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帰郷 弐

 バスが走り去ってしまうと、停留所には梓の小さな影だけがアスファルトに落ちていた。


 エンジンの重低音が山の向こうへ吸い込まれていくと、耳鳴りがするほどの静寂が押し寄せてくる。ひび割れた地面には白い砂利が散らばり、むき出しの土と青臭い草の匂いが鼻腔をくすぐった。


「……行っちゃった。本当に何にもないところ」


 停留所に立つサビだらけの標識を見上げる。時刻表の枠は九割方余白で埋まっており、週に一度だけ街と往復する便――今まさに梓を吐き出して去っていったバスの時間が、一つだけ印字されているだけだった。


 東京の、排気ガスと人工的な冷気にまみれた空気とは違う。肺の奥まで染み込んでくるような土の気配に、梓は無意識にカーディガンの襟元をかき寄せ、喉の奥をチリチリと鳴らした。


 ふと視線を落とすと、塗装の剥げたベンチの下に古い段ボール箱が置かれている。中には土のついたサツマイモや胡瓜が無造作に転がっており、濃厚な畑の匂いを放っていた。


「おや、あんたが新しい人じゃな」


 背後から唐突に声が落ちてきて、梓は肩を大きく跳ねさせた。振り返ると、腰を九十度に曲げた老婆が立っている。洗い晒しの紺の作業着に、色褪せた手拭いを頭に巻きつけていた。老婆は深い皺に覆われた顔で、目尻を幾重にも折りたたんで微笑むと、節くれだった手で箱から胡瓜を一本抜き出し、無防備に突き出してきた。


「遠いところ、お疲れさまやったのぅ。ずっと待っとりましたけぇな」


 見ず知らずの他人に、いきなり泥のついた野菜を差し出される。東京の生活では一度も経験したことのない距離感に、梓は手を出せずに数秒間瞬きを繰り返した。


「あ、ありがとうございます」


 かすれた声を絞り出し、ようやく胡瓜を受け取る。ひんやりとした表面の温度と、ざらつく土の粒子が手のひらに張り付いた。


「それより」


 老婆は満足そうに何度か首を縦に振り、顎で行く先を示す。


「村長さんのところまでお連れしとくけぇな。新しく来られた方は、まずご挨拶をしてもらうことになっとるんよ」


 そう言い残すと、返事も待たずに短い歩幅でさっさと歩き出してしまう。重いボストンバッグを置く前に、いきなり村長への挨拶に向かうのか。想定外の展開に戸惑ったものの、胡瓜を両手で握りしめたまま、梓は慌ててその後を追う。傾きかけた夕陽が、老婆の小さな背中と、それを追う梓の長い影を急な坂道に焼き付けていた。



 停留所からのなだらかな坂道を上りきると、視界が開けた。両脇には水を張った田んぼが果てしなく広がり、風が吹き抜けるたびに青い稲がざわざわと波打っている。


「おお、あんた、弓子ちゃんのおこさんか」


 突然、梓の足がアスファルトに縫い付けられたように止まった。心臓が肋骨を強く内側から叩きつける。なぜ、見知らぬ村人が母親の名前を知っているのか。


 田んぼのあぜ道からアスファルトに上がってきたのは、日焼けした中年の男だった。背中に分厚い布製の猟銃袋を背負い、右手には首の折れた山鳥の足を逆さに握っている。生温かい血と獣の匂いが風に乗って鼻を突き、梓は思わず息を止めた。


「弓子さんの若い時によぉ似とる。新しい生活は大変やろうけぇな。こいつ、今朝仕留めたばっかりじゃ。持って帰って食べんさい」


 男は白い歯を見せて笑い、だらりと垂れ下がった鳥の死骸を梓の顔の前へ突き出してきた。乱れた羽毛の間から、赤黒い染みが今にも地面に滴り落ちそうだ。梓は思わず後ずさりし、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。


「まあまあ庄助さん、新しい人にそげなもん渡したらいけんが」


 前を歩いていた老婆が慌てて戻ってくると、男の腕を両手で押さえ込んだ。


「胡瓜くらいならともかく、血のついたもんじゃ娘さんも怖がらすけぇ」

「はは、そりゃそうじゃ」


 庄助と呼ばれた男は大きな手で頭を掻き、山鳥を無造作に肩へ担ぎ直すと、ふたたび人懐っこい笑みを残して去っていった。その後ろ姿を見送ってから、老婆はにっこりと梓に向き直る。


「うちも弓子ちゃんには昔よう世話になったんよ。亡くなられたそうじゃな……」


 カチン。

 頭蓋骨の奥で、何かのスイッチが凍りつくような音がした。


 母親の死。その事実を、まだ他人の口から聞きたくなかった。蓋をしたばかりの真新しい傷口に素手を突っ込まれたように、呼吸の仕方を忘れて肺が痙攣する。だが、目の前に立つ老婆の細められた目には、一滴の悪気すら混じっていない。純粋な善意と哀れみが、梓から逃げ場を奪い去っていく。


「弓子ちゃんは本当に優しい子やったけぇな。あの子のお嬢さんなら、きっとこの村でもうまくやっていけるとよ」


 顔の筋肉は強張ったまま、わずかに首を横に振ることも、頷くこともできなかった。声帯は引きつり、のどの奥に言葉の塊がこびりついて落ちない。ただ鼻の奥にまとわりつく山鳥の血の匂いだけが、東京とは違う異質な現実として、梓の体を強く縛り付けていた。



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