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笑顔の輪郭

 下校の時間。初等部の子どもたちが、背丈に合わない長靴の音をアスファルトに響かせて列をなす。誰かが転べば、即座に周りの手が伸び、笑い声が弾ける。

 その賑やかな波に背中を押されながら歩くうち、梓の胸の内側で固まっていた強張りが、少しずつ解けていくのを感じていた。


 ――自分もようやく、この輪の端っこを掴めたのかもしれない。


 そんな安堵の息を吐き出した矢先だった。

 学校からの帰り道、畑の脇のコンクリートの縁に、不自然な黒い影がうずくまっているのを見つけた。


 子どもだった。小学生くらいの背丈。紺色のシャツに、不釣り合いなほど真新しい白いランドセル。膝を深く抱え込み、うつむいてしゃがみこんでいる。


「どうしたと? 矢野」


 健太が不思議そうに振り返る。梓は無言で縁石を指差したが、健太の視線は子どもの頭上を素通りした。隣を歩く美穂も、あゆみも、その「障害物」を避けるそぶりすら見せない。


「そこに……子どもが……」

「おらんじゃろ? 初等部の子なら、とうに走って帰っとったやろ?」


 美穂が小首を傾げる。

 見えていない?

 梓の脳内で、急速に警報が鳴り始めた。目を凝らす。


 ――骨格の構造が、決定的に破綻している。


 背中を丸めたその姿勢。肩甲骨の位置が異常に高く、まるで皮膚の下から別の腕が突き破ろうとしているように隆起している。

 そして、水だ。

 雲一つない青空の下だというのに、紺色の布地はどっぷりと水分を吸い、裾からアスファルトへ水が滴り落ちていた。


 ぽちゃん。ぽちゃん。


 耳の奥の三半規管を直接揺らすような、ひどく重たい水音。


「……だいじょう――」


 声をかけようと一歩踏み出した瞬間、梓の生存本能が全身の神経を凍結させた。

 胸が上下していない。呼吸の気配が一切ない。ただ、水滴だけが機械的に落ち続けている。


(顔を、上げさせてはいけない)


