二人
空は黄昏に沈み、村の家々にぽつぽつと小さな灯りがともり始めた。
梓は歩幅をわずかに広げた。鞄の中で、文庫本が小さく揺れる。
ページは裏切らない。
そして今は、もうひとつの灯りがある――清音の手の温度。
その両方を胸の中で抱き合わせながら、梓はまっすぐ、家へ向かった。
清音に会いに行く。話をする。
信頼は、盲目である必要はない。
――清音に、確かめないと。きっと彼女は全てを知っている。
その決意が、心の底で静かに燃え続けた。
家路を歩く梓の前に、細い人影が姿を現した。
風になびく長い黒髪。黒曜石のような瞳。人形のように整った顔。
会いたい、話がしたい。そう思って歩いていたら、そこにいてくれた。これは運命だとしか思えない。
様々な心配事、不安なことがあるにせよ、その姿を見ると、梓の胸は高鳴る。
太陽は稜線に沈みかかり、気の早い夏の虫たちがリーリーと鳴き声を上げている。
世界をただ茜色に染める光の中、二人は向かい合った。
「――清音」
「梓……貴方のことが気になって……」
そう語りかける清音は、本当に梓のことを心配している様子を見せていた。
学校で人目がある時はまるで違う、取り乱しているかのような様子を。
そんな清音の姿は見た梓の心に波紋が広げた。ああ、こんなに私のことを心配してくれている。愛されているのかも知れない。梓の心中にほの甘い満足感が満ちてゆく。しかしその感情を振り切るように、梓は口を開いた。
「……どうして、誰も美穂と健太のことを覚えてないの?」
声はかすれていたが、芯は固い。
「昨日まで一緒にいたのに……清音まで、忘れたふりをするの?」
清音は立ち尽くし、睫毛の影を震わせた。
「……仕方なかったの」
その一言は、鋭い針のように梓の胸を突き刺す。
「仕方ない? そんな言葉で済ませるの?」
梓は立ち上がり、机が軋んだ。
「あなたが……あなたが何かしたのね? みんなの記憶を……!」
清音の肩が震えた。沈黙。
その沈黙こそが答えだった。
「やっぱり……!」
梓の声が裏返り、涙が滲む。
「清音まで、私を一人にするんだ。信じたのに……清音だけは違うと思ったのに!」
「違う!」
清音の叫びが教室に響いた。
梓の涙を震わせ、空気を震わせた。
「私だって苦しかった! 美穂も健太も、友達だった。忘れさせるなんて、本当は……本当はしたくなかった!」
清音の瞳にも涙が溢れていた。
「でも……私には、そうするしかなかったの。あの子たちをこのままにしておくことは…… 此岸を守るためには……」
言葉はそこで途切れ、嗚咽に変わった。
梓は胸の奥が引き裂かれるように痛み、立ち尽くす。
沈黙。夕陽の光だけが二人を染めていた。
清音はふらりと歩み寄り、梓を強く抱きしめた。
梓の頬が制服の肩口に埋まり、涙が布を濡らす。
「……でもね、梓。貴方だけは違うの」
清音の声は震え、切なさを含んでいた。
「やっぱり貴方は特別。誰よりも……守りたいのは、貴方」
梓は声を詰まらせながらも、その言葉を胸の奥に吸い込んだ。
「……清音がいるから、私は……生きていける。不思議だけど本当」
声は嗚咽に滲み、震えていた。
「一人じゃないって……初めて、そう思えるの」
二人は互いの涙を頬で感じながら、長い沈黙に沈んだ。
やがて清音が腕を解き、梓の肩を抱いたまま、川辺へと歩き出す。
夕暮れの川は赤黒く光り、波が寄せては返す音が胸に響く。
立ち止まった清音が、梓の手を取る。指先は冷えて震えていた。
「梓……」
その声に、梓の心臓が大きく跳ねる。
次の瞬間、清音はそっと顔を寄せた。
唇が触れた。
短く、けれど永遠のように長く。
「梓……私も梓が……好き」
川音が遠ざかる。世界の輪郭が消える。
残るのは清音の温もりと、自分の鼓動だけ。
梓は目を閉じた。
これが初めての口づけだった。
悔恨と涙の果てにたどりついた、痛いほどのそれは甘い奇跡だった。




