表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/86

にくゑ

 板を写し終えたときだった。

 洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。


 ――ふう、ふう……。


 低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。


「……聞こえますか」

「はい」


 吉川の声は押し殺されていた。

 梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。


 耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。

 意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。


 梓は母の日記の最後の一文を思い出した。

 ――「もう二度と戻らない」

 背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。


「先生……ここから先は……」


 吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。


「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」


 梓は頭を振った。


「だめです……誰かが、見ている……」


 その瞬間、背後から空気が揺れた。

 暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。


 ――覗かれている。


 囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。

 二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。


 囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。

 滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。

 いや、肉のように、ではない。

 それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。


 ――ぐじゅ、ぐじゅ……。


 甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。

 梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。


「下がってください!」


 声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。

 白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。


 同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。

 ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。


「……これが……にくゑ……」


 吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。

 だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ。


「――っ!」


 次の瞬間、肉の触手は、梓の身体に溶け込み、一体化してゆく。梓の身体が震え、瞳から光が失われていった。


「梓さんッ!」


 吉川が抱き留めたとき、彼女の意識はすでに遠ざかっていた。



 ――幻視。


 梓の目の前に広がったのは、夜ではなかった。

 そこは明るい野原。花が揺れ、子供たちの笑い声が響いている。

 

 ここは、村だ。過去の、現在の村が全て重なり合っている。

 多くの人々の気配を感じる。

 見ると、亡くなった村人たちが微笑み合い、互いの手を取り合っていた。


 争いも、誤解も、孤独もない。

 皆が一つの大きな心の中で溶け合い、穏やかな幸せだけが満ちていた。


 にくゑさま……わたしたちは、みなにくゑさまとひとつになる。にくしみも、うらぎりも、こどくもない、こうふくなせかい、えいえんのせかい……


 村人たちの声が重なって聞こえる。

 一つになる? あの悍ましい肉の塊と?

 それが幸せ?


 私は、一体何を見ているの?

 疑問を浮かべつつ、其の光景を見守る梓の前に一人の女性が姿を現した。その女性は三十代半ばだろうか? 巫女服を纏い穏やかな光を湛えた目で梓を見ている。その女性に重なるように、何人もの巫女たちが姿を現し梓を見つめた。


 ――ああ、この人は最初の清音。この村で最初ににくゑの巫女を務めた方だ。そして歴代の清音たち。母がなるはずだった清音、にくゑの巫女たち。

 何の理由もなく、はっきりと梓には理解できた。


 ――初代の清音が口を開いた。


(この世界は、私たちによって続いてきました。貴方もどうか、ここで共に……)


 幾人もの清音が同じ言葉を重ねる。


(――どうか、貴方も)


 梓の胸に熱いものが込み上げる。

 このまま溶けて、皆と一つに。もう孤独ではない。ずっと一緒。暖かな感情が胸に満ちてゆく。


 だがその温もりと同時に、冷たい拒絶が心臓を突き刺した。


「わからないっ! にくゑってなに!? 巫女って何? どうして皆忘れてしまうの? 掟って何? この村は一体なんなんなの?」


 梓は叫ぶ。清音たちに向かって。


(巫女は蓋。人の世とにくゑの世を隔てる蓋。我々が人の世を守っているのです……)


 初代の巫女の言葉は、しかし梓には響かなかった。


(ただし、蓋であり続けるには……代償が必要でした)


 清音の声に、かすかな痛みが混じる。

(にくゑを抑え、人の世に溢れさせぬために。私たちは少しずつ、身体を捧げてきたのです。肉に侵され、やがて人でなくなる。それが巫女の定め……)


 歴代の清音たちが、静かに頷いた。

 その姿をよく見れば――彼女たちの身体の一部が、わずかに歪んでいる。肌が不自然に波打ち、指先が微かに融け合っている者もいた。


 梓の背筋が凍りついた。

 母は、こうなるはずだったのか。

 少しずつ侵食されて、最後には――


(さぁ、貴方も我々と共に。清音の資格を持ち、清音ではない貴方)


 巫女が手を差し出す。誘いは甘く、心も体も溶け落ちそうになる。

 だが――母はここにはいない。

 だから――私は……ここにはいられない。


「――イヤッ!」


 それは明確な拒絶の意思。

 その言葉を発した瞬間、視界が大きく揺れ、野原も笑顔も花も崩れ落ちていった。



「梓さん……! しっかりしてください!」


 必死の声が耳に届いた。瞼を開けると、吉川の顔がぼやけて浮かんでいる。腕の中に抱えられているのを知り、梓は瞬きした。


「……先生……私……」

「――よかった。意識が戻った」


 必死の声が耳に届いた。瞼を開けると、吉川の顔がぼやけて浮かんでいる。腕の中に抱えられているのを知り、梓は瞬きした。まだ胸の奥に、さっき見た光景の残滓が疼いていた。


「……先生……私……」

「大丈夫です。怪我はありません。気を失っただけです」


 吉川の声は理性的だったが、額に滲んだ汗が冷気の中で光っている。


「肉の触手が貴方の腕に融合していましたが、しばらくすると跳ねるように離れてゆきました」


 吉川の言葉に腕を見る。触手が溶け込んでいた場所は、それが嘘のように綺麗な皮膚が見えていた。


「あれが……にくゑ……」

「ええ、触手が離れると同時に、全て壁の中に消えてゆきました。一体何があったんでしょうね」


 梓は息を整え、震える声で言った。


「……きっとあれが、本体なんですね」

「ええ。あの触手、眼や口を持つ異形……生物の範疇を超えています。だが、確かに“つながって”いる。おそらく洞窟だけではなく、この村全体に……網のように」


 吉川の言葉は冷静だが、その目の奥には恐怖が潜んでいた。


「……先生、村の外に出られたら……」

「ええ、伝えるべきです。ですが――」


 吉川の言葉を受けて、梓はゆっくり首を振った。


「村は……にくゑは……きっと私たちを逃がしません」


 その声は確信に満ちていた。

 母の名を刻んだ板を見た今、梓には分かる。ここは血と掟で閉ざされた場所だと。

 吉川は黙って梓を見つめ、やがて立ち上がらせた。


「……ならば、策を練る必要があります。ひとまず診療所へ戻りましょう」


 梓は頷き、灯りを掲げ直した。

 洞窟を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。闇は深いままだが、外の空気にはまだ人間の匂いがあった。


 二人は互いの影を確かめ合いながら、山道を戻っていった。

 背後の洞窟は、何事もなかったかのように静まり返っている。だがその奥で、甘ったるい匂いと囁きは、今も絶え間なく脈打っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