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廃屋から

 湿った畳の冷たさが、薄い部屋着越しに沙織の肌へ這い上がってくる。背に抱えた陽一の体温だけが、かろうじて自分を人間の世界につなぎ止めていた。


 俊夫は柱に縛り付けられたまま、荒い息を吐いている。時折、喉の奥で呻くような声をあげ、そのたびに縄がぎしりと鳴った。目の焦点は合っていない。夫はもう自分を見ていない。沙織はその現実から目を逸らした。


 固く結ばれた縄を、何度も解こうとしたが女の力では歯が立たず、沙織は陽一を抱きしめながら、俊夫の傍らで震えていることしかできなかった。


 暗い。煤の匂いと湿気が重なり、息をするたび胸が痛む。窓も戸も閉ざされ、ここが牢であることを嫌というほど思い知らされる。


 廃屋の外に、時折人の気配がする。きっと見張られているのだろう。気配がなくなる時もあるとはいえ、俊夫を置いてここから出ることも出来ない。


 ――逃げられない。

 頭の奥で、その言葉が何度も反響した。


 陽一が小さく身じろぎした。泣き声を必死で抑えているのか、喉がかすかに震えている。母親の腕に縋りながら、熱い吐息が頬にかかる。その健気さが、沙織の胸を余計に締めつけた。


 夜は深く、聞こえてくるのは獣の鳴き声と、夜の虫の音。沙織は震えながら耳を澄ます。


 微かに人の声――外に気配があった。


 砂利を踏む音ではない。見張りの者の動きとも違う。もっと遠く、けれど確かに人の会話。息を呑む。耳を澄ませる。心臓が跳ねる。


 ……誰か。誰かが近づいてくる。


 頭の奥で、必死に理性が制止する。呼んではならない。ここは禁域。外から来る者もまた、同じように飲み込まれてしまう。そう分かっているのに――。


 陽一が震えた。小さな手が母の襟を掴み、おかあさん……とかすれた声を漏らす。その声が、理性の最後の糸を断ち切った。


「……助けてっ!」


 叫びは思ったより大きく、喉を焼くように迸った。闇に押し込められていた空気が一気に揺れ、戸の隙間に向かって迸る。


 その瞬間、沙織は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。希望と恐怖がないまぜになり、体の芯まで震えが走る。


