忘れられた顔
処置室の空気は焦げた甘い匂いで満ちていた。
炭のように黒く崩れた肉片が床に散らばり、まだ微かに燻っている。
吉川は息を荒げ、火傷した左腕を押さえた。皮膚が赤く爛れ、衣服に張りついている。
「今のは一体……」
千鶴が唖然としたようすで呟く。
吉川は、机の縁に手をつき、深く息を吐いた。
左腕の火傷が酷く疼く。千鶴にお願いして、消毒と軟膏、そして湿潤療法での処理を終わらせ、包帯を巻いた。
「ふぅ……」
治療を終わらせ、椅子に体を預けたその時。
窓の隙間から入ってきた風が、カルテ棚から一枚の紙を持ち上げた
カルテはひらひらと舞い、机の上にたどり着く。
「古い建物だから隙間風が――」
カルテの名前が目に入る。
――森谷健太。
そうだ。
――少年だったはずだ。確かに笑顔を見たことがある。
吉川は痛む腕に構うこともせず、カルテ棚を漁る。
目指していたものは、一番上に乗っていた。
――林田美穂。
吉川は二つのカルテを並べ、穴が開くほどそれを見つめる。
森谷健太。
林田美穗。
その二つの名を並べた瞬間、喉がひきつるように動いた。
記憶が流れ込み、ようやく顔と名が重なる。
昨日まで確かにそこにいた子供たち。
診療所に二人でやってきた。そうだ、あの時は矢野さんもいた。
友人と並んで校庭を歩いていたはずだ。
畑の脇の道を歩いていた。診療所の前も、榊商店で並んでアイスを食べていた。
「……なぜ……」
昨日まで机を並べていた子供たちが、いまここに遺体として搬送されている。
なぜ、自分は彼らを忘れていた?
突発性健忘症? こんなことがあり得るのか?
吉川は目を閉じ、震える息を吐いた。
記録だけが真実を証明している。思考が霧に覆われても、文字は裏切らない。
彼はカルテを握りしめ、立ち上がった。
「行かなくては……確認を……」
吉川は声を絞り出すように言った。
眼鏡の奥で視線を鋭くし、火傷の痛みを無視して白衣の袖を整えた。
入院室――そこには少女の遺体が安置されている。
あれも記録しなければならない。忘れてはいけない。
廊下を歩く靴音が、異様に大きく響いた。
千鶴が後ろをついてくる。まだ足取りは震えていたが、視線だけは吉川の背を必死に追っていた。
入院室の戸を開ける。
千鶴が後ろに立ち、バーナーを抱えている。
「先生、わたしも行きます」
「……危険です」
「でも……置いていかないでください」
怯えを押し隠した声。吉川は黙って頷いた。
畳の部屋には三つのベッドが並び、そのひとつに白布をかけられた影が横たわっている。
窓は閉ざされ、朝の光は障子越しに淡く広がっている。静けさが異様に重く、まるで部屋ごと息を潜めているようだった。
吉川は白布の端に手をかけた。
指先が震える。
――あの崩壊した肉塊のようなものが、ここでも動き出すのではないか。
そんな恐怖が背筋を這い上がる。
それでも、確かめなければならない。
記録こそが真実を留める唯一の方法だ。
深く息を吸い込み、布を静かにめくり上げた。
白布の下から現れたのは、少女の亡骸だった。
少年のように内側から裂けた痕はない。
ただ、腕や足に噛みちぎられた跡が点々と残り、乾いた肉の端が黒ずんでいる。野犬の仕業だろう。
だが、それでも彼女の姿は、まだ「人」としての形を保っていた。
吉川は息を止めた。
顔にかけられた布をそっと外す。
――目は閉じていた。
顔の布を外すと、目は閉じ、唇は穏やかな微笑のままだった。。
「微笑んでる……林田さん……」
吉川は眼鏡の奥で凝視した。
間違いない。林田美穗。いつも健太少年と一緒にいた、少し委員長タイプのしっかり者の少女。
「……どうして……こんなことに……」
口の中で呟きが漏れる。
記録を取らねば――そう言い聞かせ、ポケットからメモ帳を取り出した。
――その瞬間。
ぱちり。
瞼が弾けるように開いた。同時に頬と両腕にも無数の目が開く。
全ての眼が、ギロリと光を反射しながら真っ直ぐこちらを射抜いた。
「あ゛……あ゛ぁ……」
死んだはずの肉体から、濁った呻き声と冷たい吐息が漏れる。
「なっ……!」
次の瞬間、少女だったもの身体は獣のように跳ね起きた。
白布をはじき飛ばし、痙攣じみた動きで四肢を突き出す。
異様な力で吉川に飛びかかり、首筋へと食らいつこうと口を開く。
その口の中にもまた眼が!
頭皮は半ば崩れ落ち、頭表に幾つもの穴が開き、口が開く。
その口の奥には脳が覗いていた。
漂う甘い匂い。腐臭と混ざったその匂いに、吉川はえずきを堪える。
「くっ……ッ!」
とっさに美穗だったものの肩を押さえ込み、体液の滴る口を身体から遠ざける。
それは細い両手を振り回し、信じがたい腕力で吉川の胸ぐらを掴み、振り回した!
「うわっ!」
異常な力に弾き飛ばされ、身体は壁に叩きつけられる。
肺が潰れ、息が詰まる。視界が暗転しかける。
「先生!」
千鶴の悲鳴が響く。
少女の死体はぎこちない動きで首百八十度回し、次の獲物を捉える。
あ゛ぁ……と声にならない濁った音を発しながら、千鶴に向かって、のしかかるように襲いかかった。
必死に腕で押し返そうとする千鶴。だが次の瞬間、歯が肉に食い込んだ。
「きゃあっ――!」
悲鳴が掻き消されるほど、生々しい肉の裂ける音が響いた。
千鶴の腕から鮮血が迸る。バーナーが手から滑り落ち、畳に転がる。
死体の顔は微笑の形のまま、血に濡れた歯をぎらつかせていた。
なまじ、生前の面影を残しているだけに、その無残な姿が際だっている。
「あり得ない……死んでいたはずだ! こんな、馬鹿なッ……!」
壁際でよろめきながら立ち上がる吉川。
言いながら先ほどの肉塊を思い出す。あり得なくはない、そう思ってこれを持ってきたのではないか?
床に転がったバーナーを掴み取り、点火スイッチを強く押し込んだ。
火だ!
火で浄化するしかないッ!
ゴッ!
炎が唸りを上げて吹き出す。
死体の背に浴びせかけると、肉が一気に裂けた。
赤黒い塊が噴き出し、無数の眼と口が開いた。
濁った笑い声とも悲鳴ともつかぬ音が部屋を震わせる。
触手のような肉が千鶴に絡みつこうと蠢く。
「燃えろ――!」
吉川は全力で炎を浴びせ続けた。
肉の眼が一つ一つ焼け潰れ、口々から漏れる音が悲鳴に変わる。
畳が焦げ、壁に黒煙が走る。
やがて肉塊は崩れ落ち、灰となって消えた。
少女の姿も、跡形も残っていない。
ただ、血に濡れた千鶴の腕と、焦げた匂いだけが残されていた。




