第89話 彼女だけが、止まらなかった
――戻された。
感覚だけで分かる。
視界が反転し、
音が途切れ、
次の瞬間、世界が何事もなかったように再開する。
もう何度も経験した流れだ。
思考より先に、身体が理解している。
カイは、例の広場に立っていた。
噴水。
欠けた像。
石畳に刻まれた模様。
すべて、いつも通り。
露店の男は、決まった順序で品を並べ、
通行人は、決まった速度で通り過ぎていく。
笑い声。
呼び込み。
足音。
過不足がない。
寸分の狂いもない。
完璧だ。
――完璧すぎる。
(……また、最初からか)
カイは静かに息を吐き、周囲を見回した。
世界は、正常に動いている。
正確に。
誤差なく。
時間も、人の流れも、
すべてが「続き」ではなく
「再び始まった」ように見えた。
処理は完了。
修正は成功。
――のはずだった。
そのときだ。
ほんのわずかな違和感が、
視界の端に引っかかった。
一拍、遅れている。
動きが。
視線が。
反応が。
カイは、そちらへ視線を向ける。
広場の隅。
少女が、一人立っていた。
十代前半だろうか。
淡い色の服。
華奢な体つき。
だが、その立ち姿だけが、
この場の空気と噛み合っていない。
周囲の人々が、
何事もなかったかのように動き出している中で、
少女だけが、
止まりかけている。
きょろきょろと、周囲を見回している。
まるで、
「今がどの時点なのか」を
確認しているかのように。
そして、小さく呟いた。
「……あれ?」
声は、確かにこの場にあった。
だが、その出るタイミングが、わずかにずれている。
「……さっきと、違う」
カイの心臓が、ひとつ強く脈打った。
(……今の)
(聞き間違いじゃない)
少女は、誰にも向けずに呟いている。
周囲の誰も、それに反応しない。
独り言だ。
だが――
その独り言が、致命的だった。
人は、
この場の流れを疑わない。
「同じだ」という前提で動き、
「違い」に気づかない。
それなのに、この少女は、
“違い”を口にした。
カイは、ゆっくりと歩み寄った。
周囲の音は変わらない。
警告もない。
空気が張りつめることもない。
世界は、
この接近を問題として扱っていない。
少女の隣で、足を止める。
「……君」
声をかける。
少女は、びくりと肩を揺らし、こちらを見上げた。
目が合う。
その瞬間、
確信が走る。
(……見てる)
(この子は)
(“流れ”じゃなく、今を)
少女は少し戸惑った表情で、
周囲をもう一度見回した。
「……変だよね」
「みんな、同じことしてる」
カイは、喉が鳴るのを感じた。
この発言自体が、
この場所では致命的なズレだ。
人は、自分たちの動きを疑わない。
「同じ」という感覚を、意識に上らせない。
「……君」
カイは、声を落として尋ねた。
「今、何回目だ?」
少女はきょとんとした顔で、
しばらく考え込む。
すぐに答えない。
言葉を探している。
数秒。
いや、もっと長く感じられた。
やがて、首を傾げる。
「わかんない」
即答ではない。
用意された言葉でもない。
考えた末の返答だ。
少女は続ける。
「でも……」
少しだけ、眉を寄せて。
「初めてじゃない気がする」
その言葉が、
静かに、確実に、世界の前提を崩した。
音は消えない。
背景も歪まない。
だが――
何かが、成立しなくなった。
(……あり得ない)
カイは内心で呟く。
同じ場所に戻されても、
同じ時間に巻き戻されても、
違和感を保持している。
記憶としては曖昧だ。
出来事を説明できるほど明確じゃない。
だが、
感覚が残っている。
カイは、ゆっくりと息を吐いた。
(……彼女だけが)
(止まっていない)
周囲の人々は、
時間と一緒に戻る。
行動も、反応も、
すべてが“再び始まる”。
だがこの少女は、
完全には戻りきっていない。
再開が、
一拍遅れている。
カイは、静かに理解する。
これは偶然じゃない。
不具合とも違う。
(……例外だ)
(この世界の流れに、
最初から馴染んでいない存在)
少女は再び周囲を見回し、
小さく息を吸った。
「ねえ……」
不安を含んだ声。
「ここ、
前にも来た気がするんだけど……」
言いかけて、言葉を止める。
何かに引っかかっている。
だが、形にならない。
カイは、静かに答えた。
「……たぶん、来てる」
少女は驚いたように目を見開く。
「ほんと?」
「ああ」
嘘はついていない。
彼女が、
ここに立っていること自体が、
その証明だった。
その瞬間。
遠くで、
噴水の水音が一拍ずれた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
世界が、
何かに気づきかけている。
カイは少女から目を離さず、
小さく呟いた。
「……やっと、見つけた」
世界が拾わない存在。
流れに回収されない存在。
それでいて、
確かに、この場所に立っている。
彼女だけが、
止まらなかった。
少女は、まだ自分が何者か分かっていない。
だが、
この違和感だけは、確かだ。
名前は、まだ口にしない。
だがカイの中で、
その存在はすでに一つに結びついていた。
世界が終わらない理由。
終わらせられない理由。
その中心にいるのは――
間違いなく、この少女だ。
広場は、いつも通りに回り続けている。
だが今、
その中心に、
回っていない一点が生まれた。
世界は、まだ気づいていない。
だが、
気づいたときには――
もう、戻れない。




