悲劇
診療所の白い天井がぼんやりと視界に映っていた。
薬草と消毒薬の匂いが鼻をくすぐる。廃屋の煤と湿気に満ちた空気とは違う、清潔で穏やかな匂い。
戸をくぐると、すぐに小さな土間があり、そこで靴を脱いで上がるようになっていた。以前もここに来たことがあるはずなのに、そのときは気が動転していて、ほとんど目に入らなかった。暗い廃屋から連れ出されたばかりの沙織には、その当たり前の所作だけで胸が震えた。自分たちはもう牢獄の中ではなく、人の暮らす場所に入ったのだ――そう思えたからだ。
上がり框を踏むと、そこは六畳ほどの待合室。
壁際に古びた長椅子が二つ並び、低い机の上には色あせた雑誌や子供向けの絵本が積まれている。
薬草と消毒薬の匂いが、煤と血の臭いに覆われていた鼻腔をじんわりと洗っていく。
正面の引き戸を開ければ診察室があり、木机と診療台が置かれ、窓際には乾燥させた薬草や薬瓶が整然と並んでいる。そのさらに奥には小さな倉庫が続き、薬品や器具がびっしりと詰め込まれているようだった。
待合室の脇からは細い廊下が伸びており、その奥に三台のベッドを並べた入院部屋がある。白布がかすかな灯りを反射し、静けさの中でひどく頼りなく浮かんで見えた。村人が長く寝泊まりできるように整えられた部屋なのだろうが、今はひどく心細く映る。
さらに廊下を進むと、吉川先生の住まいに続くらしい。居間兼寝室があり、裏口からは薬草畑に出られると聞いた。沙織はまだ足を踏み入れたことはなかったが、そこに灯る生活の匂いを想像して、胸の奥にかすかな温もりを覚えた。
◆
診療室で横になっている俊夫を見ながら、沙織は毛布に包まれた陽一を抱きしめ、ようやく息をついた。
腕の中で、息子の小さな体温が規則正しく脈打っている。その温もりを確かめるたび、胸の奥に安堵が広がる。
――助かった。本当に、助かったのね。
吉川先生は手際よく俊夫の処置を続けていた。包帯を巻き直し、脈を取り、体温を確かめる。その一つ一つの動作が、まるで儀式のように丁寧で確実だった。
「呼吸は安定しています。今は安静にさせましょう」
吉川先生の声は落ち着いていて、それだけで心が落ち着いた。
俊夫は診療台に横たわり、荒い息を繰り返している。顔色は悪く、汗が額を濡らしているが、それでも生きている。生きているだけで、今はそれでいい。
「沙織さん、とりあえず、俊夫さんはこのままで。随分と消耗しているようなので、そっとしておきましょう」
吉川先生の言葉に、沙織は小さく頷いた。
消耗している、それは確かにそうだろう。しばらくは安静にしておかないと。
その時、待合室の方から優しい声が聞こえた。
「お疲れでしょう。こちらで少し横になってください」
振り返ると、柔らかな笑みを浮かべた女性が立っていた。吉川先生の手伝いをしているという千鶴さんだ。
沙織たちが診療所に着いた時にも、暖かく出迎えてくれた。どうやら吉川先生が深夜外出から帰るのを待っていたらしい。
「そうですね、俊夫さんは私が見ているので、皆さんは身体を休めてください。梓さんも」
「はい」
梓は答え、陽一の手を引いて千鶴の後に続く。
待合室から廊下を歩き、奥の扉を開けるとそこは吉川先生のプライベートエリアのようだった。
小さな台所と、ちゃぶ台。奥には書架とベッドがある八畳ほどの部屋だ。この村には珍しく、フローリングの床にカーペットが敷いてある。
沙織も招かれるままに、移動し、温かい湯呑みを両手で受け取り、沙織の隣に腰を下ろす。
「大変でしたね……。でも、もう大丈夫ですよ」
その声に、張り詰めていた糸が切れた。
涙が溢れそうになるのを堪え、沙織は湯呑みを受け取った。
「これ、使ってもいいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
