第98話 再会
世界は、動いていた。
それを最初に理解したのは、音だった。
風が、どこかで流れる。
草を撫で、瓦礫の隙間を抜け、空気そのものを揺らす音。
遠くで、何かが崩れる微かな振動が、時間差で耳に届く。
それらは、ばらばらではなかった。
ちゃんと“順番”を持って、カイの感覚に流れ込んでくる。
――進んでいる。
その事実を理解した瞬間、
カイは一歩も動けなくなった。
足元には確かな地面があり、
空には雲が浮かび、それは留まることなく形を変えていく。
光は、進むたびに影を連れ、影は遅れてそれを追う。
止まっていない。
待ってもいない。
世界は、カイを置き去りにすることなく、
それでいて、特別扱いすることもなく――
ただ、当たり前のように動いていた。
「……戻った、のか」
声を出した瞬間、
自分の喉が震え、空気が揺れ、その振動が返ってくる。
――返ってくる。
それだけのことが、
どうしようもなく胸の奥を熱くした。
ここは、元の世界層。
自分が、確かに生きていた場所。
だが、すべてが以前と同じではない。
景色は変わっていないのに、
世界の噛み合わせが、ほんの少しだけずれている。
世界は動いている。
それでも――完全ではない。
「カイ……?」
背後から、声が届いた。
たったそれだけで、
思考という思考が、一瞬で吹き飛ぶ。
振り返るよりも早く、
“名前を呼ばれた”という事実が、胸に突き刺さった。
止まった世界では、
名前はただの記号だった。
呼ばれても、意味を持たず、
応える相手もいなかった。
「……ああ」
返事は、かろうじて形を保った。
喉が詰まり、
たった二文字が、異様なほど重い。
仲間たちが、そこにいた。
数は変わらない。
顔立ちも、声も、大きくは変わっていない。
それなのに――
どこか、距離がある。
「どこ行ってたんだよ」
冗談めいた声。
責めるでもなく、問い詰めるでもない。
「気づいたら、いなかった」
「ずっとじゃないんだけどさ……
なんか、抜けてた感じがして」
彼らは、
カイが消えていた時間を“長い空白”としては認識していない。
数日か、あるいは数瞬。
その程度の、説明しづらい違和感。
だが――
「説明できないんだけどな」
誰かが、言葉を探すように続ける。
「何か、大事なピースが
ずっと足りなかった気がするんだ」
その一言で、
胸の奥が、強く締め付けられた。
自分は、
止められていただけではない。
世界から――
“欠けさせられていた”。
カイは、一歩踏み出す。
距離が縮まる。
躊躇は、なかった。
肩に、手が置かれる。
確かな重さ。
皮膚越しに伝わる体温。
「……ちゃんと、触れるな」
思わず漏れたその言葉に、
仲間の一人が小さく笑う。
「当たり前だろ」
だが、それは当たり前ではなかった。
止まった世界では、
触れられることも、触れることもなかった。
重さ。
体温。
わずかな力の加減。
それらすべてが、
“同じ時間を共有している”という、何よりの証明だった。
胸の奥で、
固く絡まっていた何かが、静かにほどけていく。
――戻ってきた。
止まった存在ではない。
世界の外側でもない。
ただの一人として、
再び、この場所に立っている。
仲間たちの様子も、
以前とはわずかに違って見えた。
判断は、前より早い。
そのぶん、失敗も増えている。
小さな混乱が、あちこちに残っている。
「最近さ、うまくいかないこと増えたよな」
「でも、前より息はしやすい」
その言葉に、
カイは何も言わず、ただ頷いた。
完璧だった世界は、もうない。
選べば、必ず結果が返ってくる。
それは時に、痛みになる。
それでも――
停滞よりは、ずっといい。
カイは、空を見上げる。
雲の流れは不揃いで、
形を崩しながら、好き勝手に進んでいる。
だが、それが妙に現実的だった。
(完全じゃない……)
心の中で、そう呟く。
それでも、不思議と嫌悪はなかった。
むしろ、
それでいいと、素直に思えた。
欠けることもある。
失敗もある。
選んだ結果、傷つくこともある。
それでも、進める。
それが――
“生きている世界”だ。
ふと、視界の端で揺らぎが走る。
世界の縁。
輪郭が曖昧になる場所。
そこに、見覚えのある気配があった。
姿は定まらず、
存在そのものが、薄れつつある。
――ティア。
彼女は、こちらを見ているようで、
もう見ていないようでもあった。
役目を終え、
次の場所へ向かおうとする存在。
「……ありがとう」
カイは、声に出さず、確かにそう告げた。
揺らぎは、静かに遠ざかる。
世界の外へ、あるいは――
次の観測点へ。
そして世界は、
何事もなかったかのように進み続ける。
だが、確かに変わった。
止められることで保たれていた均衡は崩れ、
選択によって進む流れが、再び戻った。
カイは、仲間たちの中へと戻る。
同じ時間を生きるために。
世界は、もう完璧ではない。
――それでも、前よりずっと、生きている。




