第99話 それぞれの役割
世界は、まだ揺れていた。
大きく崩れるほどではない。
だが、選択と結果の間に、ほんのわずかな遅れや誤差が残っている。
それは致命的な不具合ではなく――
調整の途中に生まれる、避けられない揺らぎだった。
それでも、世界は止まっていない。
そのことを、カイは足元から感じ取っていた。
地面の硬さ。
空気の流れ。
遠くで誰かが下した選択が、時間差で世界に反映される感触。
すべてが、まだ生きている。
背後に立つ気配は、すでに薄かった。
輪郭は揺らぎ、
存在そのものが、この世界に固定されることを拒んでいる。
ここに“居続ける”ために作られていない。
その事実だけが、静かに伝わってくる。
「……君は、ここまでなんだな」
カイは振り返らずに言った。
問いではなかった。
確認でもない。
確信に近い、受け入れの言葉だった。
「ええ」
ティアの声は、驚くほど穏やかだった。
「私は、この世界に長く留まるようには作られていない」
そこには拒絶も、名残惜しさもない。
役割の違いを、ただ事実として述べているだけだった。
しばらく、沈黙が落ちる。
世界の遠くで、誰かが何かを選び、
その結果が遅れて返ってくる気配がした。
成功か、失敗か。
まだ確定していない未来が、静かに世界を揺らす。
「……ひとつ、聞かせてくれ」
カイは、ゆっくりと問いを投げる。
「君は、何者なんだ」
名前が欲しいわけではない。
正体を暴きたいわけでもない。
ただ――
彼女が、どこから来て、
なぜ自分のそばに立っていたのかを知りたかった。
ティアは、すぐには答えなかった。
その姿が、わずかに揺れる。
まるで、ここではない別の場所と、
同時に存在しているかのように。
「私は……」
言葉を選び、静かに続ける。
「止まったままの人を見つけて、
そこから連れ出す役目を持つ者」
それだけだった。
英雄でもない。
管理者でも、裁定者でもない。
「世界は、まだ未完成」
ティアは、遠くを見るように語る。
「完全に整っていないからこそ、
時々、進めなくなる人が生まれる」
努力が足りないわけでも、
選択を誤ったわけでもない。
「構造の歪みに引っかかって、
本来進めたはずの時間を失う人がいる」
カイは、無言で頷いた。
自分が、まさにそうだったからだ。
止められ、閉じ込められ、
世界から“進む権利”を奪われていた。
「私は、そういう人を見つけるために作られた」
“作られた”という言葉が、わずかに引っかかる。
「……作られた?」
ティアは、微かに笑った。
「私は、ここに“直接”存在しているわけじゃない」
その言い方が、すべてを語っていた。
「本来の私は、
もっと上の層にいる」
その場所の名前は、語られない。
だが、そこがこの世界とは異なる階層であることだけは、はっきりしていた。
「そこから、
この空間に干渉するための形として、
私は用意された」
仮の身体。
仮の存在。
だが、役割は本物だ。
カイが止まり続けないために、
確かに、ここに在った。
「役目が終われば、
私は元の場所へ戻る」
消えるのではない。
切断されるわけでもない。
ただ、帰るだけだ。
「……世界の外へ、か」
「正確には、“外”じゃないわ」
ティアは、はっきりと言う。
「世界の続きを、見渡せる場所」
それ以上は、語られなかった。
カイは、深く息を吐く。
「俺は、もう止まる役じゃないんだな」
「ええ」
迷いのない答えだった。
「あなたは、もう世界を止めるための存在じゃない」
かつては、
誰かが止まることで、
他が進める構造だった。
だが今は違う。
「あなたは、不完全な世界を進む側に戻った」
それは、責任でも罰でもない。
ただの配置換え。
役割が、正しい場所に戻っただけだ。
「……別れだな」
「ええ。でも」
ティアは、ほんの少しだけ間を置く。
「終わりではない」
約束はしない。
再会を保証する言葉もない。
それでも――
役割は、途切れていない。
ティアの姿が、ゆっくりと薄れていく。
世界の縁へ。
この層では、もう触れられない場所へ。
「追わないの?」
からかうような声。
カイは、首を振った。
「今は、俺の場所じゃない」
追えば、
どちらかが役割を誤る。
それだけのことだ。
ティアは、満足そうに微笑んだ。
「その判断ができたなら、
もう大丈夫」
次の瞬間、
彼女の姿は、完全に世界から溶け落ちた。
痕跡は残らない。
だが、意味は消えない。
世界は、変わらず揺れながら進んでいる。
カイは、足を止めない。
止まらない。
追わない。
それぞれの役割は違う。
だが、同じ未完成の世界を支えている。
ティアは、もとの場所に帰った。
だが、もう二度と会えないとは思えなかった。
理由はない。
確証もない。
それでも――
また、再会する。
――そのことを、
カイはなぜか、確信していた。




