断片資料|【肉依録考:犠牲の逆転】
『肉依録考』巻ノ五「供犠論」より抜粋(著:安志 観草/明治四三年・私家版)
神とは本来、飢えるものではない。
神とは、満たされたがゆえに超越的であり、ゆえに崇拝の対象となる。
だが、にくゑの伝承においては奇妙な逆転が見られる。
神は飢え、神は求め、神は与えられねばならぬ。
しかもその代価は「肉」である。
各地の伝承を収集し、仔細に検討するに、にくゑとは“供物を食す神”ではない。
“肉を与える神”である。しかもその肉は、際限なく湧き出すという。
飢饉の時代、村の真中に忽然と現れた肉塊。温かく、柔らかく、どこを切っても血が滲み、また元通りに戻る。
それを“神の恵み”と信じた村人は、祈ることをやめ、育てることをやめ、ただ喰らった。
こうして、神への“供犠”という概念が崩壊する。
捧げるのではない。奪い取るのでもない。ただ“与えられ続ける”。
この構造において、信仰とは退化する。人の魂は神の従属物となり、祈りの回路は“渇望”へと姿を変える。
さらに恐るべきは、この神が与える“肉”が、単なる養分ではない点だ。
その肉を食した者の中には、奇妙な夢を見る者がいる。
誰かの記憶が流れ込むような、異なる肉体に宿るような、あるいは“肉そのもの”に変じてゆくような……。
私はこの現象を、「依代逆転」と呼ぶ。
通常は人が神を迎える器たる“依代”であるが、
にくゑの場合は神が人を“依存体”として育てようとしているのではないか。
供犠を捧げるのではない。人間が供犠に“育てられる”のだ。
ここに、にくゑ信仰の異端性がある。
これは宗教ではない。
肉を媒介とした、意志ある構造そのものである。




