廃屋へ
洞窟から戻る道の途中、雑草に紛れているが脇に分岐する小道が見えていた。その先には、古井戸の黒い輪郭がぽっかりと浮かんでいた。月明かりがその縁を銀で縁取るたび、梓は胸の奥を小さく締めつけられるような感覚を覚えた。
「この先にある古井戸、少し気になりますね」
「……はい、井戸の先にも何かあるみたいです」
清音に言われた言葉が、ふと蘇る。──古井戸には近づくな、と。何かを守るための境界線のように、彼女の中でその言葉が折り重なっていた。
「調べてみたくもありますが……」
吉川の声を聞きながら、道の分かれ目を過ぎ、数歩進んだとき――夜の空気が一瞬、ざわついた。井戸の向こうから、切羽詰まった女性の声が鋭く響いた。
「助けてっ!」
その叫びが夜気を震わせ、梓の胸が凍る。声は一度で終わらず、嗚咽と短い断末魔のように続いた。懐中電灯の光を握る手に力が入る。清音の言葉が、不意に耳の裏から囁かれた。──古井戸に近づくな、と。梓はその戒めを思い出しながらも、足を止めることはできなかった。
梓は古井戸の方向に目を向けた。吉川も同じく、暗闇の奥を見据えている。
「先生、今のは!?」
「ええ、聞こえました。あの声には聞き覚えがあります」
二人は迷うことなく、分かれ道に向かって駆け出した。
古井戸を横目に過ぎると、その先の暗い森の中に小さな建物の影が浮かび上がる。黒ずんだ屋根が月光に浮き、社務所の跡を残す廃屋だった。障子の一隙間から、暗がりのなかで揺れる小さな影が見え、かすかな音が漏れている。短く、途切れる嗚咽。子どもの泣き声だった。
梓の足が無意識に速まる。胸の中で、祠の板に刻まれた文字列がまた揺れた。〈この子は、普通に生きて〉――その殴り書きが、眼前の泣き声と重なる。
障子越しに揺れる影がもう一度見え、梓は無意識に駆け寄ろうとする。吉川が静かに後を追い、彼女の肩に軽く触れて速度を抑えた。彼の目は夜の光に冷たく光り、しかし表情には確かな理性があった。
「落ち着いてください。様子を伺います」
吉川は低く言い、障子の隙間に懐中電灯を差し入れて中を覗き込む。光が畳に落ちた瞬間、そこに縛り付けられた人体の輪郭が浮かび上がった。男の体は柱に固定され、縄が何重にも巻かれている。筋が浮いた腕が痙攣し、唸り声が口から漏れていた。
吉川が低く囁いた。
「梓さん、静かに。まずは状況を確かめないと」
梓は小さく頷き、僅かな震えを押さえつつ障子を軽く引いた。戸が擦れる音が廃屋の内部に小さく響く。闇の向こうから、よりはっきりと泣き声と嗚咽が聞こえ、梓は胸が張り裂けそうになった。
扉を押し開けると、煤で薄暗い匂いが鼻を突いた。湿った畳の匂い、古い煤の匂い、そしてどこか焦げた金属の匂いが室内に渦巻いている。懐中電灯の光が部屋を照らすと、狭い空間の奥に柱へ縛り付けられた男の姿が浮かび上がった。縄で固く縛られ、筋肉が痙攣している。顔は糸を引くように歪み、唸り声が唇の間から漏れていた。その横には、女が子を抱きしめて座り込んでいる。衣擦れに震えが残り、子の顔は蒼白で、小さな手が母の紐にギュッと絡みついていた。
「あれは……佐藤さん?」
見覚えのある親子だった。つい最近村に移住してきた佐藤一家だ。子供は陽一くん、そして女性は沙織さん。では、柱に縛り付けられている男性は旦那さんだろうか?
初めて見かけた時、つい忠告めいたことを言ったことがある。結局あのイヤな予感は当たっていたということだったのだろうか、と梓は考える。
梓の視線は瞬時に場を貪るように巡ったが、同時に一点だけに戻ってきた。井戸の黒い縁、祠に刻まれた母の名、そして自分の手の内の冷たさ。救わねばならない、という思いが体を突き動かし、言葉を投げかけた。
「大丈夫ですか? どうしたんです?」
「ああ、あなたは……」
梓は沙織の顔を覗き込んだ。彼女の目は潤んでいるが、言葉を絞り出す力は残っている。沙織は短く首を振り、震える声で告げた。
「お願い、助けてください……」
「佐藤さん! どうしてこんな所に……」
吉川の声に、沙織がほっとしたような表情を浮かべた。
「吉川先生っ! ああ、良かった……」
「何があったんですか? 落ち着いて、話してください」
吉川が問いかけると、沙織は震える声で言葉を紡いだ。
「村の人たちに……松明の列で、連れて行かれたんです。主人の具合が悪くなって……ここに置かれて……」
言葉は途切れ途切れだったが、意味は十分に伝わった。梓は唇を噛み、吉川を見た。彼はすでに動き出していた。
吉川はためらいなく一歩前に出た。医師の動作は無駄がなく、梓の心はその機能美に一瞬安堵した。彼は柱に縛り付けられた俊夫の頸動脈に指を当て、脈を確かめる。表情には乱れがない。だが手は速い。
「呼吸は浅いですが安定しています。出血は外見上では酷くありません」
吉川は布を裂き、応急の包帯に仕立てる。裂ける布の音が微かに響き、埃が舞い上がる。彼は手際よく縄を緩め、固く縛られた縄目を一つずつ解いていった。俊夫がふらつき、膝をつく。顔色は悪く、言葉はまともに出ない。だが身体はまだ反応する。爪先が畳の繊維を掴み、歯を食いしばるような痙攣が走る。
梓はその傷跡を凝視する。縄に残された擦り傷、擦過した皮膚、爪の痕。祠の板の「間違ってる!」という殴り書きが、脳裏でざわめく。だが彼女は言葉にしなかった。今は救うことが優先だと足を進めた。