ベッドの脇にたたまれた毛布を見つけた梓が千鶴に問いかけ、了承を得ると、その毛布をそっと広げて陽一の肩にかけた。まだ小さな体は震えていて、布越しに伝わる熱が頼りなげに感じられる。
「大丈夫。もう安全だから」
その優しい声に、陽一が小さく瞬きをした。怯えきった表情の中に、わずかな安堵が宿る。
「ありがとう……本当に、ありがとうございます」
沙織は震える声で礼を言った。梓は静かに微笑み、小さく首を振る。
千鶴が沙織の背中をそっと撫でてくれた。
その手の温もりが、胸に染みる。
「少し休んだら、何か食べ物を用意しますね。陽一くんも、お腹空いたでしょう?」
千鶴の言葉に、陽一が小さく頷いた。
その仕草に、沙織の胸が温かくなる。
――ここにいれば、大丈夫。
そう思えた。
しばらくして、沙織の胸に吐き気が込み上げてきた。
急に胃の奥がむかむかし、冷や汗が額を濡らす。
手を口に当て、必死に堪える。
緊張が解けてほっとしたから、気分が悪くなったのかしら。
「佐藤さん? 顔色が悪いですよ」
「す、すみません……少し、気持ち悪くて……」
千鶴がすぐに気づいて、背中をさすってくれる、優しい人だと思いながら沙織は震える声で答えた。
千鶴は優しく微笑み、ふと何かに気づいたような表情を浮かべる。
「もしかしたら、沙織さんも先生に診て頂いた方が良いかも知れませんね。色々大変だったみたいですし」
微笑みながら千鶴が言葉を続ける。
「ストレスがたまると、体調崩しますよね。私も……」
そこで千鶴の言葉が止まった。
何かに気づいたような表情で、沙織の顔をじっと見つめる。
「……もしかして、失礼ですが、最後の生理はいつでしたか?」
唐突な質問に、沙織の手が止まった。
「え……?」
千鶴は少し申し訳なさそうに続ける。
「吐き気があって、でも熱はない。それに、少し顔つきが……念のため、確認だけでもしておいた方が」
そういえば最後に生理が来たのはいつだったかしら?
千鶴の言葉に、沙織は記憶を辿る。
そういえば――引っ越しの準備に追われていて、気にしていなかった。
「……来てない、かも……もう……二ヶ月くらい……」
呟いた瞬間、胸の奥に小さな鼓動が生まれた。
千鶴はすぐに立ち上がり、診察室に向かって歩いて行く。程なくして吉川先生がやってきた。
「お話は伺いました。診断薬がありますので、お使いください」
そういって吉川は小さな箱を手渡す。市販品の診断薬のようだった。礼を言って受け取ると、吉川は小さな笑みと共に指さした。
「どうぞ、お手洗いはあちらです」
薬を手渡され、沙織は診療所の厠に向かった。
指示書き通りの処置を行い、結果を待つ。
沙織の手が震える。
もしかして――本当に?
数分後、結果が出た。くっきり線がが浮かび上がっている。
吉川先生が沙織に幾つかの問診を行い、その身体に聴診器を当てる。
「私は産婦人科が専門ではありませんから、断言は出来ませんが、間違いなさそうです」
「それじゃ……」
「はい、おめでとうございます、佐藤さん。新しい命を授かられたんですね」
その言葉が胸に響いた瞬間、沙織の目から涙が溢れた。引っ越しで力仕事もして、特に気を遣っていなかったのに。この命は逞しく私の中で育ってくれていた。陽一の弟かしら? それとも妹? どちらでも良い。
「……本当に?」
「ええ。間違いないかと」
念を押すように問う沙織に、吉川先生の穏やかな笑みを浮かべる。その笑みに沙織の胸が熱くなってゆく。
千鶴が優しく肩を抱いてくれた。
「良かったですね。おめでとうございます」
その温もりに、涙が止まらなくなった。
――新しい命。
――私のお腹に、新しい命が。
隣の部屋で休んでいる俊夫に、すぐにでも伝えたかった。
陽一にも。
「陽一……陽一!」
沙織は息子を呼んだ。
陽一が毛布から顔を出し、不思議そうに母を見つめる。
「お母さん、どうしたの?」
