなだけ食べていいと言われた。
最初は信じられなかった。
パンを一つ残しただけで叱られると思っていた。
「……本当に、残してもいいのですか?」
「もちろんだ。どうしても食べきれない分は残していい。ただ、食べ物を粗末にするのはいただけないがな」
侍女は優しく笑った。
「ですが、もう少し召し上がったほうがよろしいですよ」
私は少しずつ食べた。
食事の量が増えていくにつれ、身体にも少しずつ肉が戻っていった。
新しい服をもらった。
柔らかな布の服。
袖を通すのが怖かった。
「汚したら……」
「洗えばいいだけですよ」
そんな当たり前のことを言われて、私は戸惑った。
本をもらった。
庭へ出てもいいと言われた。
窓を開けても怒られなかった。
そして何より。
私には兄ができた。
「エレノア!」
「はい」
「今日は庭を探検しよう!」
「……昨日も行きました」
「今日は昨日と違う場所だ!」
「どこですか?」
「秘密だ!」
アルベルトは毎日のように私を連れ回した。
私が少しでも興味を示せば、すぐに教えてくれる。
花の名前。
魔物の種類。
剣の使い方。
領地のこと。
私が知らないことを、たくさん教えてくれた。
おそらくではあるが、とても優秀な方なのだと私でも分かる。
私が本を読んでいれば邪魔をしないし、疲れていれば何も言わずに隣に座る。
そして私が笑うと、決まって嬉しそうにする。
「妹って、こんなに可愛いんだな」
「……?」
「いや、なんでもない」
そんな日々が続くうちに。
私は少しずつ笑うようになった。
自分でも驚くほどだった。
笑うことは難しいことではなかった。
笑っても怒られない場所では、自然と笑えるのだ。
一方。
王都では、リリアが聖女として神殿へ迎えられていた。
「聖女様!」
「どうか我々をお救いください!」
人々が跪く。
リリアは満面の笑みを浮かべていた。
五歳のあの日から夢見ていた光景。
誰もが自分を見ている。
誰もが自分を尊敬している。
出来損ないの姉より私のほうがこの加護は相応しい。私は正しかった。
リリアはそう思っていた。
しかし。
「では、本日の治癒をお願いします」
神官から渡された予定表を見て、リリアの顔が引きつった。
「え?……こんなに?」
「聖女様のお力を必要としている方は大勢おります」
「で、でも、私……」
「大丈夫です」
神官が笑う。
「回復薬も用意しております」
机の上に置かれた瓶。
中身は濁った緑色。
「……何これ?」
「魔力回復薬です」
「これ……飲めるの?」
「もちろん」
リリアは恐る恐る口をつけた。
「――っ!」
顔が歪む。
苦い。
酸っぱい匂いがするのに苦い。そして後味は鉄のような錆びた味がする。
「酷い味っ……!」
「我慢してください」
「こんなの飲めないわ!」
「聖女様」
神官は穏やかに微笑んだ。
「まだ患者が残っております」
その一言で終わった。
リリアは無理矢理回復薬を飲まされる。
治療する。
魔力が尽きる。
また飲む。
また治療する。
それを何度も繰り返した。
倒れそうになっても休めない。
休めばまた無理矢理、薬を飲まされる。
「聖女様、お願いします」
「どうか、娘を」
「妻を助けてください」
その声を聞けば、逃げることもできない。
リリアは初めて知った。
聖女とは。
誰からも大切にされる存在ではない。
誰かを救うために、自分を削り続ける存在なのだと。
「……お姉様」
疲れ果てたリリアは、ふと姉のことを思い出した。
けれどすぐに首を振った。
「違う……」
姉は聖女ではない。
姉は不吉な闇の加護。皆んなから崇められる聖女はこの私。
自分にそう言い聞かせた。
そして、季節がいくつか巡った。
公爵家に迎えられてから、私は少しずつ成長した。
闇の加護についても、詳しく学んだ。
私の魔力量は、普通の人間とは比べものにならないほど多かった。
そしてその力は魔の森へ向けることで、驚くほど大きな効果を発揮した。
私が魔力を放つと、魔の森にいる魔物たちが静かになる。
狂暴化していた魔物も、落ち着きを取り戻す。
森そのものが、穏やかになる。
それによって公爵領では魔物による被害が目に見えて減っていった。
「……これが、闇の聖女の力」
公爵が呟いた。
そして王都にも、その報告が届いた。
魔の森の異常な安定。
魔物被害の激減。
魔石の品質向上。
それらを調査するため、王宮から使者がやってきた。
そして調査が進められる中で、一つの疑問が浮かび上がった。
「エレノア嬢の加護について、五歳の儀式記録が存在しない?」
