断片|エピローグ「最後に」
最初に、この封筒を投函したのは誰だったのか。
その問いに答えるには、順番を正さなければならない。
まず、村へ行った。私は一人ではなかった。彼女と一緒だった。吉川から届いた手紙に、私は紙の上で応じようとしたが、彼女は違った。
「私も行く」
彼女はそう言って引かなかった。彼女はライター、私はルポライター。現場で空気を吸う私と、資料に潜る彼女。視点は違っても、並んで同じ道を歩いた。
村はすでに崩れていた。焦げた柱、黒く塗りつぶされた壁、冷えた灰。それでも資料を集めた。役場の控え、ノートの頁、写真の裏、診療所の記録。二人で黙って封筒に入れた。
紙は最初から湿っていた。触れると、指先が生き物の体温を吸い取られるように沈み、甘い匂いが喉の奥に溜まった。
――そして、にくゑに会った。
誰かの泣き声がした。幼い影がこちらを振り向いた気がした。その瞬間から、私の記憶は欠け始めた。彼女とどこまで歩いたのか、何を見たのか、どのページを拾い、どのページを落としたのか――白く上塗りされたように消えていった。
◆
今、私は机に座り、断片を整理している。
封筒から紙片を取り出し、年代順に、出来事ごとに、筆跡で束ね直す。順番を並べ替えるたび、凍っていた部分がわずかに溶けていく。
思い出す。
村へ行ったことを。彼女と並んで歩いたことを。封筒に押し込んだことを。あの影を。
そして、思い出す。
私は受け取ったのではない。このマンションのポストに投函したのは、私自身だった。
村から出て、意識も朦朧としたまま、村の外で気絶していた彼女を伴い、東京へと戻る。
そして――資料をまとめた封筒を自分自身で郵便受けに入れたのだ。
曖昧な記憶のまま、私は日常を取り戻した。
唯一の救いは彼女が無事だったことだろう。
あれから何度か話すことがあったが、彼女も恐怖のあまり記憶を失っていたようだ。
私と村に赴いたことすら覚えてはいない。
私も彼女を悪戯に刺激したくはないと、あのことは話さなかった。
――悪夢は言葉の形でやって来る。夜ごと、枕元で囁きが積もる。
おかあさん――誰に向けられた声なのか、私は分からない。だが、その声に反応する私の手が、時々、他人のものに見える。
指の腹に小さな口が生え、紙の粉を啜っている錯覚。鏡に映る自分の喉の奥で、何かが影のまま呼吸している。
私はようやく気づいた。私もまた汚染の輪の中にいる。受け取ってからではない。封筒を作ったときから、もう。
恐らく、あの村であれに出会った時から。
だから、ここから先は希望を託す。
私が順番を並べ直し、すべてを書き残し、そして――彼女に託す。彼女は有能なライターであり作家だ。資料を集め、目で見て、言葉で世界を固定できる。 私にはもうできなくなったことが、彼女ならまだできるかもしれない。
あそこで遭った恐怖の記憶を揺り起こすことは本意ではないが、もう彼女しかいない。
私よりもずっと商業出版の実績がある彼女なら。
――それが原因で喧嘩もしたな。
くだらない私の劣等感のせいだ。
だが彼女なら。
そう、これを記事に。
あるいは小説に。
人の目に触れ、警告をつくることが彼女になら。
夜道を歩く。手の中で封筒が脈を打つ。
懐かしい彼女のマンションの前に立つ。
表札の文字が夜気ににじんだ。私はポストの金属の口を開く。封筒を差し入れる。落ちる音が腹の底で響く。
これが、私に残された最後の希望だ。
闇の中で、封筒は静かに息を吸ったようだった。
◆
夜の街を彷徨う。
人目を忍び、誰もいない路地から路地へ。
生き物に出会ってはいけない。
意識は随分と朦朧としていて、常に酒に酔っているようだ。そして頭の中には常に声がしている。
腹にも目が生えてきた。肩には口。
私が人でいられる時間も、そうは長くないだろう。
このままだと、私自身が感染源になる。
病院に行くことも考えた。
しかし無理だ。真っ先に診察した医者が感染する。
そしてその時、私が私でいる保証はどこにもない。
――そして今、私は実家のガレージにいる。
最後の力を振り絞り、準備を整えるために。
目の前にはガソリンが詰め込まれた一斗缶。地下のここなら火災が広がることもなく、私だけを、にくえだけを焼くことができるだろう。
ああ、こんなことならさっさとヨリを戻しておけば良かった。
未練がましいが、私はまだ彼女を愛している。
手の甲に生えた口が、にやりと笑みを浮かべたようだった。
だが、考えてみれば、創作者の端くれとしてはこれで良かったのかも知れない。
私の集めた資料は、きっと世界を揺るがす。
それは本望だと言えることかも知れない。
君と私の創作物が、世界を変えるかも知れない。
あるいは世界が変わるのを止めてくれるかも知れない。
それを見ることが出来ないのが残念だが――。
どちらにしても、現実を歪めるほどの創作になるに違いない。
私の思いに呼応してか、手の甲に浮かんだ口がまたにやりと笑みを浮かべる。
だが、ここまでだ。
――後のことは頼む。
君になら、きっと……。
そう心の中で呟いて、私はライターに火をつけた。




