第92話 止まっているのは誰か
街は、外へ続いている。
そう思えるだけの情報は、すべて揃っていた。
道路はまっすぐ伸び、建物の密度は徐々に下がり、遠景には人工物の少ない輪郭が見える。
「ここから先が街の外だ」と、誰かに教えられなくても分かる配置だった。
だからカイは、歩いた。
目的は単純だ。
街を出る。
ただ、それだけ。
一歩。
二歩。
足は確かに前に出ている。
重心も移動している。
なのに——
景色が、切り替わらなかった。
電柱の位置。
舗道の割れ目。
看板の影。
すべてが、さっきと同じ場所にある。
「……?」
カイは立ち止まり、振り返る。
背後も同じだ。
進んだはずの距離が、存在していない。
まるで背景だけが固定されたまま、身体だけを動かされているような感覚だった。
「今の、見た?」
問いかけると、隣にいたティアはあっさりと頷いた。
「うん。見てたよ」
「じゃあ……俺、進めてない?」
ティアは少しだけ考える素振りを見せてから答える。
「進もうとは、してるね」
その言い方が、妙に引っかかった。
「……どういう意味だ」
ティアは答えず、同じ方向へ歩き出した。
街の外へ。
数歩。
十数歩。
彼女の背中は、確実に遠ざかる。
それと同時に、景色が変わった。
舗装の粗い道路。
建物の間隔が開き、遠景の解像度が一段、落ちる。
“外”だ。
ティアは振り返り、軽く手を振った。
「ほら。普通に出られるよ?」
カイの喉が鳴った。
同じ空間にいる。
同じ方向に進んでいる。
なのに、結果だけが違う。
もう一度、歩く。
意識して。
確かに、前へ。
——瞬間。
視界が揺れた。
ノイズのような違和感が走り、次の瞬間、カイは元の位置に立っていた。
出発点。
街の内側。
距離は、ゼロに戻されている。
「……戻った?」
声が、わずかに掠れる。
ティアは、街の外からこちらを見ていた。
距離があるはずなのに、妙に近い。
「うん」
彼女は静かに言った。
「戻されたね」
その言葉で、はっきりした。
これは偶然でも、錯覚でもない。
制限だ。
視界の端に、文字列が浮かび上がる。
――領域固定:有効
――観測対象:環境
――移動主体:制限中
カイは、息を吐いた。
「……完全に、観測ログだな」
言葉にした瞬間、ティアがぴたりと動きを止めた。
「ねえ、カイ」
少し低い声。
「今、なんて言った?」
「え?
だから、観測ログが——」
言いかけて、止まる。
ティアは、じっとこちらを見ていた。
責めるでもなく、驚くでもない。
ただ、確認する目。
「それさ」
彼女は静かに言う。
「“観測ログ”って言葉、いつから使ってる?」
思考が、一瞬、空白になる。
「……最初からだろ?」
そう答えながら、胸の奥がざわついた。
本当に?
ティアは首を横に振る。
「違うよ」
即答だった。
「最初はね、“変な表示”とか、“意味不明な文字”って言ってた」
記憶が、遅れて追いつく。
確かに、そうだった。
最初は、構造も意味も分からなかった。
「でも今は違う」
ティアは続ける。
「説明しなくても通じる前提で使ってる。
それも、当たり前みたいに」
カイは、言葉を失った。
観測ログ。
領域固定。
移動主体。
どれも、本来なら理解の過程が必要な言葉だ。
なのに自分は、自然に使っていた。
まるで——
最初から、その言語で思考していたかのように。
「ねえ、カイ」
ティアの声が、少しだけ柔らぐ。
「君さ。
閉じた世界を観測してるつもりなんだよね?」
カイは答えられない。
「でもね」
彼女は街を見渡す。
「ここ、
“閉じられてる世界”じゃないよ」
一拍。
「“閉じ込められてる人”がいる場所」
観測ログが、再び脳裏に浮かぶ。
固定されているのは、領域。
制限されているのは、移動主体。
世界は動いている。
外へも、先へも進める。
——自分以外は。
カイは、ようやく気づく。
止まっているのは、世界じゃない。
時間でもない。
観測していると思っていた“自分”が、
最初から、そこに固定されていただけだ。
止まっているのは。
——誰か。
その「誰か」を思い浮かべようとして、
思考が、わずかに引っかかった。
「……ティア」
名前を口にした瞬間、
ティアの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
驚きではない。
否定でもない。
“確認された”という反応。
「ねえ、カイ」
彼女は静かに言う。
「私さ。
まだ、名前――名乗ってないよね?」
空気が、凍る。
「……え?」
喉から漏れた声が、自分のものに聞こえなかった。
「初めて会った時も。
ここに来た時も。
私は一度も、“ティア”って言ってない」
否定できない。
反論も、説明も浮かばない。
だって——
最初から、そう呼んでいた。
疑問にすら、思わなかった。
名前を知っていることが、
前提として思考に組み込まれていた。
「どうして分かるの?」
ティアは責めない。
ただ、淡々と問いかける。
「どうして、
“名前がある”って、最初から知ってたの?」
観測ログの文字列が、
再び、脳裏に浮かび上がる。
――観測対象:環境
――移動主体:制限中
――個体識別子:未定義
未定義。
彼女の名前は、どこにも存在しない。
それなのに、自分は知っている。
最初から。
疑う余地もなく。
「……俺は」
声が、震えた。
「俺は、
何を“観測してるつもり”だったんだ?」
ティアは、ゆっくりと首を振る。
「違うよ、カイ」
優しい声だった。
「君はね。
観測してたんじゃない」
一拍。
「固定された観測点として、
そこに置かれてただけ」
街は、外へ続いている。
世界は、進んでいる。
止まっているのは――
観測者だと思い込んでいた、
カイ自身だった。




