居なかった子供たち
昨夜の光景が、まだ梓の胸に鮮やかに残っていた。
谷に架かる吊り橋の上を、美穂と健太が並んで歩いていく。月に照らされた横顔はどこか晴れやかで、振り返って小さく手を振った梓に、二人は笑みを返してくれた。
――街に行く。危険な道だけれど、きっとたどり着ける。無事に帰ってきて、また笑い合える。梓はそう信じて見送った。
翌朝、分校の一室には、初等部から高等部までの子供たちが集められていた。合同授業の日で、狭い教室はざわめきと光に満ちている。窓辺には夏の陽が差し込み、木の机の天板を白く照らしていた。
「では、出席をとるぞ」
楢崎先生が名簿を開いた。丸眼鏡の奥の目は柔らかく、口元にはいつも通りの笑みが浮かんでいる。
まず初等部。幼い声が順々に「はい」と返っていき、教室に元気な声が響く。
やがて高等部の番となった。生徒は五人しかいない。呼ばれる順番はいつも決まっていた。
――虚木、林田、森谷、根元、矢野。
「虚木」
「はい」
清音の澄んだ声が響き、教室が一瞬だけ静まる。
「根元」
「はーい」
あゆみが元気な声で手を挙げて応える。
「矢野」
「はい」
自分の番だ。梓は慌てて声を張った。
――そこで名簿は閉じられた。
「以上」
梓は瞬きをした。――おかしい。
いつもなら清音のあとに、美穂、健太の名が呼ばれるはずだ。だが今日は飛ばされている。欠席とすら告げられなかった。
「あの、先生」
思わず声が出る。
「森谷さんと林田さんは……今日は欠席ですか?」
先生は首をかしげ、笑顔を崩さない。
「そがん子は、最初からおらんじゃろう」
その言葉を合図にしたように、初等部の子供たちも、高等部の同級生も一斉に頷いた。
「そうたい」「おらんとよ」「そがん子はおらんかった」
揃った笑顔と声が、教室を満たす。
梓の背筋に冷たいものが走った。
――そんなはずはない。昨日まで、隣で笑っていたのに。
胸に重たいものを抱えたまま席に戻ると、隣から小さな声がした。
授業は粛々と進み、教室にいる誰一人として美穂と健太のことを話題には出さなかった。机も二つ空いているというのに。初等部の子供たちもあゆみも清音も、先生たちでさえも。
そして一日の授業が終わる。
梓は席を立つ気にもなれず、教室の机にうつ伏していた。頭の中を疑問がグルグル回る。村を出て行った二人はどうなったの? ちゃんと街につけたの? どうして誰も覚えていないの? おかしいのは私? それとも皆? それとも……この村?
「大丈夫?」
優しい声が聞こえた。顔を上げると、清音がこちらを見つめている。黒髪の影からのぞく瞳は氷のように澄み、けれど奥底には微かな熱を宿している。
清音が梓の隣にそっと身を寄せる。
「……清音、覚えてるよね。美穂ちゃんと健太くん。昨日まで一緒にいたじゃない」
声はかすかに震えていた。
清音は梓の瞳をまっすぐに見つめ返す。微笑を浮かべ、囁くように言った。
「ああ、やっぱり貴方は特別」
その声音は、他の誰にも聞こえないほど小さい。
「でもね、美穂も健太も……いなかったことになったの」
「そんな! どうしてそんなことに? みんな覚えてないの? 覚えてない振りをしているだけ?」
「……皆、忘れてしまったわ」
梓の胸に突き刺さる言葉だった。記憶が歪められ、存在ごと抹消される。清音の手のぬくもりだけが、その恐ろしい現実をやわらげていた。
「それって……どういう……」
梓は机を掴む手を震わせた。
「そんな……そんなはずない! 昨日まで、一緒にいたのに……清音だって、見てたでしょ、美穂ちゃんと健太くんを!」
声が裏返り、喉の奥が焼けつくように痛む。目の端から涙がにじみ、文字のにじんだ黒板が揺れた。
隣に座っていた清音が、ゆっくりと梓の方へ身を傾ける。黒髪の帳がさらりと肩に落ち、その影が梓を包んだ。
「梓……二人はもういないの。皆が忘れてしまったのは、救いでもあるの」
「もう、いない? それって……」
清音の言葉に、梓は悪い夢でも見ているように足下が覚束なくなるのを感じる。
「そう、二人とはもう二度と会えない。あの世界にも二人はいない……」