「あのね……陽一に、弟か妹ができるのよ」
その言葉を聞いた瞬間、陽一の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと? 赤ちゃん?」
「ええ、本当よ」
沙織は息子を抱きしめた。
その小さな体が、愛おしくて仕方なかった。
「お父さんにも教えてあげなきゃ!」
陽一が嬉しそうに笑う。
輝くような笑顔だった。怖いことがいっぱいあったので嬉しさもひとしおだったのだろう。
吉川先生が静かに言う。
「俊夫さんには、少し落ち着いてから伝えましょう。今は体を休めることが優先です」
「はい……分かりました」
沙織は頷いた。
胸の奥に、小さな希望の灯が宿っている。
――新しい命。
――陽一の弟か妹。
――家族が、増える。
廃屋での恐怖も、村人たちの異様な行動も、今は遠い出来事のように思えた。
ここにいれば、きっと大丈夫。
沙織はそっとお腹に手を当てた。
まだ何も感じないけれど、確かにそこに命がある。
「ありがとう……本当に、ありがとうございます」
沙織は吉川先生と千鶴に、何度も頭を下げた。
千鶴が優しく微笑む。
「これから大変ですけど、頑張ってくださいね」
その言葉に、沙織は力強く頷いた。
――大丈夫。私たちは、きっと大丈夫。
胸の奥に、確かな希望が灯っていた。
◆
それから、しばらくの静寂が診療所を満たした。
千鶴が温かいスープを作ってくれて、陽一が美味しそうに飲んでいる。
梓も一緒に座り、穏やかな時間が流れていた。
沙織は扉を見つめていた。
この先の診療室で俊夫は眠っている。
早く、伝えたい。新しい命のことを。
その時――陽一が毛布をそっと押しのけた。
「陽一?」
沙織が声をかけると、息子もまた扉をじっと見つめている。
「……おとうさんに、教えてあげたい」
陽一がぽつりと呟いた。俊夫は診察室のベッドに寝かされている。今は吉川先生の私室でひと息ついていたが、息子は落ち着かず、廊下の先を何度も見ている。
「赤ちゃんのこと、教えてあげたいんだ」
その純粋な想いに、沙織の胸が揺れた。止めなければと思いながらも、夫と息子が喜びを分かち合う光景が脳裏に浮かぶ。
「……ほんの少しだけよ」
かすれ声でそう答えると、陽一はぱっと顔を輝かせた。小さな足で廊下を小走りに進む。その後を、沙織も、梓も、千鶴も慌ただしく追いかける。
診察室の前にたどり着いたとき、陽一は振り返って母に笑った。
「お父さんっ、聞いてっ!」
そして扉に手をかけ――。
扉が開いた。
隙間から漏れる薄暗い光。その向こうに、俊夫の影が見える。
陽一が中へ入る。扉が半開きのまま、止まった。
「おとうさん……?」
小さな声が部屋に響く。
「お母さんね、赤ちゃんができたんだって! 弟か妹ができるんだよ!」
陽一の嬉しそうな声が、診療所に響いた。
沙織の胸が温かくなる。
きっと俊夫も、喜んでくれる――。
その時だった。
部屋の中から、低い唸り声が聞こえた。
それは人間の声ではなかった。
獣の――いや、それ以外のもっと悍ましい何かの唸り声。
「……おとうさん?」
陽一の声が震える。
沙織の心臓が跳ね上がった。
「陽一、出てきなさい! 今すぐ――」
甲高い悲鳴が響いた。短く、鋭く、喉を引き裂かれるような絶叫。
沙織の心臓が止まった。
「陽一っ!!」
診察室の戸を乱暴に開いた。
――そこにあったのは、地獄だった。
床の上に小さな体が倒れ、その上に俊夫が覆いかぶさっている。
陽一の喉笛に齧り付いた口が、肉を食んだまま真上に持ち上がる。ブチブチと筋肉と血管が千切れる音が鳴り響くと同時に血潮が弾け、鉄の匂いが一気に吹き出した。
「俊夫さん……?」
沙織の声は震えていた。
振り返った夫の口元は真っ赤に濡れ、歯の隙間から肉片が覗いていた。その目は血走り、理性の光はもうない。飢えた獣の赤い瞳が、沙織を見据えている。
