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村長の家

 胡瓜をくれた老婆――お福さんというのだと名前を教えてくれた、に連れられ、梓は村長の家へとたどり着いた。


 高い石垣の上にそびえ立つ平屋建ては、周囲の家屋とは明らかに作りが違っていた。黒光りする太い木の門がどっしりと口を開けており、見上げるだけで首の後ろが重くなるような威圧感がある。


「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」


 老婆は胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと叩くと、満面の笑みで手を振りながら来た道を戻っていった。小さな背中が坂の向こうへ消えるまで、梓はその場から動けなかった。


 一人残され、重々しい門と向き合う。

 無意識のうちに、泥のついた胡瓜を握る指先に力がこもっていた。この門をくぐれば、もう後戻りはできない。そんな重圧が冷たい空気と一緒に肌にまとわりついてくる。


 意を決して敷地へ足を踏み入れると、庭一面に敷き詰められた白い砂利が、靴の裏でじゃりじゃりと甲高い音を立てた。立派な枝ぶりの松の木が風に揺れるほかは、生活の気配というものが一切ない。自分の足音だけがやけに響き、梓は肩をすくめた。


 玄関の重い引き戸を開けると、土間のひんやりとした空気が足元を撫でる。磨きこまれた板の間の奥から、地を這うような太い声が響いた。


「弓子さんの娘さんじゃな。よぉ来た。まぁあがりんさい」


 姿を現したのは、五十を過ぎた大柄な男だった。深く刻まれた顔の皺と、穏やかに細められた目元。山のようにどっしりとした振る舞いには、有無を言わせぬ静かな威厳が備わっている。


「お邪魔します」


 短い挨拶とともに靴を脱ぐと、すぐに広い居間へと通された。

 張り替えられたばかりの新しい井草の匂いが鼻をつく。壁際に時代物の黒い箪笥が一つ置かれているだけで、座卓の上には湯呑み一つ出ていない。広すぎる空間の真ん中に、座布団が三枚だけぽつんと並べられていた。人が暮らす温度が感じられず、うっかり大きな声を出せば、そのまま畳の目に吸い込まれて消えてしまいそうだ。


「矢野梓です。どうかよろしくお願いいたします」


 座布団の端に正座し、梓は深く頭を下げた。


「わしは村長の虚木清一ちゅうもんじゃ。弓子さんとは、昔からの馴染みじゃけぇな」


 また母親の名前が出た。梓は膝の上でそっと拳を握りこむ。だが、清一の眼差しには不思議とこちらを包み込むような丸みがあり、強張っていた背中の筋肉が少しだけ緩んだ。


「ここはいい村じゃ。あんたが不自由なく暮らせるよう、色々準備してあるけんな。あんたのふるさとでもあるんじゃけん。気兼ねせず何でもいうてくれ」


 その時だった。

 ふわりと、清一の後ろから一人の少女が姿を現した。彼女は梓へ向かって静かに黙礼すると、残りの座布団にそよりと腰を下ろす。


「清音、新しか方じゃ。よう挨拶ばしてさしあげんさい」


 ――清音。


 梓の視界から、部屋の風景がすっと消え去った。

 陶器のように透き通った白い肌。重力をそのままなぞるように、まっすぐ落ちた艶やかな黒髪。セーラー服の襟元は一片の乱れもなく、背筋は定規を当てたように伸びている。まるで彼女の周りだけ、時間の流れが止まっているかのようだった。


 伏せられていた清音のまつ毛が上がり、深い黒色の瞳が真っ直ぐに梓を射抜く。

 底知れない、冷たい水をたたえた泉のような瞳。のぞきこめば、そのまま肺まで水で満たされて沈んでしまいそうになる。梓は無意識のうちに、小さく息を呑んだ。


「清音はわしの娘じゃ。あんたさんと同じ年頃じゃけぇな、学校も同じとこに通うことになるじゃろう」


 清一の声で、梓は弾かれたように我に返る。


「……よろしく」


 清音がわずかに桜色の唇を動かした。

 氷の表面を滑るような、澄み切った声が鼓膜を打つ。


 ドクン、と。

 梓の肋骨の奥で、葬式の日からずっと冷え切っていたはずの心臓が、一つ大きく跳ね上がった。


(なんだ、これ……?)


 得体の知れない熱が、胃の底から胸へと一気にせり上がってくる。息が浅くなる。このままでは自分が自分でなくなってしまうような焦燥感に駆られ、梓は反射的にカバンへ手を突っ込んだ。


 震える指先で小さなメモ帳と鉛筆を引ったくり、膝の上で乱暴にページをめくる。


『心拍数、急上昇。原因不明。目が、逸らせない』


 ミミズが這うような字で書き殴る。そうやって「観察者」としての自分を無理やりにでも取り戻さなければ、目の前の少女に心を全部持っていかれそうだった。


「あんたの住む家ぁ、もう用意しとるけぇ。弓子さんが昔おられた家じゃとよ。面倒ぁ村で見ちゃるけぇ、なんの心配もいらん。ここでゆっくり、傷ば癒やすとええ」


 鉛筆を握りしめたまま呼吸を整えようとする梓に、村長は父親のように穏やかな声音で語りかける。


「ああそうじゃ……ひとついうておかんといかんことがある」


 ふと、清一の目元から笑みがスッと消えた。


「なんでしょう」


「田舎の村じゃけえ、少しだけ面倒なしきたりがあってな。この村には、古うからの決まりがある」


 清一はまるで、遠い昔のわらべ歌でも口ずさむような、奇妙な抑揚で言葉を紡ぎ始めた。


「――夜道は中央を歩け。端に寄ってはならん。

 ――笑顔は三度、必ず交わすこと。

 ――そして、笑顔には笑顔を。

 これを守れば、怖いことは何ひとつ起こらん」


 梓はメモ帳の上で、ピタリと鉛筆の動きを止めた。

 夜道の中央? 笑顔を三度? 交通ルールやマナーの話ではない。明らかに異質な、儀式めいた響きがそこにはあった。


「……それは、どういう意味ですか?」


「まぁ、古い村じゃけぇ色々あるんじゃ。古くからの決まり事でな」


 清一はそれ以上説明する気はないらしく、話は終わりだとばかりに清音を振り返った。


「清音、この子の住む家に案内してあげんさい」

「はい」


 清音はこくりと小さく頷いた。肩先で揺れた黒髪の軌跡すら、やはり水の底のように静かだった。



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