第91話 君が見ている世界
世界は、何事もなかったかのように動き出した。
あの停止は、夢だったのかと錯覚するほど自然に。
人々は歩き、声を交わし、街路樹の葉は風に揺れている。信号は規則正しく色を変え、遠くで救急車のサイレンが鳴り、誰かの一日が確かに続いている。
フリーズは解除された。
世界は、正常に再開した。
――はずだった。
カイは歩き出そうとして、ほんの一瞬、躊躇した。
足が地面に触れる感覚が、遅れてやって来る。
わずかな違和感。
だが、それは確実に存在した。
周囲の人間たちは、迷いなく進んでいる。誰も立ち止まらない。誰も異常に気づかない。
なのに、カイだけが、世界の流れに置き去りにされているような感覚を覚えた。
一拍、遅れる。
足音。
呼吸。
瞬き。
音が、先に鳴る。
人の動きが、先に完了している。
目の前の男性が振り返るよりも前に、振り返った“結果”が視界に入る。次の瞬間、遅れて首の回転が追いつく。
——違う。
世界が速いんじゃない。
カイは無意識に周囲を見回した。
街はいつも通りだ。完璧に、日常だ。
だが、自分だけが“後”にいる。
心拍が、半拍遅れる。
思考が、現実を追いかけている。
まるで、再生速度を間違えた映像の中に紛れ込んだみたいだった。
「……気のせいだ」
そう呟いた声も、微妙に遅れて耳に届いた。
その瞬間、視界の端に薄い文字列が浮かび上がる。
観測ログ。
これまで、異常が起きた際にだけ現れていたはずの情報層が、今回は明確な警告を伴って表示された。
――現在時刻:同期失敗
――観測主体:固定
カイは立ち止まる。
同期失敗?
視線を凝らすが、ログはそれ以上の説明をしない。ただ、冷たい事実だけを突きつけてくる。
「固定」という単語が、胸の奥に引っかかった。
何が、固定されている?
世界は動いている。
人々も、時間も、出来事も。
事件は起き、解決され、誰かの物語が更新され続けている。
なのに、自分だけが、その流れに噛み合っていない。
カイは歩き出す。
だが、どれだけ意識しても、世界の“先”に追いつけない。
常に、半歩後ろ。
視界に映るものは、すでに起こった結果だ。
原因は、いつもその後から理解される。
背中に、寒気が走る。
これは、フリーズの後遺症なのか?
それとも——。
「ねえ」
隣から、声がした。
ティアだった。
彼女は相変わらず、周囲の異常に溶け込むように自然に立っている。まるで、この状態が“当たり前”であるかのように。
カイは反射的に言い返す。
「大丈夫だ。ちょっと、感覚がズレてるだけで——」
「違うよ」
ティアは、カイの言葉を遮った。
声は小さく、しかし妙に確信を帯びていた。
彼女は、世界を見渡す。
人々の流れ。
進み続ける時間。
何一つ止まっていない現実。
「これ、世界が止まってるんじゃない」
カイは、思わず笑いかけた。
「分かってる。もう動いてる。ほら、何も問題ない」
だが、ティアは首を振らなかった。
代わりに、少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「ねえ、カイ」
その呼び方が、妙に重く響く。
「君はさ……
“今”を見てるつもり、なんだよね?」
その問いに、即答できなかった。
見ている。
確かに、見ている。
だが——。
ティアは続ける。
「でもね。
それ、本当に“世界”を見てる?」
カイの胸に、言葉にならない違和感が積もる。
これまで、疑ったことはなかった。
止まったのは世界だと。
異常なのは外側だと。
だが今、初めて別の可能性が脳裏をかすめる。
——もし。
止まっていたのが、世界ではなく。
動けなくなっていたのが、自分自身だったとしたら?
観測ログの警告が、再び脳裏に蘇る。
――観測主体:固定
固定されているのは、世界じゃない。
時間でもない。
“観測している側”だ。
カイは、自分の手を見る。
確かに動く。
だが、その動きは、いつも世界の後を追っている。
理解が、半拍遅れる。
実感が、半拍遅れる。
そして気づく。
自分は、追いつけないのではない。
最初から、置いて行かれていたのだ。
世界は、ずっと進んでいた。
止まっていたのは——
“君が見ている世界”の方だった。