「あなた……俊夫さん……何を……何をしているの?」
言葉が喉で絡まる。涙がにじむ。
「俊夫さん、これは陽一よ……あなたの子どもなのよ……!」
赤黒い飛沫が床を叩き、生臭い血の匂いが一気に吹き出す。
視界に飛び込んできたのは、小さな体が床に倒れ、その上に覆いかぶさる俊夫の姿だった。
――いや、俊夫だったもの。
血に濡れた口元が大きく開き、白い歯が骨を噛み砕く。
肉を引き裂く湿った音が室内に充満し、飛び散った赤が壁と天井にまで飛沫を残していた。
俊夫の目は血走り、赤い光を宿している。理性のかけらもなく、ただ飢えた獣のように動いていた。
小さな手が力なく震え、次の瞬間、ぶつりと音を立てて動きを失った。
夫の顎が大きく開き、骨を噛み砕く音が響く。
湿った咀嚼音と、骨が裂ける乾いた音が混じり合い、沙織の耳を打ち据えた。
「やめてっ! やめてえええっ!! 返して、陽一を返してっ!!」
沙織は駆け寄り、夫の肩に縋りつこうとした。
だが、俊夫はまるで聞いていない。息子を抱きしめる代わりに、その体を貪り続けていた。
「どうして……あなた……陽一を抱いてあげて……陽一は、あなたのことが大好きなのよ……!」
涙で顔が濡れる。
床に広がった血が沙織の手を染め、爪の間にまで入り込む。
「俊夫さん……お願い……思い出して……!」
夫の頬に手を伸ばした。
しかし俊夫は、血に濡れた顔を沙織に向け、赤い瞳で睨みつけただけだった。
その目には、もう愛も記憶もなかった。
「……いやぁぁぁぁっ!!」
沙織の絶叫が診療所に響き渡る。
小さな手が力なく痙攣し、次の瞬間、ぶつりと音を立てて動きを失った。
床に濃い血が滲み広がり、甘ったるい鉄臭さが喉を焼く。
俊夫はなおも咀嚼を続けていた。
骨が砕ける乾いた音、舌で肉を啜る音が重なり、沙織の耳を容赦なく打ち据える。
それは人の食事ではなかった。生きながら肉親を喰らう、絶対にあってはならない光景。
「陽一……陽一っ……!」
沙織は膝から崩れ落ち、床に手をついた。血が指の間に広がり、爪の先まで染み込んでいく。
涙が視界を歪めるが、音も匂いも消えてはくれない。
――夫が息子を食らう音。
そのすべてが、沙織の正気を容赦なく削り取っていった。
「あ……ああ……」
声にならない声が漏れた。
その時――腹の奥で、何かが激しく動いた。
鋭い痛み。まるで内側から蹴られるような衝撃。
お腹を押さえる。もう一度、強く。
――この子。
腹の中の子が、暴れている。
拒絶するように。怒るように。
「この子……この子は……」
沙織の声が震えた。
腹の中で、また激しく動く。
普通じゃない。
この子は、普通じゃない。
恐怖が背筋を這い上がる。
だが同時に――これだけが残された、唯一のもの。
さっきまで喜んでいた新しい命。
でも今は――この子だけが、残されたすべて。
「陽一……陽一……」
沙織の声は嗚咽に変わった。
涙が頬を伝い、床に落ちる。
俊夫が――いや、それは俊夫だったものが――立ち上がった。
そして、沙織へ向かって歩き出した。
沙織は動けなかった。
恐怖で体が凍りついている。
俊夫の手が伸びる。
爪が鋭く、血に濡れている。
吉川先生が前に出ようとするが、間に合わない。
「――止まりなさい」
冷たい声が響いた。
次の瞬間、白い影が俊夫の前に立ちはだかった。
清音。
巫女服の少女が、静かに立っている。
その瞳は氷のように冷たく、そして――悲しげだった。
「あなたはもう、人ではありません」
清音の声に、俊夫の動きが止まった。
だが次の瞬間、再び襲いかかろうとする。
清音の手が、俊夫の額に触れた。
「眠りなさい」
その瞬間――俊夫の体が崩れ落ちた。
糸が切れたように、床に倒れ込む。その血まみれの身体は、ゆっくりと呼吸をしながら動かなくなった。
