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『アーク層の追放者 ―カイ・ラグナロック英雄戦記―』  作者: kaiくん
第5章 止まった世界の外側へ

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第91話 君が見ている世界

 世界は、何事もなかったかのように動き出した。


 あの停止は、夢だったのかと錯覚するほど自然に。

 人々は歩き、声を交わし、街路樹の葉は風に揺れている。信号は規則正しく色を変え、遠くで救急車のサイレンが鳴り、誰かの一日が確かに続いている。


 フリーズは解除された。

 世界は、正常に再開した。


 ――はずだった。


 カイは歩き出そうとして、ほんの一瞬、躊躇した。

 足が地面に触れる感覚が、遅れてやって来る。


 わずかな違和感。

 だが、それは確実に存在した。


 周囲の人間たちは、迷いなく進んでいる。誰も立ち止まらない。誰も異常に気づかない。

 なのに、カイだけが、世界の流れに置き去りにされているような感覚を覚えた。


 一拍、遅れる。


 足音。

 呼吸。

 瞬き。


 音が、先に鳴る。

 人の動きが、先に完了している。


 目の前の男性が振り返るよりも前に、振り返った“結果”が視界に入る。次の瞬間、遅れて首の回転が追いつく。


 ——違う。

 世界が速いんじゃない。


 カイは無意識に周囲を見回した。

 街はいつも通りだ。完璧に、日常だ。


 だが、自分だけが“後”にいる。


 心拍が、半拍遅れる。

 思考が、現実を追いかけている。


 まるで、再生速度を間違えた映像の中に紛れ込んだみたいだった。


「……気のせいだ」


 そう呟いた声も、微妙に遅れて耳に届いた。


 その瞬間、視界の端に薄い文字列が浮かび上がる。


 観測ログ。


 これまで、異常が起きた際にだけ現れていたはずの情報層が、今回は明確な警告を伴って表示された。


 ――現在時刻:同期失敗

 ――観測主体:固定


 カイは立ち止まる。


 同期失敗?


 視線を凝らすが、ログはそれ以上の説明をしない。ただ、冷たい事実だけを突きつけてくる。


 「固定」という単語が、胸の奥に引っかかった。


 何が、固定されている?


 世界は動いている。

 人々も、時間も、出来事も。


 事件は起き、解決され、誰かの物語が更新され続けている。

 なのに、自分だけが、その流れに噛み合っていない。


 カイは歩き出す。

 だが、どれだけ意識しても、世界の“先”に追いつけない。


 常に、半歩後ろ。


 視界に映るものは、すでに起こった結果だ。

 原因は、いつもその後から理解される。


 背中に、寒気が走る。


 これは、フリーズの後遺症なのか?

 それとも——。


「ねえ」


 隣から、声がした。


 ティアだった。

 彼女は相変わらず、周囲の異常に溶け込むように自然に立っている。まるで、この状態が“当たり前”であるかのように。


 カイは反射的に言い返す。


「大丈夫だ。ちょっと、感覚がズレてるだけで——」


「違うよ」


 ティアは、カイの言葉を遮った。

 声は小さく、しかし妙に確信を帯びていた。


 彼女は、世界を見渡す。


 人々の流れ。

 進み続ける時間。

 何一つ止まっていない現実。


「これ、世界が止まってるんじゃない」


 カイは、思わず笑いかけた。


「分かってる。もう動いてる。ほら、何も問題ない」


 だが、ティアは首を振らなかった。

 代わりに、少しだけ困ったような表情を浮かべる。


「ねえ、カイ」


 その呼び方が、妙に重く響く。


「君はさ……

 “今”を見てるつもり、なんだよね?」


 その問いに、即答できなかった。


 見ている。

 確かに、見ている。


 だが——。


 ティアは続ける。


「でもね。

 それ、本当に“世界”を見てる?」


 カイの胸に、言葉にならない違和感が積もる。


 これまで、疑ったことはなかった。

 止まったのは世界だと。

 異常なのは外側だと。


 だが今、初めて別の可能性が脳裏をかすめる。


 ——もし。


 止まっていたのが、世界ではなく。

 動けなくなっていたのが、自分自身だったとしたら?


 観測ログの警告が、再び脳裏に蘇る。


 ――観測主体:固定


 固定されているのは、世界じゃない。

 時間でもない。


 “観測している側”だ。


 カイは、自分の手を見る。

 確かに動く。

 だが、その動きは、いつも世界の後を追っている。


 理解が、半拍遅れる。

 実感が、半拍遅れる。


 そして気づく。


 自分は、追いつけないのではない。

 最初から、置いて行かれていたのだ。


 世界は、ずっと進んでいた。


 止まっていたのは——

 “君が見ている世界”の方だった。

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