「はい」
公爵家の調査官が答えた。
エレノアの出自については調べはついている。
しかし当時の資料がエレノアだけ見つからなかった。まるで意図的に隠されたかのように。
「双子の妹には聖の加護が記録されています。しかし姉には何も」
「おかしいな」
古い記録を調べる。
そして当時、儀式に立ち会った神官の名前が見つかった。
既に神殿を辞めており、地方で暮らしている男だった。
公爵家の使者が訪ねると、男は最初何も話そうとしなかった。
けれど。
「あなたが五歳の儀式で見たものを、すべて話していただきたい。自ら喋るのと、拷問官から喋らされるのとでは扱いが変わる。我々は手加減はしない」
そう問われた瞬間。
神官は震え始めた。
「……私は」
そして長い沈黙の末に、すべてを告白した。
「最初に白い光が現れたのは、姉君でした」
その言葉によって。
すべてが覆った。
「妹君は、その光を奪ったのです」
神官は伯爵家から金を受け取ったことも話した。
真実を隠すために記録を書き換えたことも。
私は本来、聖の加護を授かる聖女であった。
真実が明らかになったことで、アストレア伯爵家は一気に窮地へ追い込まれた。
伯爵家が公爵家の養女となった私を追放した。
そのうえ神官を買収し、加護の強奪を隠蔽していた。
王家も神殿も黙ってはいられなかった。
しかし両親は最後まで私を責めた。
「エレノアが勝手に闇の加護を奪ったのだ!被害者は寧ろリリアの方だ!」
「私たちはどうすることもできなかった!」
そんな言葉を並べても、証言は覆らない。
そして、さらに問題が起きた。
公爵家が、伯爵家への支援を一切打ち切ったのだ。
魔の森を管理する公爵家は、魔石や魔物素材の流通にも大きな影響力を持っている。
それまで伯爵家が受けていた優遇もなくなった。
関税も上がった。
魔石の取引も止まった。
素材も回ってこない。
商人たちも、次々と取引を断っていった。
「なぜだ!」
父は叫んだ。
「我が娘であるリリアは聖女だぞ!」
けれど聖女になった妹は、神殿から自由に出ることすらできない。
実家を助けるどころか自分自身が、神殿で毎日のように治癒を続けていた。
「お父様……」
ようやく帰宅を許されたリリアは、以前とは別人のように痩せていた。
目の下には隈がある。
手には回復薬の瓶。
そして。
「……助けて」
それだけを言った。
けれど、父にも母にも何もできなかった。
家は傾いている。
財産は減っている。
公爵家を敵に回した伯爵家など、もはや社交界でも居場所がない。
そして自分たちが捨てた娘は、公爵家で大切に育てられている。
それを知ったのは調査が入ってからしばらく経ってからだった。
ある日の午後。
私は庭で本を読んでいた。
「エレノア!」
アルベルトが走ってくる。
「何ですか、お兄様?」
「見てくれ!」
手には小さな花束。
「これ、エレノアに」
「……私に?」
「そう」
私は花束を受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
私は花を見つめた。
そして、自然に笑った。
「……嬉しいです」
「……」
「お兄様?」
アルベルトが顔を背けた。
「どうしました?」
「いや……」
耳が赤い。
「妹が可愛すぎて、兄としてどうすればいいのか分からなくなった」
「……変なお兄様」
「ひどいな!」
「うふふ……あはははは!」
私は笑った。
声を上げて笑った。
その声を少し離れた場所で、公爵が聞いていた。
「……よく笑うようになってくれたな」
小さく呟く。
その横顔は、どこか嬉しそうだった。
かつて私は、笑わないから不気味だと言われた。
感情を見せないから、価値がないと言われた。
聖女になれなかったから、捨てられた。
けれど今は違う。
笑えば喜んでくれる人がいる。
失敗しても叱るだけで、見捨てない人がいる。
眠れない夜には、そっと声をかけてくれる人がいる。
私には新しい家族がいる。
それだけで十分だった。
――そして後に。
魔の森の調査に訪れた一人の青年が、私の姿を見て足を止めることになる。
「……あれが、闇の聖女か」
その青年が誰なのか。
なぜ私を見つめていたのか。
私は、まだ知らない。
ただその出会いが、家族から与えられた愛とはまた違う、新しい感情の始まりになることを。
このときの私は、まだ知らなかった。
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