「これで供物は完成した」
供物? 俊夫が? 一体、何を――。
巫女が何かを口にすると、吉川先生たちが崩れ落ちた。
何もかもが急で、目眩がする。
「あ……ああ……」
沙織は目を見開いた。
息が、できない。
喉が、詰まる。
陽一。
俊夫。
赤ちゃん。
言葉が、繋がらない。
村人たちが、診療所へ踏み込んできた。
「おったぞ! 佐藤の嫁がおる!」
「にくゑ様の供物が逃げおったんじゃ!」
男たちの声が響く。
沙織を囲むように、村人が集まってきた。
「この女を連れて行け。祭りに間に合わせんと」
誰かが言った。
腕を掴まれる。引きずられる。
「やめて……やめて……陽一……陽一……」
「あ」
声が漏れた。
「ああ」
もう一度。
「あははっ」
笑いが零れた。なぜ笑っているのか分からない。
涙が頬を伝う。止まらない。
「陽一」
呼んでみる。
「陽一?」
返事はない。
「陽一っ!」
叫ぶ。喉が裂けそうなのに、声は掠れて小さい。
床に、小さな手。
動かない手。
さっきまで温かかった手。
「ねえ、陽一」
沙織は這いつくばった。膝が血に濡れる。
「起きて。お母さんね、赤ちゃんできたの。弟か妹よ。嬉しいでしょ?」
小さな手に触れる。
冷たい。
「ねえ、陽一?」
揺さぶる。動かない。
「起きてってば」
笑みが浮かぶ。涙が止まらない。
「起きてよぉ」
声が裏返る。
「あははは、ねえ、赤ちゃんできたのよ? 家族、増えるのよ? 四人になるの。四人で――」
視界が揺れる。
――違う。
脳の奥で、何かが囁く。
――四人じゃない。
「……二人?」
呟く。
陽一がいない。
俊夫がいない。
「二人……あはは、二人? 私と、赤ちゃんで、二人?」
お腹を押さえる。
また、激しく動いた。
痛い。
「痛いっ……何、この子……何なの……」
胎児が暴れる。拒絶するように。
「やめて……やめてよ……」
お腹を叩く。
「静かにして! 静かにしてよ!」
また叩く。
その時――外から足音。
沙織の頭が上がらない。
誰が来たのかも、分からない。
「さぁ、祭りの準備じゃ!」
誰かの声。遠い。
「陽一……」
沙織は床の血を撫でた。
「陽一、どこ……どこ行ったの……」
腕を掴まれる。
引きずられる。
「やだ、やだっ、陽一っ、陽一置いてけないっ」
抵抗する。爪を立てる。
「離して! 陽一が、陽一がっ――」
笑いが込み上げる。
「あははは、陽一ね、お父さんにね、赤ちゃんのこと教えに行ったの。良い子でしょ? 優しい子でしょ?」
涙が溢れる。
「なのに、なのにっ――」
声が途切れる。
「返してよ……返してよぉ……」
嗚咽が漏れる。
「陽一……お母さん、赤ちゃんできたのよ……一緒に、喜んでくれるはずだったのに……」
引きずられながら、沙織の手が床を掻く。
「やだ、やだやだやだっ、陽一、陽一っ」
爪が剥がれる。血が滲む。
「赤ちゃん……できたのに……家族、増えるはずだったのに……」
声が笑いに変わる。
「あはは、あははは、増えるはずが、減ったの。四人が二人。あははは――」
診療所の扉を出た瞬間、夜の冷気が頬を打った。
月が、明るい。
星が、綺麗。
「わあ……綺麗ね、陽一」
沙織は引きずられながら、空を見上げた。
「見て、お月様。陽一、お月様好きだったわよね」
笑みが浮かぶ。
「ねえ、陽一。今日ね、良いことがあったの」
村人の手が腕を掴んでいる。痛い。
でも、沙織にはもう分からなかった。
「赤ちゃんができたのよ。嬉しいでしょ? 陽一、お兄ちゃんになるのよ」
引きずられる足が石に躓く。
転びそうになるが、腕を掴まれたまま引っ張られる。
「痛い……でも、大丈夫。赤ちゃん、守らなきゃ」
お腹を押さえる。
また、蹴られた。
「あははっ、元気ね。元気な子。良い子ね」
涙が零れる。
「陽一も元気だった。いつも笑ってた。優しい子だった」
過去形。
――あれ?
