表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
にくゑ-禁断の因習村百合ホラー-  作者: カクナノゾム
第九章 壱 真相への扉
77/86

日記

 村の夜道を歩きながら、梓はまだ唇に清音の温もりを感じていた。

 

 初めての口づけ。

 短く、けれど永遠のように長い時間。

 清音の冷たい指先が頬に触れた瞬間、世界が変わったような気がした。


 足取りは軽やか、というより地面に触れているのかどうかもよくわからない。頭の中は清音の面影でいっぱいで、家までの道のりも夢を見ているように過ぎていった。


 玄関の戸を開けて、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、全てが特別に思える。清音が愛してくれている。私も清音を愛している。それだけで、この小さな家さえも輝いて見えた。


「ただいま……」


 誰もいない部屋に声をかけて、梓はくすりと笑った。母がいた頃の癖が、まだ抜けない。でも今夜は寂しくなかった。胸の中に清音がいるから。


 居間の電灯をつけて、梓は畳の上にごろりと横になった。

 天井を見上げながら、さっきの出来事を反芻する。


 清音の瞳の色。少し震えていた睫毛。唇が重なる瞬間の、あの静寂。


「はぁ……」


 大きなため息が漏れる。幸せすぎて、どうしていいかわからない。


 このまま天井を見つめていても眠れそうにない。梓は身を起こし、せめて布団を敷こうと押し入れに向かった。


 でも、浮かれた足取りがいけなかった。

 床の間の前を通りかかった時、畳の縁に足を取られてしまったのだ。


「わっ!」


 バランスを崩し、床の間に手をついて体を支える。

 その時、指先に違和感があった。


「あれ……?」


 床板の一部が、わずかに浮いている。

 普段なら気づかないほどの、ほんの小さなずれ。でも確かに、他の部分とは違っていた。


 梓は首をかしげながら、その部分に指をかけた。すると、板がすっと持ち上がった。


「隠し……?」


 床板の下に、小さな空間があった。

 そこに、古い革表紙の手帳のようなものが何冊も入っている。


 梓の胸に、嫌な予感が走った。

 さっきまでの浮かれた気分が、急に冷めていく。


 手を伸ばして、それを取り出す。重みがある。長い間、誰にも見られることなくそこに眠っていたのだろう。


 表紙を見ると、かすれた文字で書かれていた。


 ――『弓子』


 母の名前だった。


 梓の手が震えた。

 これは母の日記だ。東京に出る前の。

 日記は全部で七冊。どれも表紙に数字が書かれている。

 でも、どうしてこんなところに隠されていたのだろう。

 

 一番下にあった手帳から、恐る恐るページを開く。

 そこには、こどもの筆跡でびっしりと文字が記されていた。


『わたしは ここにいても いいのでしょうか』


 最初の一行を読んだだけで、梓の血が凍りついた。

 清音との口づけの余韻は、跡形もなく消えていた。



 震える手で、梓は革表紙を開いた。

 乾いた紙の匂いが立ちのぼり、胸の奥を締めつける。インクの滲んだ筆跡は、確かに母のものだった。


しちがつみっか

わたしは ここにいても いいのでしょうか

なぜ、わたしにはとうさまもかあさまもいないのですか

でも、きょうは にいさまが てをにぎってくれました

うれしくて、ないてしまいました

おかみさんは こわいめで わたしをみます

でも おにいさまは わらってくれます

それだけがうれしいです


 ――文字を追う梓の頬を、涙がすっと伝った。母にも、こんな幼い孤独があったのか。


七月十五日


きのう、きよねさまから、ふしぎな話をききました。

このむらの人は、しんだらみんな、にくゑさまのなかへいって、

ずっとしあわせにくらせるのだそうです。

わたしは小間づかいだから、しんだらどうなるのだろう。

でも、にくゑさまはやさしい神さまだときいたので、

きっとわたしも、みんなと同じところにいけるのだと思いたいです。


けれど、この家には、わたしと血のつながった人はひとりもいません。

兄さまも、ほんとうは兄さまではありません。

だからこそ、みんなと同じ場所に行けると信じたいのです。



 ――梓は唇を噛んだ。母が語らなかった過去の重さが、紙の一行ごとに押し寄せてくる。何冊か飛ばして拾い読みをする。



九月二十日

おつとめは日に日にたいへんになります。

井戸の水を運び、畑の草を抜き、清音さまのお世話もします。

兄さまは「よう頑張っとる」と声をかけてくださいます。

その言葉だけで、胸が熱くなります。


けれど、奥さまはいつも冷たい目でわたしを見ています。

前の村長さまも、村の古い人たちも、わたしにだけよそよそしい。

どうしてでしょう。わたしはよそ者だからでしょうか。

「遠縁の娘」と言われても、心のどこかで居場所を失っていくようです。


 ――梓は、日記の最後の一冊を手に取った。そこにはこう書いてあった。


六月二日

今夜のことを、どうしても書かずにはいられません。

夕立に濡れて震えていたわたしを、兄さまが抱き寄せてくださったのです。

その温かさに縋ってしまい、わたしは……自ら一線を越えました。

小間づかいなのに。

罪だと知りながら、身体は兄さまを求めてしまいました。

嬉しくて、怖くて、死んでしまいたいほどに愛おしい。


八月十日

虚木の家に残された古い記録を見ました。

そこに書かれていたのは、恐ろしい事実――

わたしは先代清音様の娘――清一兄様の実の妹であり、兄様に子供が出来なかった時に新しい清音になるための、“予備”として生まれたということ。

そして、この村のすべては、にくゑさまを封じ、同時に愛し続けるためにあるのだと知りました。

大旦那様――お父様に尋ねると、知ってしまったのか、と苦い顔で呟かれました。なんということ!

