肉を持つ目
処置室に安置された遺体を前に、吉川は白衣の袖を整えた。
戸口のあたりにはまだ村人たちが群れており、笑顔のままこちらを見守っている。視線の重さが、器具の音よりも胸を圧迫していた。
「……ここから先は私の領分です。皆さんはお帰りください」
努めて平静な声で告げる。
ざわめきは起こらなかった。ただ、一人が頷き、また一人が頷き、笑顔のまま戸口から外へ引いていく。足音も声もなく、列をなすように退いてゆく光景に、吉川は背筋を冷たいものが走るのを感じた。
ただ一人、清一だけが残った。
白髪交じりの頭を少し傾け、口元に笑みを貼りつけたまま、処置室の奥へと視線を向けている。
「先生。わしは、ここにおった方が……」
言葉は柔らかかった。だが眼差しには、執拗な光が潜んでいた。
吉川は眼鏡の奥で視線を受け止め、低く返した。
「村長。これは医者の仕事です。外の方がよろしいでしょう」
一瞬だけ、清一の笑みが深く刻まれたように見えた。だが反論はなく、静かに踵を返す。
戸口から去り際に、振り向きもせずただ黙って。
戸が閉じる。
残されたのは吉川と千鶴、そして処置室の中央に横たわる無惨な躰だけだった。
処置室の空気が落ち着くと、吉川は息を吐き、机の引き出しからカメラを取り出した。
記録用のデジカメ。大学病院時代から癖のように携帯している。
この村には症例記録のためにと持ち込んだものだった。
脳内でもう一人の吉川が声を上げる。手軽にスマホで撮影すればいいんじゃないか?
が、次の瞬間その声はかき消された。
スマホ? スマホって何だ?
……訳のわからない妄想に付き合っている暇はない。今はこの目の前の現実を記録しなくては。
「千鶴さん、照明をもう少し強く……窓も開けて光を入れてください」
千鶴が慌ただしく応じる。窓を引くと冷たい朝の空気が流れ込み、鉄と血の臭気を攪拌した。白布を押さえながら立つ千鶴の顔は、強ばりきっていた。
吉川はカメラを構え、ファインダーを覗いた。
――少年の躰。
皮膚は裂け、腹腔は空洞のように見える。光が差し込み、影が深く沈んだ。
シャッターを切るたび、乾いた音が静寂を裂く。
カシャン。
肉と血の映像が、冷たいガラスの奥に焼き付けられていく。
全身を数枚。顔、裂け目、四肢の欠損。
医学的には必要不可欠な記録だが、レンズを通して覗くことでかえって惨状が冷徹に突き刺さる。
吉川は一度目を閉じ、深呼吸をした。
「……氷を、この下に」
指示を出すと、千鶴が青ざめた顔のまま氷嚢を運び、ベッドの下に並べていく。溶けた水が金属皿に滴り、細い音を立てた。
吉川は検案用紙に日付と時刻を記し、項目を一つずつ埋め始めた。
外表の異常――皮膚裂開、血液消失、四肢欠損。
筆跡がかすかに震え、インクが滲む。
カメラ、氷、記録。
理性にすがる一連の動作だけが、彼をかろうじて保っていた。
吉川はピンセットを手に取り、裂けた皮膚の端をそっと広げた。
乾いた血管は空の管のように縮み、内臓は見る影もなく崩れている。
だが、その奥に――不自然な塊が残っていた。
赤黒く凝固した血腫のように見えた。
しかし光を当てると、表面がわずかに脈打った。
――動いている?
呼吸が止まった。液晶モニターを覗き込み、シャッターボタンを押す。
カシャッ。
瞬間、画面の中で“それ”は形を変えた。
裂け目の中央が、眼のように開いたのだ。
肉の奥に隠されていたはずの何かが、まぶたのように薄い膜を持ち上げ、濡れた光をこちらへ向けた。
錯覚だ――。
理性が否定の声を上げる。だが鼻腔に満ちる匂いは、もう鉄の臭気ではなかった。
花を漬け込んだ酒のように甘く、粘りつく香気。
舌の奥に苦味を伴い、吐き気が込み上げる。
吉川の手が震え、ペン先が書類に大きな汚れを作った。
「……せ、先生……?」
千鶴のか細い声が背後から届く。
振り向くことはできなかった。
視界の端で、赤黒い塊の“眼”が瞬きをしたように見えたからだ。
見えたから、ではなかった。
――眼だ。
遺体の裂けた傷口から、大小様々な無数の眼がこちらを覗いた。瞬きを繰り返すたび、ピチャピチャと湿った音が処置室にこだまする。
次の瞬間、その悍ましい肉塊は遺体からずるりと持ち上がり、天井に向かって伸び上がった。ピチャリという音と共に天井に張り付いたそれの、無数の目が二人を捉える。
「キャアーーーーッ!」
千鶴の悲鳴が背後で弾けた。
吉川は竦む足を堪え、強ばる体を無理矢理動かす。恐怖は容易に人を縛る。しかし理性がそれを打ち破ることはできる!
