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にくゑ-禁断の因習村百合ホラー-  作者: カクナノゾム
第十二章 封じの井戸
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虚木(下)-選択-

 吉川が眼鏡を直す。

 問い正したいことはある。だが今の自分が切れる手札はあまりに少ない。


 ――自分の記憶が失われていない、これは今の吉川の持つ最強の手札だった。まだ伏せておきたい。今開くべきではない。しかし、問いたださずにはいられない。吉川が口を開きかけたその時、梓が一歩前に踏み出した。


「……それじゃ、佐藤さんたちのご家族に起こったことは? あれは犯罪でしょう! あんなの、酷すぎるっ!」


 清一は視線だけを井戸に戻した。闇は何も返さない。


「外の血を混ぜるんは、形を保つためじゃ。祈りの型は古から決まっとるが、血は古るうなる。外を入れて、新しゅう澱を砕く」


 吉川が思わず一歩前に出る。彼には聞かなければならないことがあった。たとえ手札が失われるとしても。


「佐藤家の人々は最初から生け贄、だったと? 沙織さんと俊夫さんは無事なのか!?」

「大切な新しい血じゃ。勿論無事じゃっけん、心配いらん。最初から、と問われればそうじゃな。じゃから掟についても教えなんだ……ほう、先生はあの記憶かあるんじゃな? これは驚いたことじゃって」


 吉川は思わず、叫ぶように声を上げていた。あげずにはいられなかった。


「あなたは、人間をなんだと思っているんですかっ!」


 純粋な怒り。腹の中から湧き上がるように怒りが恐怖も何もかもを忘れさせる。


「人間……? 村ん衆のことか、それとも外の衆のことかのう」

「どちらも同じでしょう。命です」

「そうじゃな。どちらも大切じゃ。じゃが――神を鎮めるためには、贄が要るんじゃ」


 吉川は息を呑んだ。

 その静かな口調が、怒号よりも残酷に響く。


「あんたは医者じゃろう。ならわかるはずじゃ。菌も、熱も、体の中で均し続ければ生きられる。この村の掟も、そういうもんじゃ。祈りも笑顔も、律動を保つための調律よ」


 霧が揺れ、井戸の奥で水音がひとつ弾けた。


「夜道の真ん中を歩け。笑顔は三度。それを怠れば、にくゑ様の脈が乱れる。村はのう、神の胎の中にあるんじゃ。わしらが均しておらんと、すぐ外へ溢れる」


「……それが、あなたたちの信仰の理屈か」

「信仰ではない。封印じゃ。言うたじゃろう? この村全体が“蓋”なんじゃよ、先生」


 吉川は口を閉ざした。

 霧の向こうで、山の下の集落がかすかに光る。

 そこには電話も、電波も届かない。

 あの沈黙もまた、封印の一部だった。


「通信も……遮断しているのか」

「当然じゃ。声も音も、にくゑ様を伝える。電波を引けば、あれの“脈”が外まで流れてしまう。じゃから、沈黙が要る。この山が喋らんように、わしらは聞かんように生きとる」


「なら、村長邸の電話は? あれだけは何故繋がっている」

「最後の臍の緒じゃ。外と繋がる一本きりの線。にくゑ様が暴れ出したら、わしが真っ先にそれを断つ。線を切れば、神経も閉じる。村は胎内に戻る。そうやって、何十年も保ってきた」


 清一は井戸の縁に手を置いた。

 ひび割れた掌に、月が滲む。


「……そんな封印、いつまでも保てるものじゃない」

「保たせとる。政府の方々がな」

 吉川が顔を上げた。

「政府……?」

「江戸の昔から上ん方は知っとるんじゃ。この村が防波堤じゃと。前の戦の頃にな、厚生省の連中が来たそうじゃ。調べて、怖がって、黙って帰った。そのあとで村から駐在所をなくした。役所もこの村の者にしてな。この沈黙は、国の施策じゃけぇ」

