日記
村の夜道を歩きながら、梓はまだ唇に清音の温もりを感じていた。
初めての口づけ。
短く、けれど永遠のように長い時間。
清音の冷たい指先が頬に触れた瞬間、世界が変わったような気がした。
足取りは軽やか、というより地面に触れているのかどうかもよくわからない。頭の中は清音の面影でいっぱいで、家までの道のりも夢を見ているように過ぎていった。
玄関の戸を開けて、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、全てが特別に思える。清音が愛してくれている。私も清音を愛している。それだけで、この小さな家さえも輝いて見えた。
「ただいま……」
誰もいない部屋に声をかけて、梓はくすりと笑った。母がいた頃の癖が、まだ抜けない。でも今夜は寂しくなかった。胸の中に清音がいるから。
居間の電灯をつけて、梓は畳の上にごろりと横になった。
天井を見上げながら、さっきの出来事を反芻する。
清音の瞳の色。少し震えていた睫毛。唇が重なる瞬間の、あの静寂。
「はぁ……」
大きなため息が漏れる。幸せすぎて、どうしていいかわからない。
このまま天井を見つめていても眠れそうにない。梓は身を起こし、せめて布団を敷こうと押し入れに向かった。
でも、浮かれた足取りがいけなかった。
床の間の前を通りかかった時、畳の縁に足を取られてしまったのだ。
「わっ!」
バランスを崩し、床の間に手をついて体を支える。
その時、指先に違和感があった。
「あれ……?」
床板の一部が、わずかに浮いている。
普段なら気づかないほどの、ほんの小さなずれ。でも確かに、他の部分とは違っていた。
梓は首をかしげながら、その部分に指をかけた。すると、板がすっと持ち上がった。
「隠し……?」
床板の下に、小さな空間があった。
そこに、古い革表紙の手帳のようなものが何冊も入っている。
梓の胸に、嫌な予感が走った。
さっきまでの浮かれた気分が、急に冷めていく。
手を伸ばして、それを取り出す。重みがある。長い間、誰にも見られることなくそこに眠っていたのだろう。
表紙を見ると、かすれた文字で書かれていた。
――『弓子』
母の名前だった。
梓の手が震えた。
これは母の日記だ。東京に出る前の。
日記は全部で七冊。どれも表紙に数字が書かれている。
でも、どうしてこんなところに隠されていたのだろう。
一番下にあった手帳から、恐る恐るページを開く。
そこには、こどもの筆跡でびっしりと文字が記されていた。
『わたしは ここにいても いいのでしょうか』
最初の一行を読んだだけで、梓の血が凍りついた。
清音との口づけの余韻は、跡形もなく消えていた。
◆
震える手で、梓は革表紙を開いた。
乾いた紙の匂いが立ちのぼり、胸の奥を締めつける。インクの滲んだ筆跡は、確かに母のものだった。
しちがつみっか
わたしは ここにいても いいのでしょうか
なぜ、わたしにはとうさまもかあさまもいないのですか
でも、きょうは にいさまが てをにぎってくれました
うれしくて、ないてしまいました
おかみさんは こわいめで わたしをみます
でも おにいさまは わらってくれます
それだけがうれしいです
――文字を追う梓の頬を、涙がすっと伝った。母にも、こんな幼い孤独があったのか。
七月十五日
きのう、きよねさまから、ふしぎな話をききました。
このむらの人は、しんだらみんな、にくゑさまのなかへいって、
ずっとしあわせにくらせるのだそうです。
わたしは小間づかいだから、しんだらどうなるのだろう。
でも、にくゑさまはやさしい神さまだときいたので、
きっとわたしも、みんなと同じところにいけるのだと思いたいです。
けれど、この家には、わたしと血のつながった人はひとりもいません。
兄さまも、ほんとうは兄さまではありません。
だからこそ、みんなと同じ場所に行けると信じたいのです。
――梓は唇を噛んだ。母が語らなかった過去の重さが、紙の一行ごとに押し寄せてくる。何冊か飛ばして拾い読みをする。
九月二十日
おつとめは日に日にたいへんになります。
井戸の水を運び、畑の草を抜き、清音さまのお世話もします。
兄さまは「よう頑張っとる」と声をかけてくださいます。
その言葉だけで、胸が熱くなります。
けれど、奥さまはいつも冷たい目でわたしを見ています。
前の村長さまも、村の古い人たちも、わたしにだけよそよそしい。
どうしてでしょう。わたしはよそ者だからでしょうか。
「遠縁の娘」と言われても、心のどこかで居場所を失っていくようです。
――梓は、日記の最後の一冊を手に取った。そこにはこう書いてあった。
六月二日
今夜のことを、どうしても書かずにはいられません。
夕立に濡れて震えていたわたしを、兄さまが抱き寄せてくださったのです。
その温かさに縋ってしまい、わたしは……自ら一線を越えました。
小間づかいなのに。
罪だと知りながら、身体は兄さまを求めてしまいました。
嬉しくて、怖くて、死んでしまいたいほどに愛おしい。
八月十日
虚木の家に残された古い記録を見ました。
そこに書かれていたのは、恐ろしい事実――
わたしは先代清音様の娘――清一兄様の実の妹であり、兄様に子供が出来なかった時に新しい清音になるための、“予備”として生まれたということ。
そして、この村のすべては、にくゑさまを封じ、同時に愛し続けるためにあるのだと知りました。
大旦那様――お父様に尋ねると、知ってしまったのか、と苦い顔で呟かれました。なんということ!
