第90話 仕様に書いてない
――確かめる必要があった。
カイは、例の広場の中央に立っていた。
噴水。
石畳。
行き交う人々。
視界に入るものは、すべていつも通りだ。
欠けた像も、濡れた地面も、
行き交う足取りの速ささえも。
だが今回は、最初から意図が違う。
世界に合わせるつもりはなかった。
用意された流れをなぞる気もない。
(……外れる)
それを、分かったうえでやる。
カイは歩き出した。
道を選ばない。
分岐にも向かわない。
目的地を持たないまま、
“進行として意味を持たない動き”を重ねる。
歩幅を変える。
急に立ち止まる。
人の流れと逆に進む。
秩序に対して逆らうのではない。
ただ、噛み合わない動きを続ける。
世界が「処理できる行動」として
解釈できない振る舞い。
その瞬間だった。
音が、消えた。
噴水の水音が途切れ、
呼び込みの声が途中で止まり、
足音が、宙に置き去りにされる。
広場全体が、
一斉に息を止めたかのように静まり返る。
人々が、止まっていた。
中途半端な姿勢。
開きかけの口。
踏み出しかけた足。
時間だけが、
突然、切り離されたようだった。
カイは、ゆっくりと周囲を見渡す。
(……来たな)
これまでにも、
歪みやズレは感じてきた。
だが、ここまで露骨なのは初めてだ。
世界は今、
次に何をすればいいか分からず、
動けなくなっている。
そのとき――
一歩、足音が響いた。
乾いた石畳を踏む、はっきりとした音。
カイは、思わず振り向く。
動いている。
広場の端に、少女が立っていた。
淡い色の服。
細い手足。
少しだけ、所在なさげな立ち方。
彼女だけが、
この停止から外れている。
彼女だけが、
“今”を生きていた。
少女は、固まった人々を見回し、
不思議そうに首を傾げる。
「……あれ?」
それから、カイを見る。
「ねえ」
少し困ったような声。
「それ……
やっちゃダメなやつ?」
カイは、一瞬、言葉を失った。
「……どうして分かる?」
問い返すと、
少女はすぐには答えなかった。
視線を泳がせ、
凍りついた広場をもう一度見渡す。
止まった噴水。
動かない人々。
変化しない空。
それから、小さく肩をすくめた。
「だって……」
言葉を選ぶように、
ゆっくりと続ける。
「ここ、
そういうふうに作られてない」
背筋に、ぞくりとした感覚が走る。
(……感じ取ってる)
理屈じゃない。
説明でもない。
この世界が
「どう扱われる場所なのか」を、
感覚として掴んでいる。
それは、
ここに生きている人々には
あり得ない理解だった。
カイは、携帯している計測表示を開いた。
――環境状態:停止
――進行処理:中断
――異常原因:特定不能
表示は淡々としている。
そして、
少女が立っている位置を指定する。
対象:少女
……何も出ない。
数秒待っても、
反応はなかった。
代わりに、
無機質な文字列が浮かび上がる。
《該当対象:未定義》
カイは、静かに息を吐く。
(……やっぱりな)
記録されない行動。
保持されない結果。
そして今、
定義されない存在。
カイは、少女をまっすぐ見つめて言った。
「……君」
「この世界の人じゃないな?」
少女は、一瞬きょとんとした顔をして、
それから少しだけ笑った。
照れたような、
でもどこか懐かしむような笑顔。
「うん」
即答だった。
否定も、迷いもない。
「でも——」
少女は、止まった広場を見回す。
動かない人々。
止まった噴水。
変わらない空。
それから、柔らかく言った。
「ここ、好きだよ」
その言葉は、
この世界にとって、致命的だった。
評価でもない。
役割でもない。
必要性でもない。
ただの、
個人的な感情。
世界の仕組みの中に、
一行も書かれていないもの。
カイは、はっきりと理解した。
この少女は、
例外ではない。
不具合でもない。
完全な異物だ。
この場所の内側で
生まれた存在ではない。
観測にも、
修正にも、
最初から含まれていない。
それなのに――
今、ここに立っている。
世界が、
最も想定していなかった形で。
停止した空間の中で、
二人だけが動いていた。
やがて、
遠くで、きしむような音がした。
世界が、
再び動き出そうとしている。
カイは、視線を空へ向ける。
止まっていた雲が、
ほんのわずかに揺れた。
だが、もう遅い。
世界は気づいてしまった。
書かれていない存在がいることに。
そして、
それを“好きだ”と言える存在がいることに。
カイは、静かに呟く。
「……始まったな」
少女は、よく分からないまま、
それでも隣に立っていた。
――この世界で初めて、
世界の外から来た存在が、
下層に立っていた。