反射的に手近な器具を探す。
刃物……いや、メスでは駄目だ。脆すぎる。
指先に触れたのは、重みのある金属。
鉗子――血管や腸管を挟んで固定するための器具だ。大きな鋏のような形をしているが、刃はなく、先端は厚みのある金属で噛み合わされている。外科ではこれで出血を抑えたり、組織を保持したりする。だが今の吉川にとっては、手にできる唯一の武器だった。
肉塊が天井からしなるように落下してきた。
直感が告げる――狙われているのは眼と口だ、と。
吉川は咄嗟に左腕を顔の前にかざした。
ずしりと重い衝撃。
赤黒い塊が腕に絡みつき、ぬめりとした感触が皮膚を覆う。
骨ごと圧し潰そうとする締め付けに、思わず息が詰まった。
「ぐっ……!」
右手で鉗子を握り直し、絡みつく肉へ突き立てる。
ぶすりと穴は開く。だが、すぐに盛り上がった肉が塞がり、先ほどの痕跡はほとんど消えていった。
再生する――。どれほど突いても意味がない。
恐怖で固まっている千鶴の姿が視界に入った。彼女の傍らに置いてあるのは――。
――そうだ、あの時、あの時も炎だった。
吉川は喉を裂くように声を絞り出した。
「千鶴さん……火です! 医療用バーナーを!」
喉を裂くような叫び。
千鶴は一瞬呆然としたが、すぐに棚に手を伸ばし、震える手で器具を抱える。
持っているのは、金属製の小型バーナー。消毒や滅菌のために使うものだ。
普段はアルコール綿に火をつける程度だが、ガスを全開にすれば炎は刃のように唸る。
「火をつけて渡してくださいッ!」
千鶴が震える指で着火スイッチをひねった。
――シュボッ。
青白い炎が鋭く伸び、処置室の空気が一気に熱を帯びる。
吉川はそれを受け取り、腕に絡みついた肉塊に向けて青白い炎を向けた。
医療用の滅菌バーナーとはいえ、その温度は千五百度に達する。
「こいつを……焼くしかない!」
叫ぶと同時に、炎を腕に絡みついた肉塊に浴びせた。
肉塊から幾つもの口が一斉に開き、甲高い軋んだような悲鳴を上げ、粘膜が泡立ち、無数の眼が次々と焼け潰れていく。
熱に耐えかねたように、肉塊が腕から離れ床に落ちる。高温の炎を間近で受けた左腕は深刻な火傷を負っているが今は無視だ。
「くっ……このッ!」
続けざまに動きが鈍くなった肉塊に、吉川は青白い炎を浴びせ続けた。
弾けた体液が飛び散り、甘ったるい臭気と焦げた匂いが室内に充満した。
「キャっ!」
千鶴が悲鳴を上げ、顔を覆う。
吉川は目を逸らさなかった。炎の光の中、黒い塊がのたうち、やがて崩れ落ちるまで見届けた。
床に落ちた残骸は炭のように黒く固まり、もはや動かない。
悪夢のような光景に、吉川も千鶴も声を失って立ち尽くした。
吉川は荒い息をつき、腕の火傷の痛みを無視しながら処置台へと視線を戻した。
そのときだった。
――ぐずり。
肉塊が抜け出した少年の遺体が、音を立てて沈んだ。
皮膚は自重に耐えられず、ずるずると滑り落ちるように形を失っていく。
眼窩からは濁った液があふれ、肋骨は軋みながら崩れ、内側から腐ったように崩壊していった。
「……っ」
千鶴が声を飲み、壁際に後ずさった。
吉川は目を逸らせなかった。
それは確かに、かつて見た“あれ”の姿だった。
唇を持ち、歯をのぞかせ、炎に包まれて溶け崩れた、あの夜の肉塊。
――そうだ。あの時も火だった。
匂いが鼻を刺した瞬間、意識を引き戻される。
焚き火の光、夏の夜の空気、三人で過ごしたあの時へ。




