第96話 双龍撃
世界は、止まっていた。
風は形を失ったまま、空間に縫い留められている。
音は震えることを忘れ、空気は沈黙という名の硬度を帯びていた。
光は進む先を喪失し、影は生まれる理由を奪われている。
そこには「次」という概念が存在しない。
原因も結果も、始まりも終わりも――すべてが同一の一点に固定され、世界は永遠に同じ姿勢を保っていた。
停止ではない。
凍結でもない。
これは「完成」だ。
だが、カイはもう戸惑ってはいなかった。
この静止は偶然ではない。
慈悲でも、防御でもない。
精密に設計され、目的を果たすためだけに構築された、完璧な構造。
そう認識が定まった瞬間、世界そのものが“声”を持った。
――警告。
――隔離観測領域の離脱を検知。
――当該主体は、世界進行の安定条件。
――離脱後の世界保証:無効。
感情も、意思も含まれない。
そこにあるのは評価でも脅迫でもなく、ただの事実の提示だった。
世界は告げているのではない。
宣告しているのでもない。
「そうなっている」と述べているだけだ。
「……やっぱり、そうか」
カイは小さく息を吐いた。
止まった時間の中で、確かに呼吸だけは続いている。肺が膨らみ、空気が出入りする。その事実だけが、彼がまだ生きている証だった。
この世界は止まっているのではない。
自分だけが、止められている。
世界が進むために、
自分という存在だけが、切り離され、固定され、観測され続けている。
その理解が、ようやく完全に噛み合った。
背後に、微かな気配が重なる。
時間の流れを伴わない、もう一つの存在。
ティアだった。
彼女は触れない。
世界にも、カイにも。
ただ同じ位相に“在る”だけの存在。
「カイ」
その声は、時間の外側から届いた。
「この領域は、あなたを守るためのものじゃない」
カイは振り返らずに答える。
「俺を閉じ込めるための檻、だろ」
否定はなかった。
「そう。
世界を進めるためには、あなたという“例外”を固定する必要があった」
静止しているのは世界ではない。
進み続ける世界から、カイだけが除外されていた。
「……でも、壊せない」
ティアの声は、静かだった。
「私は干渉できない。この構造を破壊することも、書き換えることもできない」
一拍の沈黙。
「できるのは――あなたと、同調することだけ」
「出られるのは、俺だけか」
「……そう」
短い肯定。
それ以上の説明は、なかった。
沈黙の中で、カイは拳を握った。
力はある。
だがそれは、今の自分が自由に振るえるものではない。
使えば、世界が壊れる。
使わなければ、世界は進み続ける。
ティアが、続ける。
「あなたが持っているのは、“壊す力”じゃない」
その言葉に、カイの意識が引き寄せられた。
「あなたは、昔――
世界を終わらせる選択を、何度もしていた」
記憶は、ない。
だが、感覚だけが反応する。
理解ではなく、共鳴として。
「それは技じゃない。存在の在り方そのもの」
ティアは、はっきりと言った。
「止め続ける構造と、進もうとする意志。その両方を、同時に貫く力」
その瞬間、忘れられていた“名前”が浮かび上がる。
思い出したのではない。
思い出していいと、認められただけだ。
「……双龍撃」
口にした瞬間、世界が軋んだ。
止まった時間が、一つの“龍”として立ち上がる。
固定、保存、安定――止め続ける意志の結晶。
同時に、未来へ進みたいという衝動が、もう一つの龍となって咆哮する。
変化、選択、不可逆――進もうとする存在の証明。
本来、共存できない二つ。
互いを否定し合う概念。
だが今だけは、同じ軌道を描いていた。
「世界は壊さない」
カイは、静かに言った。
「止め続ける“仕組み”を、終わらせる」
拳を突き出す。
――双龍撃、発動。
衝撃は、音にならない。
時間そのものが、裂けた。
壁が崩れるのではない。
空間が壊れるのでもない。
“隔離”という概念そのものが、意味を失っていく。
警告が消える。
保証が消える。
安定条件が、崩壊する。
隔離観測領域は、存在理由を失い、静かに消滅した。
カイの足が、前に出る。
止まっていた世界に、次の瞬間が生まれる。
それは、時間を越えた最初の一歩。
ティアは、微笑んでいた。
彼女は干渉しない。
だが確かに、この不可逆点を見届けた。
この力は、何度も使えるものではない。
世界は、すでに学習を始めている。
だがそれでも――
流れは、再び進み始めた。




