にくゑ
板を写し終えたときだった。
洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。
――ふう、ふう……。
低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。
「……聞こえますか」
「はい」
吉川の声は押し殺されていた。
梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。
耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。
意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。
梓は母の日記の最後の一文を思い出した。
――「もう二度と戻らない」
背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。
「先生……ここから先は……」
吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。
「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」
梓は頭を振った。
「だめです……誰かが、見ている……」
その瞬間、背後から空気が揺れた。
暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。
――覗かれている。
囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。
二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。
囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。
滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。
いや、肉のように、ではない。
それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。
――ぐじゅ、ぐじゅ……。
甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。
梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。
「下がってください!」
声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。
白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。
同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。
ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。
「……これが……にくゑ……」
吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。
だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ。
「――っ!」
次の瞬間、肉の触手は、梓の身体に溶け込み、一体化してゆく。梓の身体が震え、瞳から光が失われていった。
「梓さんッ!」
吉川が抱き留めたとき、彼女の意識はすでに遠ざかっていた。
◆
――幻視。
梓の目の前に広がったのは、夜ではなかった。
そこは明るい野原。花が揺れ、子供たちの笑い声が響いている。
ここは、村だ。過去の、現在の村が全て重なり合っている。
多くの人々の気配を感じる。
見ると、亡くなった村人たちが微笑み合い、互いの手を取り合っていた。
争いも、誤解も、孤独もない。
皆が一つの大きな心の中で溶け合い、穏やかな幸せだけが満ちていた。
にくゑさま……わたしたちは、みなにくゑさまとひとつになる。にくしみも、うらぎりも、こどくもない、こうふくなせかい、えいえんのせかい……
村人たちの声が重なって聞こえる。
一つになる? あの悍ましい肉の塊と?
それが幸せ?
私は、一体何を見ているの?
疑問を浮かべつつ、其の光景を見守る梓の前に一人の女性が姿を現した。その女性は三十代半ばだろうか? 巫女服を纏い穏やかな光を湛えた目で梓を見ている。その女性に重なるように、何人もの巫女たちが姿を現し梓を見つめた。
――ああ、この人は最初の清音。この村で最初ににくゑの巫女を務めた方だ。そして歴代の清音たち。母がなるはずだった清音、にくゑの巫女たち。
何の理由もなく、はっきりと梓には理解できた。
――初代の清音が口を開いた。
(この世界は、私たちによって続いてきました。貴方もどうか、ここで共に……)
幾人もの清音が同じ言葉を重ねる。
(――どうか、貴方も)
梓の胸に熱いものが込み上げる。
このまま溶けて、皆と一つに。もう孤独ではない。ずっと一緒。暖かな感情が胸に満ちてゆく。
だがその温もりと同時に、冷たい拒絶が心臓を突き刺した。
「わからないっ! にくゑってなに!? 巫女って何? どうして皆忘れてしまうの? 掟って何? この村は一体なんなんなの?」
梓は叫ぶ。清音たちに向かって。
(巫女は蓋。人の世とにくゑの世を隔てる蓋。我々が人の世を守っているのです……)
初代の巫女の言葉は、しかし梓には響かなかった。
(ただし、蓋であり続けるには……代償が必要でした)
清音の声に、かすかな痛みが混じる。
(にくゑを抑え、人の世に溢れさせぬために。私たちは少しずつ、身体を捧げてきたのです。肉に侵され、やがて人でなくなる。それが巫女の定め……)
歴代の清音たちが、静かに頷いた。
その姿をよく見れば――彼女たちの身体の一部が、わずかに歪んでいる。肌が不自然に波打ち、指先が微かに融け合っている者もいた。
梓の背筋が凍りついた。
母は、こうなるはずだったのか。
少しずつ侵食されて、最後には――
(さぁ、貴方も我々と共に。清音の資格を持ち、清音ではない貴方)
巫女が手を差し出す。誘いは甘く、心も体も溶け落ちそうになる。
だが――母はここにはいない。
だから――私は……ここにはいられない。
「――イヤッ!」
それは明確な拒絶の意思。
その言葉を発した瞬間、視界が大きく揺れ、野原も笑顔も花も崩れ落ちていった。
◆
「梓さん……! しっかりしてください!」
必死の声が耳に届いた。瞼を開けると、吉川の顔がぼやけて浮かんでいる。腕の中に抱えられているのを知り、梓は瞬きした。
「……先生……私……」
「――よかった。意識が戻った」
必死の声が耳に届いた。瞼を開けると、吉川の顔がぼやけて浮かんでいる。腕の中に抱えられているのを知り、梓は瞬きした。まだ胸の奥に、さっき見た光景の残滓が疼いていた。
「……先生……私……」
「大丈夫です。怪我はありません。気を失っただけです」
吉川の声は理性的だったが、額に滲んだ汗が冷気の中で光っている。
「肉の触手が貴方の腕に融合していましたが、しばらくすると跳ねるように離れてゆきました」
吉川の言葉に腕を見る。触手が溶け込んでいた場所は、それが嘘のように綺麗な皮膚が見えていた。
「あれが……にくゑ……」
「ええ、触手が離れると同時に、全て壁の中に消えてゆきました。一体何があったんでしょうね」
梓は息を整え、震える声で言った。
「……きっとあれが、本体なんですね」
「ええ。あの触手、眼や口を持つ異形……生物の範疇を超えています。だが、確かに“つながって”いる。おそらく洞窟だけではなく、この村全体に……網のように」
吉川の言葉は冷静だが、その目の奥には恐怖が潜んでいた。
「……先生、村の外に出られたら……」
「ええ、伝えるべきです。ですが――」
吉川の言葉を受けて、梓はゆっくり首を振った。
「村は……にくゑは……きっと私たちを逃がしません」
その声は確信に満ちていた。
母の名を刻んだ板を見た今、梓には分かる。ここは血と掟で閉ざされた場所だと。
吉川は黙って梓を見つめ、やがて立ち上がらせた。
「……ならば、策を練る必要があります。ひとまず診療所へ戻りましょう」
梓は頷き、灯りを掲げ直した。
洞窟を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。闇は深いままだが、外の空気にはまだ人間の匂いがあった。
二人は互いの影を確かめ合いながら、山道を戻っていった。
背後の洞窟は、何事もなかったかのように静まり返っている。だがその奥で、甘ったるい匂いと囁きは、今も絶え間なく脈打っていた。




