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村の日々


 診療所を出て学校へ向かう道すがら、梓は次々と村人から声をかけられた。


「梓ちゃん、体の調子はどうじゃった?」

 八百屋の軒先で、老婆がしわくちゃの手を振る。


「先生は優しい方じゃろう? 何か困ったことがあったらいつでも言いんさいよ」

 雑貨店の店主が、陳列棚の奥から顔を出す。


「お母さんの弓子さんにそっくりじゃねえ。きっと元気に育ってくれるとよ」

 通りすがりの女性が、野菜の籠を抱えたまま立ち止まり、目を細める。


 一人、また一人。

 皆が顔の筋肉を同じ形に引き上げ、親切に梓の輪郭をなぞっていく。その声の温かさは、確かに嘘ではなかった。

 だからこそ、梓の胸の奥で、警報器のランプが明滅を繰り返す。


(……過剰な親切。まるで、あらかじめ設定されたスクリプトを読み上げられているみたいだ)


 昨日の朝、玄関の上がり框に置かれていた籠を思い出す。

 菜っ葉と茄子、そして米袋。葉の裏には真珠のような朝露が張り付き、付着した泥はまだ生温かく湿っていた。誰かが、自分が目覚めるよりもずっと前に、音もなくそれを置いていったのだ。籠を持ち上げたときに手首にのしかかった重みは、確かな「質量」を持っていた。


 母の古い日記の、冷たい一文が脳裏をよぎる。

 ――『笑顔で与えるのが、この村の礼儀』


 なぜだろう。この親切は、あらかじめ決められた「手順」にしか思えない。頼む前に、断る隙もなく与えられる恩恵。そうやって少しずつ、自分の足元が、この村という巨大な胃袋の中に消化されていくような感覚。

 梓は鞄の紐をきつく握り直し、歩調を速めた。



 木造の校舎に着くと、昨日のクラスメイトたちが教室の窓から身を乗り出していた。


「あずさちゃん、おはよう! 検診はどうやったと?」

 あゆみが弾かれたように駆け寄り、両手で梓の指先をぎゅっと包み込む。その平熱より少し高い体温が直に伝わり、梓の強張った肩の力がふっと抜けた。あゆみの手は小さいが、驚くほど強い力で梓を現実に繋ぎ止めてくれる。


「先生、やさしかったじゃろ? なんか困っとったら、すぐ言うてな」

 美穂が委員長らしい仕草で頷きながら、躊躇うことなくハンカチを取り出し、梓の袖口についた埃をそっと払う。

(属性:世話焼きの長女気質。この自然なパーソナルスペースの詰め方、都会じゃありえない)

 梓は脳内でラベリングしながら、「ありがとう」と小さく呟いた。


「吉川先生は、ええ人とよ。僕も風邪んとき、すごう親切にしてもろたけぇな」

 健太が分厚いハードカバーを胸に抱えながら、ためらいがちに一冊の文庫本を差し出してきた。

「これ……東京の作家の短編集。好きなんや。もしよければ、読んでみんさい」


 受け取ってページを繰ると、古いインクと紙の匂いが、鼻腔の奥に眠っていた「活字中毒」のスイッチを入れた。


「ありがとう。これ、読みたかったやつだ」

 梓が声のトーンを上げて笑うと、健太の耳の先が、火を点けられたように真っ赤に染まった。その純粋すぎる反応に、梓は思わず吹き出してしまう。


「わたしも何か貸したい!」

 あゆみが対抗するように鞄を漁り、花柄の付箋がびっしりと貼られた単語帳を取り出した。

「これ、勉強のとき便利とよ!」


 朝の光が、付箋の蛍光色をきらきらと跳ね返す。

 その輪の中心に、自分が立っている。梓は不意に、目頭の奥が熱く重くなるのを感じた。東京の匿名の海で、誰にも見られずに凍りついていた心臓が、今、確実に血を送り出している。

 その事実が、こんなにも恐ろしく、そして愛おしいなんて。



 午後の授業は、学校から少し下った川べりの共同農地で行われた。

 都会のカリキュラムには存在しない、「農業体験」の実習だ。


 山の斜面を抉るように切り拓かれた畑。背丈を越えるトウモロコシが整然と隊列を組み、胡瓜の蔓が風に揺れている。赤く腫れ上がったようなトマトが鈴なりになり、むせ返るような青臭い草いきれが、夏の熱気とともに肺の底まで流れ込んできた。


