虚木(下)-選択-
吉川が眼鏡を直す。
問い正したいことはある。だが今の自分が切れる手札はあまりに少ない。
――自分の記憶が失われていない、これは今の吉川の持つ最強の手札だった。まだ伏せておきたい。今開くべきではない。しかし、問いたださずにはいられない。吉川が口を開きかけたその時、梓が一歩前に踏み出した。
「……それじゃ、佐藤さんたちのご家族に起こったことは? あれは犯罪でしょう! あんなの、酷すぎるっ!」
清一は視線だけを井戸に戻した。闇は何も返さない。
「外の血を混ぜるんは、形を保つためじゃ。祈りの型は古から決まっとるが、血は古るうなる。外を入れて、新しゅう澱を砕く」
吉川が思わず一歩前に出る。彼には聞かなければならないことがあった。たとえ手札が失われるとしても。
「佐藤家の人々は最初から生け贄、だったと? 沙織さんと俊夫さんは無事なのか!?」
「大切な新しい血じゃ。勿論無事じゃっけん、心配いらん。最初から、と問われればそうじゃな。じゃから掟についても教えなんだ……ほう、先生はあの記憶かあるんじゃな? これは驚いたことじゃって」
吉川は思わず、叫ぶように声を上げていた。あげずにはいられなかった。
「あなたは、人間をなんだと思っているんですかっ!」
純粋な怒り。腹の中から湧き上がるように怒りが恐怖も何もかもを忘れさせる。
「人間……? 村ん衆のことか、それとも外の衆のことかのう」
「どちらも同じでしょう。命です」
「そうじゃな。どちらも大切じゃ。じゃが――神を鎮めるためには、贄が要るんじゃ」
吉川は息を呑んだ。
その静かな口調が、怒号よりも残酷に響く。
「あんたは医者じゃろう。ならわかるはずじゃ。菌も、熱も、体の中で均し続ければ生きられる。この村の掟も、そういうもんじゃ。祈りも笑顔も、律動を保つための調律よ」
霧が揺れ、井戸の奥で水音がひとつ弾けた。
「夜道の真ん中を歩け。笑顔は三度。それを怠れば、にくゑ様の脈が乱れる。村はのう、神の胎の中にあるんじゃ。わしらが均しておらんと、すぐ外へ溢れる」
「……それが、あなたたちの信仰の理屈か」
「信仰ではない。封印じゃ。言うたじゃろう? この村全体が“蓋”なんじゃよ、先生」
吉川は口を閉ざした。
霧の向こうで、山の下の集落がかすかに光る。
そこには電話も、電波も届かない。
あの沈黙もまた、封印の一部だった。
「通信も……遮断しているのか」
「当然じゃ。声も音も、にくゑ様を伝える。電波を引けば、あれの“脈”が外まで流れてしまう。じゃから、沈黙が要る。この山が喋らんように、わしらは聞かんように生きとる」
「なら、村長邸の電話は? あれだけは何故繋がっている」
「最後の臍の緒じゃ。外と繋がる一本きりの線。にくゑ様が暴れ出したら、わしが真っ先にそれを断つ。線を切れば、神経も閉じる。村は胎内に戻る。そうやって、何十年も保ってきた」
清一は井戸の縁に手を置いた。
ひび割れた掌に、月が滲む。
「……そんな封印、いつまでも保てるものじゃない」
「保たせとる。政府の方々がな」
吉川が顔を上げた。
「政府……?」
「江戸の昔から上ん方は知っとるんじゃ。この村が防波堤じゃと。前の戦の頃にな、厚生省の連中が来たそうじゃ。調べて、怖がって、黙って帰った。そのあとで村から駐在所をなくした。役所もこの村の者にしてな。この沈黙は、国の施策じゃけぇ」
「……あなたたちを利用しているのか」
「黙認じゃよ。放っとくのが一番安全じゃからな」
吉川も読んだ事がある、この村への移住プログラム。あれはそう言うことなのか。確かに行政機関が関わっていないと成立しない。
吉川は拳を握った。
懐中灯の光が霧に溶ける。
清一の顔が見えた――笑っていた。
だがその笑みは、悲しみに近かった。
「先生、にくゑ様は生きとる。肉も、声も、想いも、全部つなげて広がる。わしらはそれを内に閉じておるだけじゃ。じゃが、もし記録が外に出たらどうなると思う?」
吉川は言葉を失う。清一の言葉は恐ろしい可能性を告げていた。
その様子を見て一つ頷き、清一は言葉を続ける。
「書くことも、語ることも、祈ることも。それはみな、伝える行為じゃ。伝えれば、にくゑ様は息を吹き返す。……神は、伝播するんじゃ」
その瞬間、井戸の奥から水音が響いた。
ぼこり、と泡がひとつ破裂し、また甘い鉄の匂いが漂う。
梓の肩がわずかに動いた。清一は見ない。風の音だけを聞く。
吉川が短く息を吸った気配がした。清一は構わず続けた。
「巫女は媒じゃ。村と神の間を繋いで、祈りの通廊を保つ。清音はそれをよう務めとる。……佐藤の沙織は違う。あれは外から来た嫁で、役目は新しい血を入れることじゃ」
清音のまぶたが震えた。焚き火の赤が、その影を濃くする。
