断片|覚え書き
【散らばっていたメモ】
八月二十八日
先生は朝に強くない。
診療所の戸を叩くと、ようやく眼鏡をかけた顔を覗かせる。
寝癖のついた髪を見ていると、
宗次さんが若い頃、釣りから帰ってきた朝を思い出す。
人の世話を焼くのは、嫌いじゃない。
でも先生は、もう少し自分のことを大事にしてほしい。
九月五日
診療所の棚の上に、飲みかけの瓶がいくつも並んでいる。
薬なのか、ただの水なのか、わたしには分からない。
掃除をしても、またすぐに散らかる。
先生は「整理が苦手で」と笑っておられた。
どこか、生活の形を見失っている人の笑い方だ。
茶を淹れると、少しだけほっとされたような顔をなさった。
九月十七日
夕方、雨が降り出した。
先生は白衣のまま外に立ち、雨を見ていた。
声をかけると、「この音を聞くと安心するんです」と言われた。
わたしには少し、寂しそうに聞こえた。
宗次さんがいなくなってから、
わたしもよく雨の音を聞く。
そのうち、誰かの呼ぶ声が混じってくる。
十月二日
先生はすぐに食事を忘れる。
昼に粥を出すと、「もう夜かと思いました」と言われた。
この人は時の流れが苦手なんだと思う。
過去と今のあいだで、迷っているように見える。
世話の焼ける弟のようだ。
年上だけれど。
宗次さんがいたら、
「そんな若造はほっとけ」と言うだろう。
でも、放っておけるほど冷たくもなれない。
十月十九日
山の色が深くなってきた。
先生は少し風邪気味で、
咳をしながらもカルテを離さない。
「書いておかないと、何かが消える気がする」と言われた。
わたしには、その“何か”が何なのか分からない。
でも、あの人の書く字が日に日に細くなっていくのが怖い。
宗次さんも、いなくなる前は同じだった。
少しずつ、声が細くなっていた。