 全校生徒三十人が一斉に並ぶ。

 農家の藤吉という男が、赤銅色に焼けた顔に深い皺を刻んで笑った。

「おう! 今日はわしの畑でうんと働いて、しっかり泥を喰って帰りんさい!」



「見て! おっきい!」

 初等部の子どもたちがトウモロコシのジャングルへ飛び込み、自分の背丈ほどある葉をかき分けて実をもぎ取る。

 中等部は胡瓜の棚へ。蔓を指で捻り切ると、ぽきんという乾いた音とともに、むき出しの青い匂いが弾けた。


「冷たうて、しゃきしゃきしとるじゃろ!」

 その場でかじりつき、顎を伝う滴を袖で乱暴に拭う。


 梓たち高等部は、一番奥のうねで新ジャガ掘りを任された。


「梓ちゃん、こっち一緒にやろうと!」

 あゆみが軍手をはめた手で泥を跳ね上げながら笑う。

「こっち側は土が重たいじゃろ? 僕がスコップ入れるけぇ」

 健太が額に汗をにじませ、不器用な手つきで土を掘り返す。

「梓ちゃん、こっちに力をかけて。……そうそう、上手になっとるとよ」

 美穂が的確な指示を出し、掘り出された芋の泥を親指で丁寧に拭い落とす。


 気づけば、梓の頬や髪にも容赦なく泥がこびりついていた。あゆみがわざと泥水を跳ねかけ、「ひゃー!」と叫んで逃げ回る。

 梓はとうとう腹の底から声を上げて笑った。


 東京の教室では、決して作ることのなかった表情。肺が酸欠になるほど笑い転げ、胸の奥が熱を帯びる。


 ふと視線を上げると、少し離れた畝の端で、清音が静かにこちらを見つめていた。

 いつもの陶器のような無表情が、ほんの数ミリだけ熱で溶かされている。風に揺れる黒髪の奥の瞳は、梓の笑い声を一つ残らず網膜に焼き付けようとするかのように、静かな光を宿していた。


 梓が泥だらけの手で額の汗を拭おうとしたとき、清音が音もなく距離を詰めてきた。


「……汚れてる」


 清音が白いハンカチを取り出し、梓の頬にこびりついた泥をそっと拭う。

 布越しに伝わる、雨上がりの森のような冷ややかな指の感触。

 ドクン、と。梓の心臓が、肋骨を内側から強く蹴り上げた。


「ありがとう……」

 急速に頬へ血液が集中していくのを感じながら、梓は震える声で礼を言う。清音はただ、唇の端をわずかに持ち上げた。梓はその瞳から視線を剥がすことができない。指先が触れるたび、肺の酸素が奪われ、呼吸が浅くなる。


 その時。

 二人のやり取りを、少し離れた場所からあゆみが見つめていた。

 泥だらけのスコップを握る手が、ピタリと止まっている。


「清音、梓ちゃんばっかり構うじゃないと」

 あゆみの声は普段通り明るく弾んでいたが、その奥に、ガラスの破片のような鋭い棘が混じっていた。

「みんなで一緒に作業したほうが楽しいとよ」


 あゆみは無理やり口角を引き上げる。だが、その黒い瞳の奥には、一切の笑みが浮かんでいなかった。



 梓が三つめの穴に指を差し込んだときだった。

 爪の先に、ひやりと冷たく、滑らかなものが触れた。


 土を払う。

 黒い泥の中から、白い球体が半分だけ顔を覗かせていた。

 表面には細い赤い筋が不気味に走り、中心の黒い染みが、瞬きもせずに真っ直ぐに梓を見つめ返している。


(……人間の、眼球?)


 心臓が不整脈を起こし、耳の奥で、ちゃぷり、と水音がした。


「……清音」


 隣で無言で草を引いていた清音の袖を、梓は痙攣する指で掴んだ。

「なに?」

 清音は平然と覗き込み、極薄の笑みを浮かべた。


「ジャガイモの根よ。ときどき、奇形になって人の顔や眼球に見えることがあるの。大丈夫、驚くことじゃないわ」


 言われて目を凝らすと、そこには泥にまみれた歪な新ジャガの塊があった。赤い筋はただの傷であり、中心の黒い染みはえぐれた窪みだ。その下から、千切れた根が神経の束のように、にゅるりと伸びている。


(……そうだ。冷静になれ。ただの錯覚だ)

 梓は荒くなった呼吸を無理やり整えた。


 背後で、あゆみが「見て! こんな大きいの出たとよ!」と歓声を上げ、健太が「やっぱり本で読んだより大きいじゃろ」と図鑑を広げる。

 その騒がしくも温かい日常の音に、梓は大きく息を吐き出し、再び泥の中へ手を入れた。


 ――この村で、自分はもう一人ではない。

 この温もりに、身を委ねてしまってもいいのかもしれない。


 頭上には、抜けるような夏の青空が広がっていた。

 けれど、土の中で一瞬だけ梓を見つめた「白い眼球」のぬめりだけは、どれほど泥を拭っても、指先から消えることはなかった。



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