「それでは、佐藤さんたちは最初から生け贄としてこの村にやってきたと?」
「じゃから掟も教えんかった。古い血はだんだんと淀んでゆくけんのぉ」
その言葉を聞いた梓は、両手を前に組み合わせ、祈るように叫んだ。
「そんな! そんなの酷すぎるっ!」
清一はそこで初めて梓をまともに見た。月明かりが梓の頬を半分だけ白くする。
「じゃが必要なことじゃ。そうせんと村が、いやこん世界全てが滅ぶ」
梓は何も言わなかった。清音が一歩、梓の前へ出た。声は低いが、はっきりしていた。
「……私たちは、蓋。にくゑ様から世界を守っているの。誰かがやらなければいけないことなの」
清一は目を細めた。その気配がわずかに強くなる。
「梓。お前は弓子の娘じゃ。虚木の血筋じゃと聞いておる。お前なら、儂らの大きな力になれる。じゃから全てを明かした」
洞窟の奥で、水の音がひとつ落ちた。清一は祈祷書をひらき、指で紙の端を押さえた。湿りが重く移る。
「……先生は、もう全て忘れるがええ。あんたはこの村には必要な人じゃ。子供たちはまだ不完全じゃけぇのぉ」
言うと清一は清音に目をやる。
「……忘れて」
清音の言葉と同時に、吉川の身体は崩れ落ちる。だが、それは前とは違っていた。吉川は自ら地面に倒れ込んでいた。左腕がじくじくと疼く。胸の中には千鶴の最後の姿が映っている。自分を支配しようとする別の意思に、吉川は抗い続ける。
「――さて、これで全ては話したはずじゃ」
言って、清一は口を閉じた。霧はまた、火の上で形を変える。誰も動かないまま、夜が少しだけ深くなった。
清一は梓に視線を向けた。
その目に情はなかった。ただ、決まりを告げる者の目だった。
「梓。……お前は外の血じゃが、力がある。ここに残るか、それとも外のまま消えるか。――どっちを選ぶ?」
風の音が止んだ。
霧の白さだけが、世界の輪郭を残していた。
清一の問いは、夜そのもののように重かった。
梓は口を開けなかった。
喉が焼けついて、声が出ない。
清音が小さく首を振った。その指先が微かに震えている。
目の奥に、泣きたいような、笑いたいような光が揺れた。
この人を救うために、ここまで来た。
それなのに、救うということが何を意味するのか、いまや分からない。
村を滅ぼしてでも助けたいと願ったが、
清音の願いは、この村と共に生きることだった。
息を吸う。
霧の味がした。鉄と土と、少しの火の匂い。
胸の奥が冷たく痺れていく。
「……残ります」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
清一が頷く。月の光が、額の皺を深く照らした。
「よう言うた。これで均うた」
その声に、安堵はなかった。
ただ、形を整えた者の静けさだけがあった。
清音が梓の手を取った。
その手は冷たかったが、確かに生きていた。
「……ありがとう」
そう言った唇が、震えていた。
梓は小さく笑った。
涙が滲んだ。
三度、笑え――そう教わったとおりに。
最初の笑いは震え、二度目で声が漏れ、三度目で息が詰まった。
その瞬間、霧がざわめいた。
どこかで枝が折れるような音がした。
月の明かりの届かぬ奥、祠の陰で何かが動いた気がした。
けれど誰も振り返らなかった。
清一が祈りを掲げ、声を上げた。
低い節が、井戸の底へ沈んでいく。
清音もそれに続く。
祈りの響きが重なり、世界の形が少しずつ変わっていくようだった。
梓は目を閉じた。
祈りの声が波のように押し寄せ、霧が脈を打っている。
清一の詠唱が低く、地の奥へ潜り、
清音の声がその上に重なっていく。
世界が一つの音になり、井戸が静かに応える。
森の奥で何かが動いた。
けれど誰も気づかない。
清音は目を閉じ、清一は祈りを続けている。
梓の唇が、かすかに開いた。
「……これで、いいんだね」
その声が霧に溶ける瞬間だった。
背後で、石を踏む音がした。
軽い、けれど確かな音。
誰かが、近づいてくる。
梓が振り向くより早く、
空気が裂けた。
「――え!?」
固く、冷たいものが腹の奥に入ってくるのがわかる。皮膚を裂き、肉をえぐり、腹の奥に――。
腰だめに包丁を構えたその人物は、梓の横原にその刃を突き刺したまま凄惨な笑顔を浮かべた。
息が詰まり、視界が白くなる。
手を伸ばす。届かない。
指先が血の匂いを掴んだ。
その向こう、霧の中に立つ人影。
制服の裾、濡れた髪。
梓はその顔を見た。
あ……ゆみ……ちゃん?
唇が動いたが、声にはならなかった。
刃が抜ける音がした。
血が一筋、霧の白に溶けていく。
清一の祈りが止まる。
清音が振り返り、目を大きく見開く。
全てがスローモーションに動く中、梓はゆっくりと意識を手放した。
――ただ霧が、少しだけ赤く染まっていく。
月が雲に隠れた。