「何が……何があったの!? まさか二人は……」
「そう、梓の思っている通り……」
静かな声。その声だけで胸が張り裂けそうになる。
「そんな……」
清音の手が机の上で梓の手を探り当てる。冷たい指先が重なった瞬間、堰を切ったように涙が頬を伝った。梓は縋るように清音の腕を掴み、震える声を押し出す。
「嘘だよね……そんなの、嘘だよね……」
清音は瞳を細め、微笑みを浮かべた。その微笑は哀しみとも慈しみともつかず、ただ梓を見つめるためだけにあった。
「ああ……本当に、貴方は特別。何故なのかしら?」
その囁きは、世界で梓ひとりに向けられたものだった。
「でもね、梓。この村で生きてゆくなら合わせなさい。それが貴方の為でもあるわ」
胸を抉るような言葉。けれど、その声は驚くほど優しく、慰めるように響いた。
梓は泣きじゃくりながら、清音の肩に額を押しつけた。世界から見放された孤独の只中で、清音だけが唯一の拠り所に思えた。
清音の冷たい指先は、梓の手を離さなかった。涙を拭うこともできずに縋り付く梓を、そのまま受け入れている。
教室のざわめきが遠のき、二人だけが切り取られたような静けさに包まれていた。
「なになに、何ヒソヒソ話してるの?」
その時――前の席から、あゆみが振り返った。
二人の間に割り込むように、
あゆみは笑顔だった。いつもと変わらぬ、快活で人懐こい笑顔。けれど瞳の奥に、鋭い棘のような光が潜んでいた。
「あゆみちゃん! あゆみちゃんは覚えてるよね? だって二人を出て行くところを見送ったじゃない!」
「なんの話?」
「健太くんと美穂ちゃん!! あんなに仲が良かったのに!」
「梓ちゃん、何言いよると? そがん子、最初からおらんやったろ」
柔らかな声色に、妙な冷たさが混じっていた。
――嘘を、ついている。梓の胸に奇妙な確信が浮かぶ。
あゆみ、二人のことを覚えている、そんな気がする。
清音に寄り添う梓を見て、その笑顔がほんの少し歪んだのを梓は見逃さなかった。
「そんなはず……」
喉が詰まり、言葉が続かない。
昨日まで一緒に笑っていたはずの友達が、存在ごと消されている。
しかも――それを覚えているはずのあゆみまで、知らぬ顔をしている。
「変な梓ちゃんやね。清音、行こう?」
梓に勝ち誇ったような笑みを浮かべると、あゆみは清音を手招きして立ち上がる。
清音は梓に目をやるが、そのままきびすを返し教室を出て行く。
胸の奥がひゅう、と冷たくなる。
――まただ。また一人だ。
過去の孤独が、暗い水の底から甦ってくる。
どれほど友達を得たと思っても、気づけば自分だけが置き去りにされる。
涙で滲む視界の中、梓はただ清音の手のぬくもりだけを思い出していた。
(ああ、やっぱり貴方は特別)
清音のあの言葉が、まだ胸に響いている。
思えば、最初から運命的なものを感じていた。
村長の家で初めて清音を見た時――陶器のように白い肌、氷を秘めた瞳。
母が亡くなってから凍りついていた心が、清音を見た瞬間に動き出したのを覚えている。
あの時の胸の高鳴り。
母の死以来、何を見ても感じなくなっていた感情が、一気に蘇った瞬間。
それから毎日、清音の隣に座り、声を聞き、時折触れ合う指先に震えた。
学校でも、帰り道でも、清音がいるだけで世界に色が戻った。
そして昨夜――
村で出会った、様々な奇妙な出来事や、掟。それに戸惑う私を清音だけが理解してくれる。
孤独の中で、清音だけが光だった。
運命の人だと確信した。
だから、言葉にした。
洞窟の祠で、灯明の炎に照らされながら――
「私、清音のことが――好き」
告白の時、清音の表情が変わるのを見た。驚きではなく、むしろ悲しみに似た何かが、その瞳を曇らせた。
「……応えたい。でも、今はできないの」
優しい拒絶だった。
嫌いだからではない、むしろだからこそ――清音はそう言ってくれた。巫女としての立場、にくゑ様のこと、村の秘密。少しずつ話してくれた。
それでも、結果は変わらない。
想いは受け入れてもらえなかった。
ひとりぼっちになった教室で、梓は思う。
――まただ、と。




