第87話 選ばなかった場合
――選択が、意味を持たない。
頭では理解していた。
予想もしていた。
だが実際に突きつけられると、
背中をなぞるように、冷たいものが走る。
カイは通りの端に立ち、
目の前の光景を静かに観察していた。
二人の男が言い争っている。
一人は露店の店主。
もう一人は客だ。
原因は単純だった。
代金を払ったか、払っていないか。
どちらも譲らない。
声は次第に荒れ、
周囲には人だかりができ始めている。
よくある光景だ。
下層では、珍しくもない。
これまでなら――
カイは迷わず、間に入っただろう。
事実を整理し、
感情を落ち着かせ、
どちらかに非があるか、
あるいは双方が飲める妥協点を探した。
それが「正しい行動」だと、
疑ったことはなかった。
だが、今日は違う。
(……テストだ)
カイは、一歩も動かない。
この場面は、
極めて分かりやすい二者択一だ。
・店主が正しい
・客が正しい
あるいは、
第三の妥協案を提示する。
――必ず、誰かが選ぶ。
それが、この世界の正規ルートだ。
カイは、そのどれも選ばない。
視線を外し、
背を向け、
静かにその場を離れた。
(……何も入力しない)
胸の奥で、
わずかな緊張が膨らむ。
世界はどう反応する?
それとも、反応しないのか?
数分後。
カイは通りの向こう側から、
再びその場所を見た。
争いは、終わっていた。
人だかりは解散し、
露店は何事もなかったかのように営業を再開している。
客の姿はない。
店主は、
少し不満そうではあるが、
怒りを引きずっている様子もない。
(……決まった、か)
近くにいた通行人に、
何気ない調子で尋ねる。
「さっきの揉め事、どうなった?」
通行人は肩をすくめた。
「さあ?
でもまあ……店の言い分が通ったんじゃないか?」
「よくある話だよ」
――よくある。
その言葉が、
胸の奥に、ひっかかる。
つまりこれは、
最も波風が立たない結論。
客が引く。
店は続く。
騒ぎは終わる。
誰も深く傷つかず、
街の流れは乱れない。
(……なるほどな)
カイは、観測ログを開いた。
淡い文字列が、
視界の端に静かに浮かぶ。
――選択入力:未確認
――待機時間:超過
――デフォルト処理:実行
《選択未入力
→ デフォルト処理実行》
一瞬、
思考が止まった。
(……本当に、そういう仕様か)
乾いた感覚が、
胸の奥に広がっていく。
これは偶然じゃない。
人の判断でもない。
世界が、自動で決めている。
カイは歩きながら、思考を整理する。
この世界は、
常に「選択」を要求してくる。
誰を助けるか。
どちらが正しいか。
どう解決するか。
だがそれは、
“意味ある決断”を求めているわけじゃない。
ただ、
入力を待っているだけだ。
誰かが選べば、
それを処理する。
誰も選ばなければ――
世界が選ぶ。
しかも、
最も無難で、
最も安全で、
最も進行に影響が出ない選択を。
(……選ばない自由すら)
(許されてない、ってことか)
別の場所でも、
同じテストを行った。
分かれ道。
二つのルート。
どちらも進めそうに見える。
カイは立ち止まり、
何も選ばず、引き返した。
数分後。
その先を確認すると――
片方の道が、
「工事中」の表示で塞がれていた。
もう一方だけが、
通行可能になっている。
理由は不明。
だが結果は同じ。
一択に、されている。
観測ログが、淡々と補足する。
――選択未入力
――環境補正:実施
――進行ルート:確定
(……徹底してるな)
この世界は、
選択を尊重しているようで、
実際には尊重していない。
重要なのは、
「進むこと」だ。
誰が決めたかは、
重要じゃない。
カイは、低く息を吐いた。
「……ゲームかよ」
思わず、そう漏れる。
だが、笑えなかった。
ゲームなら、
プレイヤーがいる。
ルールがあり、
目的があり、
終わりがある。
だがこの世界には――
終わりがない。
入力がなくても進行する。
選択がなくても結果が出る。
世界は、
人を待っているようで、
実際には待っていない。
カイは立ち止まり、空を見上げた。
雲は動かない。
太陽の位置も変わらない。
時間は進む。
だが、意味は進まない。
(……なら)
(本当に必要なのは)
(入力じゃない)
(想定外だ)
正規ルートの選択。
用意された分岐。
それらを拒否しても、
世界は勝手に進む。
ならば――
進めない行動を取るしかない。
選ばない、では足りない。
世界が選べない状況を作る。
カイは、静かに決意する。
自分がやるべきことは、
正解を選ぶことじゃない。
世界の入力欄そのものを、
壊すことだ。
カイは歩き出す。
次のテストへ。
世界が
「想定していない行動」だけを、
探すために。