そうと、そうと知っていればあんなことは――。
いいえ嘘です。たとえ知っていたとしても私は恋に落ちていたでしょう。そして罪を犯したと思います。
八月十一日
奥さまのお腹に、新しい清音が宿ったことを知りました。
その同じ頃、わたしの母――先代の清音さまは亡くなりました。
村は静かに揺らぎ、わたしの胸もまたざわめいています。
そして今、わたし自身の腹の奥にも、小さな命の鼓動を感じています。
実の兄との……子供です。このことはお父様しか知りません。
これは罪の証なのでしょうか。
それとも赦しなのでしょうか。
八月十五日
大旦那――父は私にこう告げた。
「村を出るとええ」と。
罪を抱えて、誰にも知られぬように。
奥様の悋気は、私とこの子を殺すかも知れない。
儀式を得ていない私とこの子は、本当の意味で死ぬことになる。
ならば――と。
祭りの前に村を出るならば、お前のことは誰にも気がつかれない。何故なら、今の村には清音がいないから。
生活の面倒は村で見よう、と。
それは父が私に見せた、せめてもの愛情だったのだろうか?
しかし儀式を終えていない私が村を出て大丈夫なのだろうか?
父はいった。
虚木の強い血を持つお前なら、村の外でも生きていける、と。
だが、成人の儀を得ていない私は、長くは生きられないかも知れない。
しかし、わたしは決めた。
この子を守るために。
わたし自身の罪を隠すために。
にくゑさまの支配から逃れるために。
――もう帰らない。
もう、わたしは巫女の予備ではない。
わたしは母になる。
笑顔の檻に囚われず、この子を抱いて生きるために。
◆
――最後の行を読み終えても、梓はしばらくページをめくることができなかった。
目の前の文字は、確かに母の手で書かれたものだ。それなのに、受け止めきれない。
――母は、村長の妹だった。
――母は「予備」と呼ばれ、自分の存在を否定されていた。
――それでも、兄に縋り、愛してしまった。
――そして、私を身ごもり、村を出た。
頭の中で言葉をひとつひとつ並べるたび、胸の奥が冷たく縮む。
母の「ごめんね」という口癖。あれは、この罪の重さから漏れた言葉だったのか。
そして、清音。
もしも母の日記が本当なら――清音は私の、姉?
梓は口元を押さえた。吐き出したいのに声が出ない。
信じられない。けれど、母の震える筆跡は、容赦なく真実を告げていた。
ページをめくる手が震える。
――わたし。この子って、わたしのこと?
胸の奥で、心臓が暴れるように打っていた。
乱れる手で日記をめくってゆく。
その中に、こんな文章が目に飛び込んできた。
――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。そこに私も名を記すことになった。
洞窟? あの祠のある洞窟だろうか。
この村に他の洞窟はない。きっと間違いない。
確かめよう。もしそんなものがあるならこの日記は……きっと本当のことだったのだろう。
表紙を閉じると、ひんやりとした感触が掌に吸いついた。
最後に母が記した言葉が、頭の中で反響する。
――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。
「……確かめなきゃ」
かすれた声が、自分のものだと気づくまでに時間がかかった。
母が守ろうとしたもの。にくゑの正体。そして、自分自身が何者なのか。
全ての答えが、あの祠にあるのかもしれない。
梓は震える手で日記を胸に抱いた。
清音の口づけの余韻は完全に消え、代わりに冷たい決意が胸の奥で固まっていく。
立ち上がり、外套を羽織る。懐中電灯を手に取る。
夜の山道は危険だが、もう迷っている時間はない。
玄関で振り返ると、電灯に照らされた居間が見えた。
さっきまで幸せに浸っていた自分が、遠い過去の人のように思える。
「行こう、梓!」
自分に言い聞かせるように呟いて、戸を閉めた。
夜気は冷たく、草の匂いが濃く漂っている。
村の家々は既に灯りを落とし、静寂に包まれていた。
洞窟への道は、清音と歩いた時とは全く違って感じられた。
あの時は恋の高揚感に包まれていたが、今は不安と決意だけが足を前に進める。
石段を下りながら、梓は母の文字を思い返した。
――清音の名を継ぐ板。
それは何を意味するのだろう。
足音が石に反響する。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
一歩一歩、真実に近づいている実感があった。
その時、闇の先に細い灯りが揺れた。
同じように懐中電灯を手にした、背の高い影。
「……吉川先生?」
振り返った男の眼鏡に、光がちらりと反射した。
息を弾ませた声が、夜気を震わせる。
「どうして、こんなところに?」
「先生こそ?」
闇の中、二つの灯りが重なった。
それぞれ違う理由で、同じ真実を求めて。