「陽一……どこ……?」
振り返ろうとする。
腕を強く引かれて、前を向かされる。
「陽一っ! 陽一、どこっ!」
叫ぶ。
「お母さん、先に行くから、後で来てね! 赤ちゃんのこと、一緒に喜ぼうね!」
笑顔で呼びかける。
村人が何か言っている。
聞こえない。
「陽一は良い子だから、すぐ来るわ。ね、すぐ来る。だって良い子だもの」
呟きながら歩く。
足が地面を踏んでいる感覚がない。
「四人家族。楽しみね。東京よりずっと良いわ。ここでなら、みんな幸せになれる」
笑う。
「幸せに、なれる、なれる、なれる――」
同じ言葉を繰り返す。
松明の灯りが揺れている。
村人の顔が、笑っている。
――なんで笑ってるの?
「おかしいわね。何がおかしいの?」
沙織も笑った。
「あははは、あはははは」
笑いが止まらない。
「陽一、お母さん笑ってるわよ。久しぶりでしょ? 東京ではずっと泣いてたものね」
涙が止まらない。
「でも、もう大丈夫。ここでなら幸せになれるって、村長さんが言ってたもの」
足が前に進む。
どこへ行くのか、分からない。
「ねえ、陽一。赤ちゃん、男の子かな、女の子かな」
お腹を撫でる。
蹴られる。
「痛いっ――」
顔が歪む。
「やめて、痛い、痛いってば――」
お腹を叩く。
「この子、おかしい。この子、何か、おかしい――」
恐怖が這い上がる。
でも、すぐに忘れた。
「陽一、今日のご飯何が良い? お母さん、何でも作るわよ」
笑顔で呟く。
「俊夫も帰ってくるわね。四人で食べましょう。楽しみね」
視界が滲む。
誰かの声が聞こえる。
何を言っているのか、分からない。
「にくゑ様に――」
「供物――」
「祭り――」
言葉の断片だけが耳に入る。
「祭り? 楽しそうね。陽一、お祭り好きだものね」
沙織は笑った。
「浴衣、着せてあげなきゃ。可愛い柄の、買ってあげるわ」
足が止まった。
目の前に、何かがある。
古井戸。
黒い穴が、ぽっかりと口を開けている。
「……綺麗」
沙織は呟いた。
「深いのね。底が見えない」
井戸の縁に、手を置く。
冷たい。
「陽一、ここから覗いたら、お星様が見えるかしら」
笑みを浮かべる。
「一緒に見ましょうね。四人で――」
また、間違えた。
「……二人で」
お腹を撫でる。
「私と、この子で」
胎児が、蹴る。
「あははは、元気ね。良い子ね」
涙が零れる。
「陽一も、元気だった」
過去形。
「俊夫も、元気だった」
過去形。
「みんな、元気だった」
笑う。
「でも、もういない」
笑顔のまま、呟く。
「誰も、いない」
井戸の闇が、見つめている。
「ねえ、陽一。お母さん、疲れちゃった」
井戸に手をかける。
「少しだけ、休んでもいい?」
村人の手が、背中を押す。
いや――押されたような気がした。
でも、沙織にはもう分からなかった。
「あははは――」
笑い声が、夜に響いた。
その声は、途中で途切れた。
沙織の声は嗚咽に変わり、やがて狂ったような笑いに変わった。
「あははっ……陽一……返して……返してよぉ……!」
「赤ちゃん……できたのに……家族、増えるはずだったのにぃ……!」
悲痛な叫びを残し、村人たちが沙織を引きずっていく。
その背中を、清音が静かに見送っていた。