「……あなたたちを利用しているのか」

「黙認じゃよ。放っとくのが一番安全じゃからな」


 吉川も読んだ事がある、この村への移住プログラム。あれはそう言うことなのか。確かに行政機関が関わっていないと成立しない。


 吉川は拳を握った。

 懐中灯の光が霧に溶ける。

 清一の顔が見えた――笑っていた。

 だがその笑みは、悲しみに近かった。


「先生、にくゑ様は生きとる。肉も、声も、想いも、全部つなげて広がる。わしらはそれを内に閉じておるだけじゃ。じゃが、もし記録が外に出たらどうなると思う?」


 吉川は言葉を失う。清一の言葉は恐ろしい可能性を告げていた。

 その様子を見て一つ頷き、清一は言葉を続ける。


「書くことも、語ることも、祈ることも。それはみな、伝える行為じゃ。伝えれば、にくゑ様は息を吹き返す。……神は、伝播するんじゃ」


 その瞬間、井戸の奥から水音が響いた。

 ぼこり、と泡がひとつ破裂し、また甘い鉄の匂いが漂う。


 梓の肩がわずかに動いた。清一は見ない。風の音だけを聞く。

 吉川が短く息を吸った気配がした。清一は構わず続けた。


「巫女は媒じゃ。村と神の間を繋いで、祈りの通廊を保つ。清音はそれをよう務めとる。……佐藤の沙織は違う。あれは外から来た嫁で、役目は新しい血を入れることじゃ」


 清音のまぶたが震えた。焚き火の赤が、その影を濃くする。


「それでは、佐藤さんたちは最初から生け贄としてこの村にやってきたと?」

「じゃから掟も教えんかった。古い血はだんだんと淀んでゆくけんのぉ」


 その言葉を聞いた梓は、両手を前に組み合わせ、祈るように叫んだ。


「そんな! そんなの酷すぎるっ!」


 清一はそこで初めて梓をまともに見た。月明かりが梓の頬を半分だけ白くする。


「じゃが必要なことじゃ。そうせんと村が、いやこん世界全てが滅ぶ」


 梓は何も言わなかった。清音が一歩、梓の前へ出た。声は低いが、はっきりしていた。


「……私たちは、蓋。にくゑ様から世界を守っているの。誰かがやらなければいけないことなの」


 清一は目を細めた。その気配がわずかに強くなる。


「梓。お前は弓子の娘じゃ。虚木の血筋じゃと聞いておる。お前なら、儂らの大きな力になれる。じゃから全てを明かした」


 洞窟の奥で、水の音がひとつ落ちた。清一は祈祷書をひらき、指で紙の端を押さえた。湿りが重く移る。


「……先生は、もう全て忘れるがええ。あんたはこの村には必要な人じゃ。子供たちはまだ不完全じゃけぇのぉ」


 言うと清一は清音に目をやる。


「……忘れて」


 清音の言葉と同時に、吉川の身体は崩れ落ちる。だが、それは前とは違っていた。吉川は自ら地面に倒れ込んでいた。左腕がじくじくと疼く。胸の中には千鶴の最後の姿が映っている。自分を支配しようとする別の意思に、吉川は抗い続ける。


「――さて、これで全ては話したはずじゃ」


 言って、清一は口を閉じた。霧はまた、火の上で形を変える。誰も動かないまま、夜が少しだけ深くなった。


 清一は梓に視線を向けた。

 その目に情はなかった。ただ、決まりを告げる者の目だった。


「梓。……お前は外の血じゃが、力がある。ここに残るか、それとも外のまま消えるか。――どっちを選ぶ?」


 風の音が止んだ。

 霧の白さだけが、世界の輪郭を残していた。

 清一の問いは、夜そのもののように重かった。


 梓は口を開けなかった。

 喉が焼けついて、声が出ない。

 清音が小さく首を振った。その指先が微かに震えている。

 目の奥に、泣きたいような、笑いたいような光が揺れた。


 この人を救うために、ここまで来た。

 それなのに、救うということが何を意味するのか、いまや分からない。


 村を滅ぼしてでも助けたいと願ったが、

 清音の願いは、この村と共に生きることだった。


 息を吸う。

 霧の味がした。鉄と土と、少しの火の匂い。

 胸の奥が冷たく痺れていく。


「……残ります」


 自分の声が、他人のもののように聞こえた。

 清一が頷く。月の光が、額の皺を深く照らした。


「よう言うた。これで均うた」


 その声に、安堵はなかった。

 ただ、形を整えた者の静けさだけがあった。


 清音が梓の手を取った。

 その手は冷たかったが、確かに生きていた。


「……ありがとう」


 そう言った唇が、震えていた。


 梓は小さく笑った。

 涙が滲んだ。

 三度、笑え――そう教わったとおりに。

 最初の笑いは震え、二度目で声が漏れ、三度目で息が詰まった。


 その瞬間、霧がざわめいた。

 どこかで枝が折れるような音がした。

 月の明かりの届かぬ奥、祠の陰で何かが動いた気がした。

 けれど誰も振り返らなかった。


 清一が祈りを掲げ、声を上げた。

 低い節が、井戸の底へ沈んでいく。

 清音もそれに続く。

 祈りの響きが重なり、世界の形が少しずつ変わっていくようだった。


 梓は目を閉じた。

 祈りの声が波のように押し寄せ、霧が脈を打っている。

 清一の詠唱が低く、地の奥へ潜り、

 清音の声がその上に重なっていく。

 世界が一つの音になり、井戸が静かに応える。


 森の奥で何かが動いた。

 けれど誰も気づかない。

 清音は目を閉じ、清一は祈りを続けている。


 梓の唇が、かすかに開いた。


「……これで、いいんだね」


 その声が霧に溶ける瞬間だった。


 背後で、石を踏む音がした。

 軽い、けれど確かな音。

 誰かが、近づいてくる。


 梓が振り向くより早く、

 空気が裂けた。


「――え!?」


 固く、冷たいものが腹の奥に入ってくるのがわかる。皮膚を裂き、肉をえぐり、腹の奥に――。


 腰だめに包丁を構えたその人物は、梓の横原にその刃を突き刺したまま凄惨な笑顔を浮かべた。


 息が詰まり、視界が白くなる。

 手を伸ばす。届かない。

 指先が血の匂いを掴んだ。


 その向こう、霧の中に立つ人影。

 制服の裾、濡れた髪。

 梓はその顔を見た。


 あ……ゆみ……ちゃん?


 唇が動いたが、声にはならなかった。


 刃が抜ける音がした。

 血が一筋、霧の白に溶けていく。


 清一の祈りが止まる。

 清音が振り返り、目を大きく見開く。

 全てがスローモーションに動く中、梓はゆっくりと意識を手放した。


 ――ただ霧が、少しだけ赤く染まっていく。

 月が雲に隠れた。


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