 叫んだ声がまだ胸に残っているうちに、戸口の向こうで何かが動いた。

 息を呑む。畳をかすかに震わせる足音。外の空気がかすかに流れ込み、湿りきった部屋に違う匂いが混じる。


 次の瞬間、障子の隙間から白い光が差し込んだ。

 小さな四角の中に、懐中電灯の鋭い光が滑り込んできたのだ。

 闇に慣れた目が痛む。けれど、それは確かに外の世界の明かりだった。


「……っ」


 思わず息を飲む。喉が痛むほどの乾きのなかで、かすれ声が漏れた。障子がきしむ。ほんの少し、光の線が広がる。

 そこに立っていたのは、若い女の子と見覚えのある背の高い男だった。


 少女は髪を肩で揺らし、灯りを掲げてこちらを覗き込んでいる。あどけなさが残る顔は汗で濡れ、けれど真剣な眼差しがまっすぐにこちらを射抜いていた。

 その横には、白衣を羽織った男。村に来てから何度も顔を合わせた医師――吉川先生。


「ああ……」


 全身から力が抜けそうになった。

 この閉ざされた闇に、光を持って踏み込んできてくれる人がいる――それだけで、涙が溢れそうになる。

 陽一が怯えながらも顔を上げる。その小さな目に、灯りに照らされた少女の真剣な表情が映り込む。


 沙織の頬を、熱いものが伝った。

 絶望の底に差し込んだ光に、ようやく心が反応したのだ。

 障子が開き、光が差し込んだ。


「大丈夫ですか? どうしたんです?」


 少女――梓が声をかけてきた。あどけなさが残るその顔は、驚くほど必死で、涙のにじむ瞳がこちらを見つめている。


「ああ、あなたは……」


 沙織の喉が震えた。言葉を絞り出すだけで精一杯だった。


「お願い、助けてください……」


 声は嗚咽で途切れたが、それでも彼女は頷いた。

 その背後から吉川先生が現れ、穏やかだが力のこもった声で言った。


「佐藤さん! どうしてこんな所に……」

「吉川先生っ! ああ、良かった……」


 溢れる安堵に、思わず涙がにじんだ。

 吉川先生は表情を崩さず、落ち着いた声で続ける。


「何があったんですか? 落ち着いて、話してください」

「村の人たちに……松明の列で、連れて行かれたんです。主人の具合が悪くなって……ここに置かれて……」


 言葉をつなぐうちに、心臓の鼓動が早鐘のように響いた。

 梓はすぐに傍に寄り、陽一の肩にそっと触れた。


「大丈夫。もう、怖くないから」


 その声に、陽一が小さく瞬きをした。怯えきった表情の中で、わずかな安堵が揺れる。


 ――助かるかもしれない。

 沙織は胸の奥に、初めてその希望を抱いた。

 吉川先生は、すぐに俊夫のもとに歩み寄る。その手際は迷いなく、診療の動きそのものだった。指先が頸に触れ、脈を測る。


「呼吸は浅いですが安定しています。出血は外見上では酷くありません」


 その冷静な声に、胸の奥で張りつめていた糸がわずかに緩んだ。

 ――見捨てられてはいない。まだ助かる。

 そう思った途端、涙がまた込み上げる。


 裂ける布の音が狭い部屋に響いた。吉川先生が持参した布を裂き、手際よく包帯に仕立てていく。動きは淀みなく、まるでこの異様な場所が診療所であるかのように自然だった。

 その姿に、沙織は救いを見た。


 縄が解かれていくたび、俊夫の体がわずかに揺れる。痙攣の残る腕、擦れた皮膚、爪で裂かれた跡。見ているだけで胸が潰れそうになる。

 ――どうして、こんなことに。

 問いは喉に詰まり、声にはならなかった。


 俊夫は解き放たれると、膝をついて前のめりに倒れそうになった。

 吉川先生がすかさず支える。


「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」


 その言葉は、絶望の闇に灯った唯一の明かりだった。

 沙織は陽一を抱きしめる腕に力を込め、必死にうなずいた。


 梓がそっと手を差し伸べる。


「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」


 少女の声は震えていたが、それでも真っ直ぐで揺るぎがなかった。

 その小さな手を握り返した瞬間、沙織の胸にかすかな決意が宿る。


「……どうして……どうしてこんなことを……」


 嗚咽と共に零れた言葉に、梓はきっぱりと応えた。


「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」


 沙織は涙に滲む視界で少女を見上げた。若いのに、どうしてこんなに強いのか――その姿が眩しかった。

 陽一が彼女の腕の中で震えながら、小さく声を漏らす。


「……おとうさん、だいじょうぶ?」


 沙織は返事を詰まらせ、唇を噛む。言葉にできない思いが喉に溜まり、ただ震える手で息子の背を撫でた。


「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」


 やっと絞り出した声は掠れていた。けれど陽一は小さく頷き、再び母の胸に顔を埋めた。


 俊夫を支え、皆で廃屋を出ようとしたその時だった。

 外から砂利を踏む音が近づいてきた。規則的で重たい足取り。冷たい夜気とともに、松明の煙の匂いが戸の隙間から流れ込む。


 沙織の心臓が強く跳ねた。

 ――まだ見張りがいる。

 絶望がすぐ背後から追ってきた。


 障子の隙間に灯りを差し出した梓が、震える声を押し殺すように囁いた。

 