そうと、そうと知っていればあんなことは――。

いいえ嘘です。たとえ知っていたとしても私は恋に落ちていたでしょう。そして罪を犯したと思います。


八月十一日

奥さまのお腹に、新しい清音が宿ったことを知りました。

その同じ頃、わたしの母――先代の清音さまは亡くなりました。

村は静かに揺らぎ、わたしの胸もまたざわめいています。


そして今、わたし自身の腹の奥にも、小さな命の鼓動を感じています。

実の兄との……子供です。このことはお父様しか知りません。

これは罪の証なのでしょうか。

それとも赦しなのでしょうか。


八月十五日

大旦那――父は私にこう告げた。

「村を出るとええ」と。

罪を抱えて、誰にも知られぬように。

奥様の悋気は、私とこの子を殺すかも知れない。

儀式を得ていない私とこの子は、本当の意味で死ぬことになる。

ならば――と。

祭りの前に村を出るならば、お前のことは誰にも気がつかれない。何故なら、今の村には清音がいないから。


生活の面倒は村で見よう、と。

それは父が私に見せた、せめてもの愛情だったのだろうか?

しかし儀式を終えていない私が村を出て大丈夫なのだろうか?

父はいった。

虚木の強い血を持つお前なら、村の外でも生きていける、と。

だが、成人の儀を得ていない私は、長くは生きられないかも知れない。


しかし、わたしは決めた。

この子を守るために。

わたし自身の罪を隠すために。

にくゑさまの支配から逃れるために。


――もう帰らない。

もう、わたしは巫女の予備ではない。

わたしは母になる。

笑顔の檻に囚われず、この子を抱いて生きるために。



 ――最後の行を読み終えても、梓はしばらくページをめくることができなかった。

 目の前の文字は、確かに母の手で書かれたものだ。それなのに、受け止めきれない。

 ――母は、村長の妹だった。

 ――母は「予備」と呼ばれ、自分の存在を否定されていた。

 ――それでも、兄に縋り、愛してしまった。

 ――そして、私を身ごもり、村を出た。

 頭の中で言葉をひとつひとつ並べるたび、胸の奥が冷たく縮む。


 母の「ごめんね」という口癖。あれは、この罪の重さから漏れた言葉だったのか。

 そして、清音。

 もしも母の日記が本当なら――清音は私の、姉?

 梓は口元を押さえた。吐き出したいのに声が出ない。

 信じられない。けれど、母の震える筆跡は、容赦なく真実を告げていた。


 ページをめくる手が震える。

 ――わたし。この子って、わたしのこと?

 胸の奥で、心臓が暴れるように打っていた。

 乱れる手で日記をめくってゆく。

 その中に、こんな文章が目に飛び込んできた。


 ――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。そこに私も名を記すことになった。


 洞窟? あの祠のある洞窟だろうか。

 この村に他の洞窟はない。きっと間違いない。

 確かめよう。もしそんなものがあるならこの日記は……きっと本当のことだったのだろう。


 表紙を閉じると、ひんやりとした感触が掌に吸いついた。

 最後に母が記した言葉が、頭の中で反響する。

 ――洞窟の祠の裏に、清音の名を継ぐ板がある。


「……確かめなきゃ」


 かすれた声が、自分のものだと気づくまでに時間がかかった。

 母が守ろうとしたもの。にくゑの正体。そして、自分自身が何者なのか。

 

 全ての答えが、あの祠にあるのかもしれない。

 梓は震える手で日記を胸に抱いた。

 清音の口づけの余韻は完全に消え、代わりに冷たい決意が胸の奥で固まっていく。


 立ち上がり、外套を羽織る。懐中電灯を手に取る。

 夜の山道は危険だが、もう迷っている時間はない。

 玄関で振り返ると、電灯に照らされた居間が見えた。

 さっきまで幸せに浸っていた自分が、遠い過去の人のように思える。


「行こう、梓!」


 自分に言い聞かせるように呟いて、戸を閉めた。

 夜気は冷たく、草の匂いが濃く漂っている。

 村の家々は既に灯りを落とし、静寂に包まれていた。

 洞窟への道は、清音と歩いた時とは全く違って感じられた。

 あの時は恋の高揚感に包まれていたが、今は不安と決意だけが足を前に進める。

 石段を下りながら、梓は母の文字を思い返した。


 ――清音の名を継ぐ板。


 それは何を意味するのだろう。

 足音が石に反響する。心臓の鼓動が耳の奥で響く。

 一歩一歩、真実に近づいている実感があった。

 その時、闇の先に細い灯りが揺れた。

 同じように懐中電灯を手にした、背の高い影。


「……吉川先生?」


 振り返った男の眼鏡に、光がちらりと反射した。

 息を弾ませた声が、夜気を震わせる。


「どうして、こんなところに?」

「先生こそ?」


 闇の中、二つの灯りが重なった。

 それぞれ違う理由で、同じ真実を求めて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