 あれは、人間の顔のパーツを配置していない。直感がそう叫んでいた。

 網膜が金縛りに遭ったように視線を剥がせずにいると、背後から無防備な大声が降ってきた。


「よぉ、今日は学校で畑仕事じゃったそうじゃな。お疲れさま!」


 通りの角にある商店の店主だった。がっしりした頭部に似合わない、針金のように細い体を折り曲げて手を振っている。

 梓は反射的にそちらへ頭を下げ、すぐさま縁石へ視線を弾き返した。


 いない。

 子どもがしゃがんでいた場所には、どす黒く変色した「濡れた跡」だけが残っていた。


「今日はようけ働いたのう。えらいえらい」

 籠を抱えた年配の女性が、すれ違いざまに口元を綻ばせる。

「梓ちゃん、顔色がよくなったじゃろ。村の空気が合っとるんじゃけぇな」

 鍬を担いだ男が、目尻を下げてにっこりと笑う。

「弓子さんにそっくりじゃ。ほんまによう似とるとよ」


 そのときだった。

 梓の視界の中で、致命的なバグが起きた。


 子どもも、大人も、すれ違う村人たちの顔面が、一瞬だけ完全に「同期」したのだ。

 頬の筋肉の収縮率。口角が持ち上がる角度。細められた目尻のシワの数。

 年齢も性別も骨格も違うはずの人間たちが、まるで一つの巨大な脳から同じ電気信号を受け取ったかのように、寸分違わぬ「笑顔の型」を顔面に貼り付けて梓を見ていた。


 梓の足が、アスファルトに縫い付けられたように止まる。心臓が痙攣を起こした。


「梓ちゃん、どうしたと?」


 少し後ろを歩いていたあゆみが、梓の顔を覗き込む。

 その表情もまた、村人たちと完全に一致する「優しさの仮面」だった。


「みんな、梓ちゃんのこと大好きじゃからね」


 だが、あゆみの声帯から発せられたその言葉には、舌が痺れるような苦みが混じっていた。


「清音様……清音も、梓ちゃんのことようけ気にかけとるし」


 言い直した瞬間、あゆみの黒い瞳の奥で、強烈な嫉妬の炎が鋭く爆ぜた。笑顔の仮面の下で、醜く人間らしい感情が蠢いている。


 梓が強く瞬きをして再び目を開けると、同期は解けていた。

 あゆみは泥のついた顔で無邪気に笑い、美穂は呆れ顔で眉を寄せ、健太は図鑑を抱えて得意げに口を尖らせている。それぞれが、それぞれの体温を持った別々の笑顔だった。


(疲れているだけだ。夏の陽射しのせいで、脳が誤作動を起こしたんだ)


 理屈で自分を納得させようとするが、毛穴から入り込んだ冷気が内臓を冷やしていく。

 あの判で押したような笑顔。地面に残ったどす黒い水跡。そして、あゆみが無意識に漏らした「清音様」という呼称。

 見過ごしてはいけない違和感の欠片が、梓の喉の奥に引っかかって取れなかった。



 その夜、梓は母の遺品である小さなメモ帳を机に広げた。

 最初の頁に刻まれた、母の几帳面な文字。


 『記録すること。忘れてしまいそうなことを、残すこと』


(……忘れたいことでも、記録しなければ、私が私でなくなってしまう気がする)

 梓は新しいページを強く押さえつけ、鉛筆を握りしめた。昼間は光に紛れて誤魔化せた恐怖が、夜の静寂とともに這い出してくる。



『今日は学校の裏にある共同農地で、畑の手伝いがあった。

 空は晴れていたのに、畑には妙な濃い影が落ちていて、土の色が血を吸ったように赤黒かった。


 苗の穴を掘るたび、スコップから伝わる感触が気持ち悪かった。

 ただの土じゃない。草の根が神経の束みたいに絡まり合っていて、引きちぎると、肉を裂くようなぶちぶちという音がした。


 三つめの穴を掘ったときだった。

 土の中に、目があった。


 ――錯覚じゃない。本当に「人間の眼球」だった。


 まぶたも白目もない。ただ、赤黒い筋がびっしりと走った白い球体が、泥の中から私をじっと見つめ返していた。ぬるりと濡れていて、瞬き一つしなかった。

 あの瞬間、私の心臓は完全に停止したと思う。


「清音」と呼んだ声は、情けないほど震えていた。

 でも、すぐ横にいた清音は、顔を上げて「なに?」と小首を傾げただけだった。


「土の中に……誰かの、目が」

 私が言いかけると、清音はふわりと微笑んだ。その声は澄んでいたけれど、水底から響いてくるように遠かった。


「そう見えたのね。……根っこって、ときどき人のかたちに似てるの。大丈夫、驚くことじゃないわ」


 もう一度穴を覗き込むと、眼球は消えていた。

 代わりに、引きちぎられた太い根が一本、へその緒のようにぬるりとそこに横たわっていた。』



 ――今日、私が見たものは何だったのか。

 土の中から覗いた眼球。帰り道で見た、骨格の狂ったずぶ濡れの子ども。


(見てはいけないもの。笑ってはいけない笑顔)


 あの一瞬、村人全員の顔の筋肉が同期した光景が、フラッシュバックする。

 疲労のせいだ、ただの偶然だと脳の処理領域に放り込もうとしても、本能がそれを拒絶する。


 ガリッ、と。

 鉛筆の芯が紙を強く削り、黒い粉が散った。自分が思っている以上に、指先が小刻みに痙攣している。

 開け放たれた窓から、生温かい夜風が吹き込み、ノートの頁を乱暴に捲り上げた。部屋の裸電球が、チカチカと頼りなく明滅する。


 外からは、木々のざわめきしか聞こえないはずなのに。

 梓の耳の奥では、夕方のアスファルトで聞いたあの「ぽちゃん」という水音が、まだ絶え間なく鳴り続けていた。


 村に来て数日。

 今夜、梓は初めて、この家でたった一人でいることに、腹の底が抜け落ちるような恐怖を感じていたのだった。



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