「誰か……来ます」


 やがて戸の前に影が立ちふさがった。

 障子越しに、低い声が響く。


「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」


 庄司――村の猟師だ。

 その声を聞いた瞬間、沙織の全身から血の気が引いた。夫を柱に縛りつけた男たちの中に、確かに彼がいたのを覚えている。

 吉川先生が静かに前に出た。


「庄司さんですか! 私です、吉川です!」

「おお、先生じゃったんか。こげなところで何を?」


 声は穏やかに見えて、奥に冷たい刃を含んでいる。

 沙織は陽一を抱き寄せ、戸口から一歩でも離れようとした。


「こちらの方々は負傷者です。治療が必要であり、今は手当を優先させていただきます」


 吉川先生の声は丁寧だが、決して退かなかった。

 しかし庄司は笑みを崩さず、吐き捨てるように言った。


「村の掟がそういうておらぬか。ここに置かれたのは、にくゑ様のためのことじゃ。あんたらが余計なことをすれば、事は済みはせん」


 沙織の腕の中で陽一が震え、指が母の着物をぎゅっと掴んだ。息子を守らねばという思いと、どうにもならぬ恐怖とが胸の奥でせめぎ合う。

 吉川先生は一歩も退かず、強い声を返す。


「診療所へ移します。手当を続けますが、ここで長居するわけにはいきません。穏便に移動させますので、危害は加えません」


 庄司の影がぴたりと止まった。次の瞬間、障子が大きく揺れ、銃口が月明かりに冷たく光った。


「置いてけ。すりゃ、先生までどうこうしようとは思わん」

「できませんっ!」

「――なら」


 猟銃が、吉川先生の胸に狙いを定めた。

 息を呑む。血の気が足の先まで引いていく。

 ――撃たれる。ここで終わる。


 その刹那、梓が飛び出した。


「やめて! やめてくださいっ! この人たち、怪我をしてるんですっ! 先生に診て貰わないとっ!」


 少女の叫びは夜を震わせた。

 次の瞬間、庄司の体から力が抜けた。銃口がふらつき、狙いが逸れる。

 膝を折り、銃が地面に落ちる音が響いた。


「はい……やめ……ます、けん……」


 庄司の声は途切れ、虚ろな瞳を残したまま前のめりに倒れ込んだ。


 沙織は目を見開いた。

 ――何が起きたの?

 梓の声に応じるように、男が崩れ落ちていった。まるで糸の切れた人形のように。


 胸の奥で恐怖と安堵が入り混じる。

 助かったはずなのに、今見た光景が理解できず、心が追いつかない。

 吉川先生が脈を確かめ、短く言った。


「意識を失っているだけです。外傷はありません。今は出ましょう」


 沙織は陽一を抱き締め、ただ頷いた。

 ――ここから連れ出さなければ。


 庄司の倒れ込む音がまだ耳に残っていた。けれど吉川先生の短い一言が、その場を動かした。

 「今は出ましょう」――その声だけが支えだった。


 闇の中を列になって歩き出す。俊夫は吉川先生の肩を借り、足を引きずるように進む。梓が灯りを掲げ、陽一を抱いた沙織の前を照らしてくれていた。


 夜の森は湿った匂いを濃くしていた。踏みしめる砂利の音さえ大きく響く。息を殺し、ひと足ごとに胸が詰まる。

 振り返れば、廃屋の黒い影がまだそこに沈んでいる。庄司が倒れたまま置かれている光景が脳裏をよぎり、寒気が背を走った。


 ――助かった。けれど、本当に助かったのだろうか。

 足を前へ運びながら、心は疑問と恐怖に揺れ続けた。


 やがて木々の隙間から、見覚えのある灯りが覗いた。

 診療所だ。窓越しに洩れる光が、夜気の中でぼんやりと揺れている。

 その瞬間、張り詰めていた息が一気に抜けた。涙が視界を曇らせ、陽一の体温を改めて腕に感じる。


「もう大丈夫……お父さんも先生もいるからね」


 自分に言い聞かせるように、息子の耳元で囁いた。

 陽一は小さく頷き、瞼を落とした。疲労で眠りかけているのか、呼吸が穏やかに上下している。


 診療所に入ると、ほのかな薬草と消毒薬の匂いが漂った。

 さっきまでの煤と湿気の臭気とは別世界だった。

 俊夫は寝台に横たえられ、吉川先生が手際よく処置を続けていく。包帯を巻き直し、呼吸を確かめ、体を温める。


 その一つ一つを見ているだけで、胸の奥が溶けていくようだった。

 ――これでようやく、落ち着ける。

 そう思った瞬間、張りつめていたものが切れて、体中の力が抜けた。


 梓がそばで陽一を毛布に包み、その顔を覗き込んでくれている。

 まだ震えは残っているが、その小さな体を抱く自分の腕に、ようやく温もりが戻ってきた。


 ――助かったんだ。本当に。


 沙織はそう自分に言い聞かせ、目を閉じた。

 だが胸の奥には、拭えぬざわめきが残っていた。

 廃屋で目にした梓の叫びと、その直後に崩れ落ちた庄司の姿。

 あの少女は一体……。


 不安を打ち消すように、陽一の背を撫でながら、沙織は小さく祈った。

 ――どうか、何事も起きませんように。


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