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拉致

 夜、布団に入ったあと。

 寝息の落ち着いた陽一を横に、沙織は勇気を振り絞った。


「俊夫さん……やっぱり、一度診てもらったほうがいいと思うの」

「なんだと?」


 俊夫が身を起こし、低い声で繰り返す。


「俺を疑ってるのか」

「違うの、ただ心配で……」

「俺は元気になったんだ。お前も喜べばいい」


 笑みを浮かべながらも、声は荒々しく、瞳の奥にぎらりと光が走った。

 沙織は胸が縮み、言葉を失う。疑ってはいけない。否定すれば、もっと遠くへ行ってしまう。そんな恐怖が喉を塞いだ。


 隣で陽一が寝返りを打ち、小さな寝息を立てている。家族を守るはずの家の中で、沙織だけが冷たい孤独に閉ざされていた。


 ◆


 その夜遅く――突然、俊夫が暴れ始めた。


 赤く沈む陽が山の端を染め、影を長く伸ばしていた夕暮れから数時間。沙織が台所で夕食の片付けをしていると、居間から異様な音がした。


 何かが畳を引っ掻く音。そして、低い呻き声。


「俊夫さん?」


 駆けつけると、俊夫が床に膝をつき、全身を震わせていた。顔は赤黒く火照り、荒い息が喉を震わせている。


「大丈夫……?」


 近づこうとした瞬間――


「うあああああッ!」


 俊夫が跳ね起き、喉の奥から獣の咆哮を上げた。畳を裂く音、柱を揺らすほどの力。

 赤く充血した眼がぎらりと光り、瞳孔が縦に裂けかける。

 汗に濡れた胸板が脈打ち、全身の筋肉が浮き上がる。


「俊夫さん!」


 沙織は叫んだが、その時すでに玄関が激しく叩かれていた。


「奥さん! 大変なことになっとるな! 大丈夫じゃから!」


 メキメキと音を立てて、戸が無理矢理開かれると、男衆が十人以上、総出で駆けつけていた。まるで俊夫の暴発を予期していたかのような素早さだった。


 その群れの後ろに、村長が――虚木清一が立っていた。

 日に焼けた顔に穏やかな笑み。松明の火がその輪郭を照らす。

 ――そして、その隣に佇む少女は誰だろう?


 まだ少女のはずなのに、村長の傍らに立つ姿は自然すぎた。

 白い首筋をまっすぐに伸ばし、沈黙の中に不思議な威厳を帯びている。

 周囲の大人たちが彼女を一目置くように距離を保っているのを見て、沙織の胸に違和感が走った。

 なぜ、この子が――。


「心配せんでええ、すぐ良うなるけぇ」

「よう働きすぎただけじゃ」


 口々に同じ言葉を並べながら、全員が笑顔を浮かべていた。

 その揃いすぎた笑みに、沙織の膝が震えた。

 男衆が一斉に居間に入り、暴れる俊夫を押さえ込む。


 肩を、腕を、脚を。

 汗と土と息の臭いが一気に押し寄せる。

 笑顔の顔面が目前に迫り、頬に湿った息がかかる。

 「大丈夫じゃ」「心配せんでええ」

 合唱のように揃った声が耳を塞ぎ、沙織の悲鳴は飲み込まれた。


 俊夫はそれでも暴れ続け、縄のような筋肉をうねらせて押さえつける男たちを振りほどこうとした。

 その隣で、少女が一歩前に出た。


 小さな唇がかすかに動き、祈りのような声が漏れる。

 すると、俊夫の痙攣がふっと弱まった。呻き声が細くなり、体からくたりと力が抜けた。


「……っ」


 沙織は目を見開いた。

 ――この子が、俊夫を鎮めた?

 村の少女ではない。もっと別の、異質な存在。


「清音様がいらっしゃるけぇ、大丈夫じゃ」

「清音様のお力で、よう鎮まらっしゃった」


 清音、この子は清音というの?

 押さえ込んでいた男衆が口々に少女の名を言い、安堵の笑みを浮かべた。

 その瞬間、沙織の心臓は冷たい手で握られたように縮んだ。


「もうよかろう」


 低い声が響いた。

 清一だ。

 その一言で、笑顔の群れが一斉に動きを止め、頭を垂れる。

 場を支配しているのは、この男ただ一人だった。


「ここでは抑えきれん。何時もの場所へ連れて行け」


 清一の声に、誰も逆らわない。

 縄が持ち出され、俊夫の両腕が縛られていく。呻きと咆哮が混じる中、縄の軋む音だけが異様に大きく響いた。


「やめて! どこへ連れて行くの!」


 沙織は必死に叫び、陽一を抱きしめて立ちはだかる。

 だが清一は笑顔を三度浮かべ、静かに近づいてきた。


「奥さん、心配することはなか。にくゑ様のお側で休ませれば、すぐ良うなる」


 柔らかな声。けれど否定を許さない威圧が背筋を這い上がる。沙織と陽一の体に幾つもの手が絡みつき、一家は揃って移送されてゆく。


 ◆


 松明の列に囲まれ、家族ごと洞窟の村はずれにある洞窟の前へと連れ出される。


「こんなところに……洞窟が」


 沙織は震える声でつぶやいた。村に住んでから一度も聞いたことのない場所。洞窟の前にある分かれ道の脇道に逸れる。

 古びた井戸の向こう、そこには、黒ずんだ畳と煤けた梁が残る廃屋があった——かつては社務所だったのだろう。


「ここじゃ」


 清一の声が響き、俊夫は社務所の柱に縛り付けられる。呻き声と荒い息が洞窟に反響した。


 清音がその前に跪き、祈りを紡ぐ。俊夫の体は震えながらも、再び静かになった。


 清一は沙織と陽一に視線を落とした。


「奥さん、坊も。ここから出てはいかん。にくゑ様がお守りくださる」


 笑顔。穏やかで、しかし絶対に逆らえない命令。


 戸が閉ざされ、閂が落ちる音が洞窟に響いた。

 残されたのは、縛られた夫の呻き声と、泣きじゃくる子の声、そして湿った闇だけ。


 沙織は陽一を抱きしめ、全身を震わせた。

 ――ここは、牢獄だ。もしかしたらこの村そのものが。

 清音の祈りが夫を鎮めた光景が、何より恐ろしい。

 絶望が胸を満たし、涙が止まらなかった。



◆◆◆

あとがき。


序章が終わり、破が始まります。

次章「二つの遺体」から、物語は加速してゆきます。

彼らの記録を読み返すたび、胸が痛みます。

でも、書かなければ。

断片には、もっと多くの真実が眠っています。


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