日常の影
その気持ちを振り切るように沙織は二人に声をかけた。
「さぁ、朝ご飯の支度ができたわよ。二人とも食べてちょうだい」
沙織の声に食卓に着く二人を見て、今日も始まる村の一日に沙織は思いを馳せるのだった。
三人で食卓につく。湯気の立つ茶碗を前に、そろって手を合わせた。
「いただきます」
陽一は夢中でご飯を頬張った。まだ熱いのに「あちち」と言いながらも、口いっぱいに詰め込む。
「ゆっくり食べろ。喉につかえるぞ」
俊夫が笑って茶碗を支えてやる。
「陽一、ピーマンも食べなさい」
沙織は箸で炒め物をつまみ、息子の皿にのせた。毎回このやり取りをしている。もう、本当に好き嫌いが多いんだから。ピーマンは油で炒めると苦味が減って、化学調味料を振ると更に食べやすくなる。こんなに工夫してるのに、相変わらず陽一はピーマンが苦手で、次の台詞まで予想出来た。
「やだ、苦いから」
予想通りの言葉を口にした陽一は顔をしかめて、箸で端に寄せようとする。
「好き嫌いしてたら大きくなれないわよ」
沙織の声が少し厳しくなる。
「まあまあ、いいじゃないか。俺だって子供のころは嫌いだったんだ」
俊夫が笑いながら陽一の肩を抱き寄せる。全くこの人は。呆れ顔で沙織は敏夫の顔を見つめた。
「な? 陽一」
「うん!」
甘やかす声に、陽一は嬉しそうに笑った。子供が出来た時、私はムチ役で敏夫はアメ役。そう決めた時の遠い思い出が蘇った。
「だから病気がちになるのよ」
沙織は呆れたように息をついた。だが、二人の笑顔を見ていると心の奥が温かくなる。
きゅうりの浅漬けをぽりぽり噛む音、味噌汁をすする音、箸の触れ合う軽やかな響き。
食卓に響く音の一つひとつが、東京では遠ざかってしまっていた家族の時間を取り戻してくれるようだった。
朝食を終えると、俊夫は力強く立ち上がった。
「よし、今日は頑張るぞ!」
まだ朝靄が薄く残るなか、鍬を手に外へ出て行く。その足取りは軽やかで、昨日まで高熱で寝込んでいた人間とは思えない。
沙織は窓から遠く畑の様子を眺めた。小さく見える俊夫が鍬を振り下ろす音が、規則的にここまで響いてくる。
――力が強すぎる。
沙織は思わず息を呑んだ。
岩混じりの畝を軽々と掘り返し、額に浮かんだ汗を乱暴に拭ってはまた土を割る。体の動きが機械的で、まるで疲れを知らないかのようだった。
「お父さん、すごい!」
学校へ向かう前の陽一が駆け出して、土の匂いに混じる汗の匂いの中へ飛び込んでいく。俊夫は大きな腕で息子を抱え上げ、豪快に笑った。
「陽一も大きくなったら、お父さんと一緒に畑を耕すんだ」
「うん! お父さんみたいに強くなる!」
無邪気に喜ぶ二人の姿を見ながらも、沙織の胸は冷たく強ばった。
陽一を学校に送り出した後、沙織は台所で朝の片付けを続けた。だが俊夫の異常な回復ぶりが頭から離れない。あの赤い薬は、一体何だったのだろう。
◆
昼の食卓。
白米の盛られた茶碗が三度も空になり、味噌汁も汁まで飲み干される。里芋の煮物も、豚肉と野菜の炒め物も、俊夫の箸が止まることなく消えていった。
「俊夫さん……そんなに食べて大丈夫?」
「なんだ、心配性だな。体が元気になった証拠だろ」
笑いながら口を大きく開き、肉を押し込む。汁が口の端から垂れても気にせず、豪快に咀嚼する音が畳に響いた。
「でも、朝からずっと畑仕事して……」
「全然疲れないんだ。むしろもっと働きたいくらいだ」
その言葉に、沙織は言いようのない寒気を覚えた。人間らしい疲労を感じない夫。まるで別の生き物のように見えてくる。
陽一が学校から帰ってくると、俊夫は息子を膝に抱き上げた。
「陽一、お父さんと一緒に畑を見に行こうか」
「わーい!」
二人の笑い声が重なる。その光景は確かに微笑ましいはずなのに、沙織には何か得体の知れない不安が胸を締めつけた。
◆
日が傾き、そろそろ一日が終わろうとしている。日が落ちる前にと、買い物に出た帰り道で清一とお福に出会った。庄司も一緒に、畑の端で作業の手を休めている。
「旦那さん、もう元気になられたそうじゃな」
「薬がよう効いたけぇ、安心せえ」
三人が三度、同じ笑顔で口を揃える。陽射しの下で歯の白さまでもが揃って見えて、沙織は息を呑んだ。
「あの……あの薬、本当は何なんですか」
勇気を振り絞って問うと、清一は穏やかな口調で返す。
「古うからの薬じゃけぇ。外の医者にはわからんもんじゃ。心配いらん」
「でも――」
「心配はいらん」
重ねられた言葉に遮られ、沙織はそれ以上声を出せなかった。
気づけば、周囲の畑でも人々が同じ動きで鍬を振るい、同じ調子で笑っていた。視線が自分に集まっているわけではないのに、監視されているような錯覚に包まれる。喉がひりつき、息が詰まる。
家に戻ると、俊夫はまだ畑で汗を流していた。太陽が傾き始めても、その勢いは衰えることがない。
「俊夫さん、もうそろそろ休んだら?」
沙織が声をかけると、俊夫は振り返った。その目に、一瞬ぎらりと赤い光が宿ったように見えた。
「まだ大丈夫だ。もう少しやる」
そう言って再び鍬を振るう。その動作は人間を超えた何かに突き動かされているように見えた。
◆
そろそろ日も暮れる時間になったが、沙織は診療所へ行こうと決意した。せめて吉川先生に小瓶を見せて、中身を確かめてもらわなければ。
あの人は訛りがなかった。きっと私たちと同じ移住者だ。それに今朝、あんなに真剣に夫を見てくれた。私を案じてくれた。だから力になってくれる。
だが玄関を出るたび、誰かが声をかけてくる。
「先生は忙しかろうけん、行かんほうがええ」
「病気ならもう治っとるじゃろう」
「旦那さんが元気なら、それでええんよ」
柔らかい言葉、親切そうな調子。けれどその繰り返しが胸を締めつける。まさか……監視されてる? それにどうして、こんなにも揃って同じことを言えるのだろう。
少し怖くなって沙織は家に戻る。ここなら安心だ。ここなら安全だ、と自分に言い聞かせて。
結局家から出ることはなく、夜を迎える。台所で小瓶を洗い、水滴を拭いながら手が震えた。光に透かせば、赤黒い色がまだ底に薄く残っている。
俊夫と陽一の笑い声が奥の部屋から響く。それは確かに温かいはずなのに、沙織には「逃げ場のない檻」の音に聞こえた。




